第四十三話
翌日、サラスは少し早く出勤した。
浴場はまだ静かで、準備の音だけが響いている。 一平太は湯の様子を見ていて、エレノアは帳簿を確認していた。
「おはよう」
いつも通りの挨拶。誰も、昨日のことを話題にしない。
サラスはしばらく迷ってから、エレノアのそばに立った。
「……聞きたいことがある」
エレノアは顔を上げる。その目は、すぐに“仕事の顔”になった。
「何?」
「この湯、変わったと思う?」
一瞬の沈黙。
エレノアは、すぐには答えなかった。 帳簿を閉じ、湯船の方を見る。
「数字の話?」
「いや」
サラスは首を振った。
「そうじゃない」
エレノアは小さく息を吐いた。
「じゃあ、難しいね」
それだけ言って、少し考える。
「私は……」
「変わった、とは言えない」
サラスの胸が、わずかに沈む。
「でも」
エレノアは続けた。
「最近、湯船に長く入る人、減った気はする」
それは、断定じゃない。観測に近い言葉だった。
「理由は分からない」
「文句を言う人もいない」
サラスは頷いた。
「昨日、親子が来た」
「子どもが、すぐに上がった」
エレノアは何も言わない。続きを待っている。
「数値は問題ない」
「むしろ、安定してる」
言いながら、サラスは自分の言葉に違和感を覚えた。
「でも……」
そこで、言葉が止まる。
エレノアは、急かさなかった。
「湯は、同じだと思う?」
サラスは、すぐに答えられなかった。
昨日、手を入れた感触を思い出す。あたたかさ。変わらないはずの感触。
「……分からない」
それが、精一杯だった。
エレノアは、少しだけ笑った。
「分からないって言えるなら、まだ大丈夫」
サラスは、その言葉の意味を考えた。
湯は、今日も循環している。何事もなかったかのように。
ただ、昨日までとは違って見えた。




