第四十話
その客は、いつもより長く湯船に浸かっていた。
常連だ。 回数券を使い切る前に次を買うような人で、特別に話すことはないが、顔と背中は覚えている。
湯から上がると、脱衣所で腰を下ろし、しばらく扇風機の前に立っていた。 服を着終えたあとも、帰る様子がない。
「今日のお風呂どうでした?」
思わず、一平太が声をかけると、客は少し困ったように笑った。
「うん……悪くはないんだよ」
その前置きに、一平太は何も返さなかった。
「気のせいかもしれないけどさ」
「前は、もうちょっと……こう、なんていうか」
客は空中で手を動かし、言葉を探した。
「包まれる感じ、あった気がして」
サラスはそのやり取りを、少し離れたところで聞いていた。
「今日が悪いってわけじゃない」
「ぬるいとか、そういうのでもない」
客は慌てて付け足す。
「だからさ、ほんとに、ただの気分だと思う」
一平太は、いつも通りに笑った。
「そういう日もありますよ」
客は「だよな」と頷き、会釈をして帰っていった。
入口の扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
「……変わってないよな」
一平太が言った。
湯温も、成分も、循環も。 記録上は、昨日と同じだ。
サラスは答えなかった。
湯気の向こうで、湯は静かに揺れている。 昨日と同じように。
それでも、何かが、少しだけ違っていた。




