第三十五話
こんなことが
開店前の想の湯は、静かだった。
一平太は湯船の縁にしゃがみ込み、温度計を覗く。
表示に異常はない。湯気の立ち方も、匂いも、配管の音も、変わらない。
「よし」
それだけ言って、立ち上がる。
バルブをひねると、配管の奥から湯の流れる音が返ってきた。
火星の朝は冷える。
だが、この音を聞くと、今日も始まるのだと分かる。
ロビーでは、エレノアが端末を操作していた。
数字を確認し、指を滑らせる。
「補給は?」
「問題ありません」
短いやり取り。
それ以上は必要なかった。
暖簾を出すと、ほどなく最初の客が入ってくる。
いつもの顔だ。軽く会釈をして、脱衣所へ消えていく。
「今日は静かですね」
一平太が言うと、ノーマンはカウンターの奥から曖昧に頷いた。
「そういう日もある」
それだけだった。
湯船に人が入ると、水面が揺れる。
一平太は、その揺れを見ていた。
いつもより、少しだけ、ゆっくりに見えた。
昼前、壁面モニターが自動で切り替わる。
音量は低いまま、映像だけが流れた。
聞き慣れない研究用語が、淡々と並ぶ。
効率、循環、安定――そんな単語が、背景音のように過ぎていく。
「へえ」
湯上がりの客が、牛乳瓶を持ったまま言った。
「水、余るらしいですよ」
一平太は、返事をしなかった。
牛乳瓶についた水滴が、指先を伝って落ちるのを見ていた。
「そうなんですか」
少し遅れて、そう言う。
水は、必要なものだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも、一平太にとっては。
エレノアは端末を一度だけ確認し、すぐに視線を戻した。
業務連絡が一件増えただけだ。
ノーマンは、モニターを見ていなかった。
カウンターに表示された数字を、もう一度だけ確認する。
午後になっても、客は途切れなかった。
多くもないが、困るほどでもない。
湯は、いつも通りに沸いている。
一平太は営業の終わりに、もう一度だけ湯を確かめた。
バルブを調整すると、湯が流れる音が、少し大きく響く。
その音を聞きながら、彼は先ほどの言葉を思い出す。
水が、余る。
その言葉が、頭の中に残ったままだった。
想の湯は、その日も、何事もなかったように営業を終えた。




