第三十六話
暖簾を出したあと、一平太は一度だけロビーを見回した。
違和感はない。
掃除も終わっているし、湯も張ってある。
湿度も温度も、いつも通りだ。
それでも――。
ロッカーの前が、少しだけ静かだった。
鍵のぶつかる音が、ひとつ、ふたつ。
以前なら、もっと重なっていたはずの音だ。
「今日は、早いですね」
そう言ったのは、常連の男だった。
開店してすぐの時間に来るのは珍しい。
「ええ」
一平太は、曖昧に笑った。
男は何も気にした様子もなく、脱衣所へ向かう。
その背中を見送りながら、一平太は湯船に目をやった。
湯面は、静かだった。
昼前になっても、混み合う気配はない。
空いている、というほどではない。
ただ、詰まっていない。
それが、妙に落ち着かなかった。
「今日は楽だな」
誰かが言えば、それで済む程度の差だ。
一平太自身も、忙しさが減ったことを悪いとは思っていない。
身体は楽だ。
仕事も回っている。
それなのに、時間が余る。
エレノアは事務スペースで端末を操作していた。
数字を追い、メモを取り、次の予定を確認する。
「回転、悪くないわね」
独り言のように呟いて、画面を閉じる。
実際、売上は極端に落ちていない。
まだ「問題」と呼ぶ段階ではない。
ノーマンは、カウンターで湯上がりの客にタオルを渡していた。
会話は短く、いつも通り。
ただ、視線だけが、ロビーの空間を測るように動いている。
午後、風呂から上がった客が、何気なく言った。
「最近、他でも入れるんだよな」
「そうなんですか」
「仮設のやつ。水、余ってるらしくてさ」
笑い話のような口調だった。
特別な意味はない。
不満でも、宣言でもない。
ただの、近況報告。
「へえ」
一平太は、それ以上聞かなかった。
夕方になっても、混雑はしなかった。
ピークの時間帯が、少しだけ、平らになったような感覚。
湯は減らない。
温度も落ちない。
それなのに、
湯船の中にいる人の数が、少ない。
閉店作業の時間、一平太はいつもより早く片付けを終えた。
「今日は、楽でしたね」
そう言うと、エレノアは頷いた。
「悪いことじゃないわ」
正しい。
何も間違っていない。
ノーマンは、何も言わなかった。
湯を落とすと、配管を流れる音が、建物の中に響く。
その音が、やけに大きく感じられた。
空間が、広い。
一平太は、その広さを、しばらく感じていた。
想の湯は、その日も問題なく営業を終えた。
――少しだけ、空いていただけだ。




