第三十九話
最初に変えたのは、温度だった。
「一度、〇・五度だけ下げよう」
エレノアの提案は、控えめだった。
実験でも改革でもない。
様子見だ。
「問題は出ないはず」
データは、そう言っている。
ノーマンは頷いた。
一平太も、反対しなかった。
〇・五度。
ほとんど誤差だ。
開店前、制御盤で設定を確認する。
表示は正常。循環も問題ない。
湯気は、いつもと同じように立ち上った。
昼過ぎ、一人目の常連が出てきた。
「今日は、少し優しいな」
笑って言う。
「そうですか?」
「うん。悪くない」
一平太は、胸をなで下ろした。
夕方まで、大きな変化はなかった。
苦情もない。
数値も安定している。
――成功だ。
そう思った矢先だった。
「……あれ?」
番台の横で、ノーマンが立ち止まる。
湯口から出る湯を、じっと見ている。
「どうしました」
「いや」
浴室に入り、一度、手を入れて、引っ込めた。
「冷たいわけじゃない」
言葉を選ぶ。
「ただ……遅い」
循環が、わずかに鈍っている。
数値は基準内。
警告も出ていない。
それでも、
湯の“戻り”が、ほんの少し遅れた。
閉店後、配管を確認する。
「問題なし」
エレノアは端末を見ながら言った。
「想定内よ」
「……そうか」
ノーマンは、それ以上言わなかった。
翌日。
同じ設定で営業を始める。
昼過ぎ、別の客が言った。
「今日は空いてるね」
「そうですね」
「まあ、いいけど」
それだけだ。
夜、若い客が出てきて、首をかしげた。
「なんか、長く入ってた」
「え?」
「出るタイミング、分かんなくて」
笑い話のようだった。
だが、一平太の胸に、引っかかった。
閉店後、ノーマンが口を開く。
「湯が、教えてくれない」
「……何を」
「上がり時だ」
一平太は、黙った。
〇・五度下げただけ。
循環も、ほんのわずか。
それでも、
湯の“輪郭”が、ぼやけている。
「戻すか?」
ノーマンが聞く。
エレノアは、少し考えた。
「もう一日だけ、様子を見たい」
正しい判断だった。
数字は、まだ崩れていない。
誰も、間違っていない。
それでも一平太は、
湯船を見つめて、違和感を拭えなかった。
湯は、まだ熱い。
だが、いつもと同じではなかった。




