第四十五話
一平太は、開店前の浴場に立っていた。まだ誰もいない。湯は静かに満ちている。
制御盤の前で、一度だけ手を止めた。これを触る理由は、説明できない。
問題は起きていない。事故もない。数値も、基準内だ。
それでも――
一平太は、設定を呼び出した。
温度。循環。
ほんの少し前の状態。昨日までの、さらにその前。
「……戻そう」
独り言のように言って、操作を確定する。
表示が切り替わる。警告は出ない。異常もない。
湯口から流れ出る湯を、しばらく見つめる。見た目は、変わらない。
それでも、一平太は動かなかった。
指先で、湯に触れる。あたたかい。
少しだけ、違う気がした。
気のせいかもしれない。そう思おうとした。
開店時間になる。
最初の客が入ってくる。挨拶を交わし、いつも通りに案内する。
しばらくして、湯船から声がした。
「……ああ」
短い声だった。独り言のような。
一平太は、何も言わない。
次の客が上がってくる。
「今日は、いいな」
それだけ言って、番台を通り過ぎた。
理由は聞かなかった。
昼を過ぎる頃、湯船の周りに人が集まり始める。賑わいというほどではない。ただ、空いてはいない。
一平太は、湯船を見た。
湯は、昨日と同じはずだ。数値も、同じだ。
それでも――
湯が、戻ってきている気がした。




