第四十二話
サラスは、誰もいない浴場に立っていた。
営業は終わっている。 照明は落とされ、最低限の明かりだけが残っている。
湯は、今日も同じように循環していた。 温度、成分、流量。 どれも基準値から外れていない。
サラスは制御盤に触れ、記録を呼び出す。 昨日。 一週間前。 ひと月前。
数値は揃っている。 むしろ安定していた。
「……問題、ない」
声に出してみる。確認のためだ。
それでも、湯船から目を離せなかった。
湯は、変わっていない。少なくとも、計測できる範囲では。
だが、今日の親子のことが、頭から離れなかった。子どもが、湯に触れてすぐ引っ込めた足。理由を言わなかった沈黙。
あれは、温度の問題じゃない。成分でもない。
サラスは一度、制御盤から手を離した。
湯船の縁に腰を下ろし、手を入れる。 ゆっくりと、指先から。
あたたかい。いつもの湯だ。
それでも、胸の奥に引っかかるものがある。
効率化。最適化。無駄の削減。それらが間違っているとは思わない。必要なことだ。
ただ――
湯は、本当に「必要なだけ」でよかったのか。
サラスは手を引き上げ、水滴を見つめた。指の間から、静かに落ちていく。
その一滴が、なぜか惜しく感じられた。




