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湯船始めました。  作者: 世良美素
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第三十二話

ゆるりと

 憩の湯・会議室。

 古びた丸テーブルを囲む顔ぶれは、いつもと変わらない。

 違うのは、空気だけだった。

「……もう一度言って」

 エレノアが言った。

 声は低く、感情をきれいに削ぎ落とした響きだった。

「火星方面で、液体の水が――」

 ユーリは一瞬だけ言葉に詰まり、それから続ける。

「――出回り始めている、という話です。正式な発表はまだですが、研究施設関係者の間では……」

「ストップ」

 エレノアは片手を上げた。

「“液体の水”って言ったわよね?」

「はい」

「凍結水じゃなく?」

「はい」

「輸送用の高密度水でもなく?」

「……はい」

 エレノアは、深く息を吸った。

「……冗談じゃないわ」

 一平太は首を傾げた。

「え? でも水が増えるのって、いいことじゃないっすか?」

「よくない!」

 即答だった。

「私たちの商売は、“水が貴重であること”が前提なの。

 液体の水なんて――」

 言いかけて、エレノアは言葉を飲み込んだ。

「……それが当たり前になったら、想の湯はただの“広い浴槽”よ」

 ローグが椅子にもたれ、腕を組む。

「噂話だろ。まだ」

「噂でも、よ」

 エレノアは立ち上がり、ホワイトボードに乱暴にペンを走らせた。

『水=高価』

『輸送=利益』

『銭湯=価値』

 そして、迷いなく×を引く。

「この前提が崩れたら、全部ひっくり返る」

 ノーマン社長は黙っていた。

 いつもの飄々とした笑顔はない。

「どこからの話だい?」

「火星方面です。植物研究系の施設が絡んでいるらしい、という程度で……」

「“らしい”が多いね」

「はい。確定情報は、まだ」

 沈黙。

 一平太は、その重さに耐えきれず口を開いた。

「……でも、仮に水が安くなっても、風呂は気持ちいいっすよね」

 誰も否定しなかった。

「……問題はね」

 エレノアが言った。

「“気持ちいい”だけのものに、

 誰が金を払うかって話よ」

 会議室の外から、湯の流れる音が聞こえてきた。

 配管を通る、いつもの音だ。

 想の湯は、今日も変わらず営業している。

 ――まだ、何も起きていない。

 だが、水の値段だけが、静かに揺らぎ始めていた。

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