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第四十一話
その日は、親子連れが一組だけだった。
父親は慣れた様子で受付を済ませ、子どもに靴を脱がせる。 特別な会話はない。 観光でも、記念日でもなさそうだった。
浴場に入ると、子どもは一度だけ湯船を見た。 それから、洗い場に腰を下ろす。
「先に体、洗おうか」
父親の声に、子どもは頷いた。
湯気の向こうで、湯は静かに揺れている。 温度も、色も、いつもと同じだ。
子どもは足先を伸ばし、湯に触れた。 すぐに引っ込める。
「どうした?」
首を振る。 理由は言わない。
しばらくして、二人は湯船に入った。 だが長くは続かなかった。
「もういい」
子どもが小さく言った。
父親は少し迷い、それから頷いた。
「じゃあ、今日は上がろうか」
脱衣所で着替えを終えると、父親は一平太に軽く会釈をした。何も言わない。苦情も、感想もない。
親子が出ていったあと、浴場は静まり返った。
湯船には、まだ十分な湯が残っている。
誰にも触れられないまま、湯は循環を続けていた。




