第四十四話
一平太は、暖簾をおろした浴場に一人で残っていた。
湯船の縁に腰を下ろし、何もせずに湯を眺める。 仕事としての確認は、もう終わっている。
今日は、特に何も起きなかった。 苦情もない。 事故もない。
それでも、一日の終わりに、ここに座ってしまう。
思い返すと、最近は同じ時間に来る客が減っていた。顔ぶれが、少しずつ変わっている。
来なくなった人の顔の方が、思い出せる。
「気のせい、か」
口に出してみる。自分に言い聞かせるように。
湯に手を入れる。あたたかい。いつもと、変わらない。
それなのに、一平太は手を引っ込めた。
理由は説明できない。
サラスの言葉が、ふと頭をよぎる。数値は問題ない。むしろ、安定している。
正しい。全部、正しい。
だからこそ、言いづらい。
一平太は立ち上がり、湯船を一周した。 湯口、排水、循環。全部、いつも通りだ。
それでも、どこか落ち着かない。
番台の奥で、回数券の束に目が止まった。一枚、角が揃っていない。
いつもなら、今日使われていたはずの券だ。
一平太は、それを指で揃えた。几帳面に。
湯船から、かすかな音がする。循環の音だ。
止まっていない。ちゃんと動いている。
それが、少しだけ怖かった。




