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8.だんまり

 愛美さんを先頭に、オレたちは座席を離れる。

 あれれ?愛美さんは、出口へ向かう観客の流れに逆流して舞台側へと向かう。そのまま、一番前のドアから劇場の廊下へ。

「あの……こっちは、出口じゃないですよね?」

 心配になって……加奈子さんに尋ねてみた。

「ふふっ、当たり前でしょ!」

 加奈子さんは、軽く笑う。綾女さんはオレの方を向いてくれないし、愛美さんの表情は何だか硬い。

 オレたち、どこへ行くんだ?!

 そのまま……劇場の廊下を真っ直ぐに突っ切って……。

 愛美さんは、壁の突き当たりの『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた鉄のドアを、ギィと押し開いた!

「愛美さん。それ、勝手に開けるのはマズイんじゃ?!」

 『関係者以外立ち入り禁止』なんだし。

「いいのっ!」

 愛美さんは、一言そう答えてくれただけ。

「……大丈夫だから」

 綾女さんが、チラッとオレに振り返る。

「無関係ではないからね、わたしたち……」

 加奈子さんも、ニコッと微笑んでくれた。

「あの。それって、どういうことですか?」

「歌舞伎の世界ではね、劇場に来たお客様が、俳優さんの『楽屋』を訪問するのは普通のことなのよ……ほら!」

 加奈子さんが指し示すドアの向こう……いわゆる、バック・ステージには、長い廊下に、俳優さんの楽屋が幾つも並んでいた。まだ、本番が終わったばかりだから、舞台衣装のままの俳優さんや黒衣の格好をした人たちが、うろうろしている。

 あ……加奈子さんの言うとおりだ。確実に、観客としか見えない人も歩いている。この人たちはみんな……贔屓にしている俳優さんの楽屋を訪ねるんだ。

 あ……そっか。愛美さんたちも、綾女さんのお義兄さんの芳沢三十郎に挨拶しに来たんだな。今日は、三十郎さんの奥さん……綾女さんのお姉さんの瑛子さんにチケットを手配して貰ったんだし。オレの分は、招待券にしてもらってる。

 このまま楽屋に挨拶しないで帰ってしまうというのは……とても失礼なことなのかもしれない。こういう世界の『常識』は、オレにはよく判らないけれど……。

 でも、オレも一緒に来ちゃって良かったのかな?オレ一人だけは、他の人と違って、三十郎さんと面識があるわけじゃない。完全に部外者なわけだし。

「あの……愛美さん。オレ、外で待ってましょうか?」

 と、恐る恐る、聞いてみると、

「いいから、付いて来なさいっ!」

 ちょっと声が怖い……。

 まあ、しょうがない。招待にしてもらったオレの分のチケットのことは、やっぱりオレが自分で瑛子さんにお礼を言うべきだよな。元アナウンサーで、人気歌舞伎俳優の奥さんに、オレみたいのが、直接話し掛けるのは失礼かもしれないけれど……。

 ……ん?

 何だ……この匂いは?

 歌舞伎のバック・ステージは……白粉と役者さんの汗が混じった独特の匂いがした。

 ふっと、廊下の奥の舞台の方を覗いてると、まだ芝居の熱気が……あちらこちらに、籠もっているような感じがした。

 廊下に貼られている案内板に、『浴室→』というのが見える。

 そうか。歌舞伎の劇場には、風呂場があるんだ。そうだよなあ、全身に白粉を塗りたくったりしてるんだもんな。あんなの、お風呂場でなけりゃ落とせないよな。

 うん……眼に入ってくるもの、全てが珍しい。とっても、興味深い。

 こんな所……もう一生、来られないんだし。気分を切り替えて、気楽に見学させて貰おう。

 オレは、そう思った。

「……ここよ」

 愛美さんは、草緑色の暖簾の掛かった楽屋の前で立ち止まった。

 楽屋前には、またしても、清香さんが先回りしている。清香さんも、ご挨拶かな。

 清香さんは、無言のまま……スッと愛美さんに頭を下げる。

 愛美さんも、真顔でうんと頷く。加奈子さんと綾女さんにも、目配せして……。

 ……どうしたんだ?何かあるんだろうか?

 楽屋口の暖簾には、茄子の絵と何やら漢字が染め抜かれている。

 『緑郎左衛門賛江』。

 あれっ?!ここって、もしかして。芳沢三十郎さんの楽屋じゃない?

「先生、愛美さんがいらっしゃいました」

 清香さんが、楽屋の中の人に取り次いでくれた……。

 なぬ?先生って……誰?!

「……うむ、入って貰いなさい」

 部屋の中から、年輩の男の低くて渋い声が聞こえる……。

「さあ、恵ちゃん。行くわよっ」

 愛美さんは、何だかとても緊張している。

 愛美さん、綾女さん、加奈子さん、オレの順番で暖簾を潜る。

 中は……畳敷きの和室になっていた。思っていたよりも、広い。

 履き物を脱ぐ『次の間』になっている所に……紺色の和服を着た若い男の人が二人控えていた。多分、お弟子さんとか、付き人さんとか……そういう人に違いない。

 奥の座敷の方を覗いてみると、使い込まれた年代物の鏡台の前に……誰かいる?!

 ……あわわわわっ!!!

 それは……さっきの『髪結新三』の大家さんだった!

 芝居の時の衣装のまま……化粧もそのままで。

 その『老優』は、どっしりと……部屋の主として、そこに座していた!

「先生……本日は、お招きいただきましてありがとうございます」

 加奈子さんと綾女さんが、サッと老優に頭を下げた。

 オレも……頭を下げる。

 ……これって。

 この俳優さんが、加奈子さんたちを招待したってこと?

「うむ、よく来てくれました。楽しんでくれましたか?加奈子ちゃん、綾女ちゃん!」

 老優の眼が、ギロリとオレを睨んだ。まるで「お前なんか呼んだ覚えはない」と言わんばかりの……強烈な視線!

「お祖父様……こちらが、山田恵介さんです!」

 愛美さんが、かしこまってそう言った。

 ……お祖父様だって?!!!

そそそそ、それって???!!!

「そうか、君が山田くんですか」

 老優は、そう言うと……ぷいと、鏡台の方へ視線を戻す。

「もうっ、お祖父様ったら、お化粧もお落としにならないで……!」

 そんな祖父に……愛美さんは、心配そうな顔でそう言った。

「いや何……お前たちが、いつ来るか判らなかったのでね。風呂へ行かずに待っていたんだよ」

 老優は、平然と言い訳するが……。

「嘘ですわ。舞台から降りていらして、カツラもお外しにならないなんてことがあるわけありません。あたしたちを脅かそうと思って、ずっと衣装のままで待っていらっしゃったんでしょ?」

 ニタァと、子供の様に笑う……老優。

「は……バぁレたかっ!」

 歌舞伎の口調で茶化して見せるが……口元は笑っても、その眼は笑っていない。

「ちょっと脅かしてやろうと思ってね」

 やっぱり、オレは……歓迎されてない。

「まあいいだろう。みんな、そんな所に突っ立ってないで、中へお入りなさい」

 緊張した面持ちの愛美さんが……オレに小さく頷いた。

「失礼致します」

 加奈子さんが、一番先に靴を脱いで楽『次の間』に上がる。

「さあ……恵介さん」

 オレに振り向いて、ニコッと笑ってくれた。オレも、一緒に畳に上がっていいのだと。加奈子さんは、わざわざオレに声を掛けてくれた。

 だから、オレは覚悟を決める。靴を脱いで……『次の間』に上がった。

 次に、綾女さん。最後に……老優の親族である、愛美さんが靴を脱ぐ。

「そんな端っこに揃ってないで、みんなこっちの部屋に入りなさい」

 『次の間』に立っていたオレたちを……老優が、楽屋の座敷の中に呼ぶ。

 老優の楽屋は……六畳の広さだった。

 愛美さんが、加奈子さんと綾女さんに目配せする。

 そのまま順に、座敷に入って、正座する。オレも、並んで正座した。

 何か……みんなで怒られているみたいだ。

「犬助……お前は、しばらく楽屋の前で番をしていなさい」

 老優は、『次の間』に控えていたお弟子さんの一人に命令する。

「いいですか……僕が良いと言うまでは、決して誰もこの部屋に通してはいけませんよ。特に三十郎、あいつにはくれぐれも勘付かれないようにしておくれ。後で何かと言ってくると煩いから」

 芳沢三十郎が、何を言ってくるというんだろう?

 犬助と呼ばれたお弟子さんが……「承知いたしました、旦那」と言うと、スッと頭を下げて楽屋の外へ退出していく。

「それから、猿助。すまないが、お前さんは僕のカツラを外しておくれ。やっぱり、このままでは、ちょっと頭が重い」

 と……もう一人のお弟子さんが、『次の間』からソソソと座敷の中へ入って、老優の背後に廻る。

「失礼致します、先生」

「……うむ」

 お弟子さんが……うやうやしく、老優の頭からカツラを外す。

 カツラの下からは、頭全体を覆う白い布地が現れた。羽二重というものらしい。

「ふぅ……楽になった。ありがとう、猿助」

 猿助さんは、カツラを木製の台に乗せている。

 間近に見る老優の顔。こうしてカツラを外すと、舞台で観た時の印象よりも、もっと年長のように感じた。七十歳を、幾らか越えているくらいか?身体も細く、痩せていることが判った。

「はい、どうぞ」

 清香さんが、老優とオレたち全員にお茶を出してくれた。

「……うむ、ありがとう」

 老優は、清香さんに礼を言う。

 ズズッ……と、お茶を飲む老優。その仕草も、歌舞伎の演技の一部みたいだった。

「では、ここから先は、清香くんも席を外して下さい。猿助、お前もだよ」

「はい、先生」

「失礼致しやす」

 お弟子さんと清香さんが……老優に頭を下げて楽屋から退出していく。

 出る時に、座敷と『次の間』を仕切る襖をパタッと閉めていく。

 密室の中に五人だけが残った。老優と愛美さん、加奈子さん、綾女さん……そしてオレ。

 ひどく緊張した雰囲気の中で……しばらく沈黙が続いた。

 お茶に手を付けているのは、老優だけだ。

 オレたちは正座したまま……黙って、老優がお茶を飲み終わるのを待っている。

 ……やがて。

 老優の強烈な視線が、突然、オレに向けられる……!

「……仲代緑郎左衛門です」

 老優が、オレに一礼する。

 ナカダイ・ロクロウザエモン……それが老優の名前らしい。

「や、山田恵介です」

 とにかく……よく判らないけれど、オレもご挨拶してみる。

「……で、君は本当に僕の孫なのかね?」

 老優は、いきなり核心に触れた!!!

「それは……オレには、良く判りません」

 そうとしか、今のオレには答えられない。

「……判らない?!」

 老優は鋭い眼で、ギギッとオレを睨む。

「判るはずがありません。祖母は、オレに何も教えてくれないまま亡くなりましたから!」

 オレは……その老優の眼を、睨み返した。

 こんな風にプレッシャーを掛けられる筋合いは無い。だいたい……愛美さんたちが、怖がっているじゃないか。

「うむ、まあ、そうだろうね……君としては、そう答えるしかないのだろうね」

 老優は、冷たい眼で、オレを見ている。どう扱うべきか……オレを計りかねているようだった。

 いずれにせよ、オレが訪ねてきたことを喜んでいないということは、よく判った。

「恵ちゃんは、お祖父様の孫です。あたしの弟です!」

 オレと老優の間に……愛美さんが割って入る。

「恵ちゃん、ごめんなさい。お姉ちゃんは……別に、恵ちゃんを騙そうとしたわけではないの。どうしても、恵ちゃんをお祖父様に会わせたかったから」

 ……愛美さん!

 今考えれば……幾つもヒントはあった。


1.そもそも愛美さんが、オレを歌舞伎の劇場に連れてきたということ。

2.加奈子さんの言葉……日舞と歌舞伎は、絶対に切れない間柄にある。日舞の家元と歌舞伎俳優が、縁戚関係がある可能性なんて……ちょっと考えれば想像できたことだ。

3.綾女さんの言葉……あなたも、あたしの『遠縁』であることに間違いは無い。綾女さんのお姉さんの旦那さんが歌舞伎俳優なんだから……愛美さんの血族が歌舞伎俳優だとしても全然おかしくはない。


 ……以上のことから推察すると。

 この『老優・仲代緑郎左衛門』さんが、オレの父方のお祖父さんというのは本当なんだろうな……。

 あまり、感動は無い。むしろ……「何だかなあ」って気分になっている。

「ごめんね……恵ちゃん、怒ってる?」

「……怒ってませんよ」

 別に、怒るようなことはない。ただ、ここでオレは、この老優に対してどう振る舞うべきなのか……それが判らない!

「愛美、お前はしばらく黙っていなさい」

 老優が……穏やかな口調で、孫娘を制した。

 続いて、他の少女たちを見る……。

「まずは、加奈子ちゃん、綾女ちゃん」

 加奈子さんが、頭を下げる。

「……はい」

 綾女さんは……黙ったまま、老優を見ている。

「いつも、うちの愛美と仲良くしてくれて本当にありがとう。僕は、君たちにとても感謝しています……しかし!」

 老優の眼が、大きくギョッと開く。小さい子なら、ワッと泣き出してしまいそうな迫力があった!

「今回のことは、ちょっとやり過ぎです。友達思いなのは有り難いが、あまり感心できることではありませんね」

 加奈子さんが、スッと顔を上げる。

「お言葉ですが、先生……!」

 その顔は……やんわりと微笑んでいた。

「ん……何かね?」

 老優が、グッと加奈子さんを強く見つめる。

「確かに、事前にご相談せず……突然、この場に恵介さんをお連れしたことはお詫びいたします。しかし、わたしたちがこういう機会を設けなければ、先生は恵介さんに会っては下さらなかったでしょう?」

「……そんなことはない」

 老優は……一言で否定した。

「愛美から、この子のことを問いただされた後……僕も気になって彼について調べさせていたところです。財前くんの法律事務所とも連絡を取っています……いや、驚きました!」

 そう言うと……老優は座布団を外して、畳の上に座り直した。

「君には、大変申し訳ないと思っています!」

 と……オレに深々と頭を下げる?!

「えっと……あの……?!」

 突然の老優の行動に……オレは、頭が付いてこない。

 な、何で、愛美さんのお祖父さんが、オレに頭を下げるわけ?!

 そんなオレの様子を無視して……老優は、つらつらと喋り始めた。

「もちろん、僕は……息子に君という『隠れた存在』がいるということは、前々から知っていました」

 知っていたんだ……『隠し子』のことは。

「しかし、君の生活環境や、息子が君にどんな形の援助をしているかというような『細かい事柄』については……今回、財前くんに聞くまで、僕はまったく知りませんでした」

 この人の息子……つまり、オレの父親。オレの母親にオレを産ませて……捨てた。

「僕はねえ……君のことは、息子が『ちゃんとやっている』のだろうと、そう思っていたんです。息子を信じていました。だから、僕は……君のことは息子の『個人的な問題』であって、親が横から口出しするようなことでは無いと考えていたんです。息子は、すでに立派な成人しているわけですし」

 息子の『個人的な問題』だから……親が口出しすることではない。

 つまり……この人は、遠回しに、オレは自分の『孫』ではないと言っている。

「しかし……まさか、何もかも財前くんの事務所に任せきりにしているなんて……いや、驚きました。正直、息子には裏切られたという心境です。彼にはさっき、電話で強く叱っておきました……」

 その言葉で……ハッと気付く。この人が歌舞伎俳優ということは、もしかして……その息子も?!

「あいつは今、京都の劇場に出ていましてね。来月、東京に戻って来た時には、改めてきちんと話しておきます」

 ……そうか。だから。

 ……母親の遺品に、歌舞伎の雑誌があったんだ。

「恵ちゃん、前に『お父様には、どうしても会いたくない』って言ってたでしょ。今月なら、お祖父様とお父様は同じ舞台には出演なさらないから……」

 先に……祖父にオレを会わせるために……。

 それで愛美さんは……。

 今日……オレをこの劇場へ連れて来たんだ。

「君の現在の状況については、財前弁護士から詳しく報告書を送ってもらいました。お祖母さんのことは残念でした……それでなんですがね」

 老優は……一人、淡々と話し続ける。

 まるで、これも一つの『お芝居』であるかのように……。

「息子のやる事は、もう信用できません。そこで今後の君の面倒は、全て僕が見ることにしようと思います。僕は、歌舞伎・仲代家の当主です。どうか、僕の言葉を信用していただきたいと思います」

 何か……テレビで、政治家が話しているのを聞いているようだった。

 この言葉には『心』がない。

 ただ業務として……仕方がないから、話しているだけにみえた。

「つきましては、君の進学と就職について……これは、全て僕に任せて下さい。決して悪いようにはしません。また、君の大学卒業までの学費と生活費については、僕が完全に保証します」

「いえ、あの……!!!」

 いたたまれなくなって……つい、声を発してしまった。

 オレ、こんな話をしに、わざわざ来たんじゃない……!

「いいえ……君が、遠慮する必要は一切ありません。これは僕の家長としての義務です。息子の不始末は、僕がどうにかしなければならない。こればかりは、きちんとやらせてもらいます!」

 当主……責任……家長……義務。

 この人は、『仕方がないから、お前の世話をしてやる』と言っている。

 むしろ、『施してやる』という方が近いのかもしれない。

 オレの誕生を『不始末』だと言った……。

「その代わりというのも何ですが……君に一つだけ、僕と約束していただきたいことがあります」

 ああ。何を言われるのか……何となく判った。

「君が、僕の『孫』であるということ……僕の息子の『隠し子』であるということは、今後、一切、誰にも公表しないと約束して下さい!」

 やっぱり……そういうことか。

「それから……愛美のことも、決して自分の『姉』だは思わないで下さい。君と愛美は、あくまでも『他人』です。そして、できることなら、もう二度と、愛美とは会わないでいただきたい!」

 老優の言葉は……どこまでも冷徹だった。

「お祖父様っ、あたし、そんなこと納得できませんっ!」

「お前は黙っていなさい」

「いいえ、黙りませんっ!」

 孫娘は、祖父に真っ向から立ち向かう!

 老優は……静かに口を開いた。

「判っているだろう……お前とこの子では、生きている世界が違うんだよ」

「世界?!」

 愛美さんの瞳が、大きく見開かれる。

 そうだ……世界が違う。

 それは、この数日、ずっと、オレが、思ってきたことだ。

 愛美さんを見る度に……知る度に。

 自分と愛美さんを……比較して……!

「お前は歌舞伎役者、仲代家の娘として生まれ……同時に、日本舞踊・紺碧流の家元の血筋を引いている。普通の人間ではない。伝統を受け継いでいくという重い責務がある!」

祖父の言葉が、愛美さんの心に暗く深く染み渡っていく!

「そんなこと……お祖父様に言われなくても判っています……あたしっ!」

 それでも、彼女は……祖父に強く自分の思いを伝えようとする。

「それなら恵ちゃんだって……お父様の子供です。お祖父様の孫です!」

 ……だけど。

「いいや、この子は違う。彼は、僕の孫ではない!」

 ……そうだ、違うんだ。

「お祖父様?!」

 愛美さんの顔が……青ざめる。

「この子は……『隠し子』だ」

 ……隠し子。

「仲代家にとっては、『存在していない子』……いや、決して『存在を認めてはいけない子』だ」

 存在してはいけない子供。それが……オレなのか。

「お祖父様、それではあんまりです。恵ちゃんは……!」

 愛美さんは、涙を零しながら祖父に言う……。

「判るだろう、愛美。二度と会わないことが、お前とこの子にとって一番良い選択なんだよ!」

「そんなことありませんっ!」

 愛美さんは……ブルブルと身体を震わせて、強く祖父に抗議する。

 その眼には……涙が。

 オレは、彼女の涙を見ただけで充分だった。

「……もう、いいですよ、愛美さん」

「恵ちゃん?!」

 ハッとして、愛美さんがオレに振り向く。

「いいんです……もう」

 愛美さんが、どれだけ抗議したところで……こんなことは、どうにかなるというような話ではない。

 オレは……この老優に、完全に『拒絶』されているのだから。

「……山田君、だったね」

 老優が……改めて、僕に向き直る。

「はい」

 オレは真っ直ぐに、老優を見た。せめて、堂々とした態度でいよう。

「愛美が……君に色々と迷惑を掛けたと思う。この子が、君に過度の期待をさせるような発言をしていたとしたら……大変申し訳ない」

 ……オレは。

「いいえ。オレは、別に……特に何も、期待なんてしてませんでしたから」

 老優の力強い視線に負けないように……オレは、ギッと見返す。負けるもんか。

「そうかね」

「……はい」

 そうだ。オレは、最初から。こんなことは『夢』だと思っていた。

 死んだバァちゃんの言ってた通りだ。

 他人を……信じてはいけない。

「愛美は、僕の孫にしてはよく出来た……いや、出来すぎた子です。この子は、子供の頃からいつもおとなしく、年長者の言うことを何でも素直に従います。我が儘を言ったことなどは、これまで一度もありません」

 それは、オレの印象にある愛美さんとは……全然違う。

「まあ、早くから親元を離れて……祖父母の家に暮らしているからなのだろうと思っています。良い子すぎて……時には、もっと子供らしく、僕らに何でも望んで欲しいと思うこともあるくらいです」

 老優の強い視線が……再び僕を貫く。

「愛美は、君という存在を知って……まるで、本当に『弟』ができたように嬉しかったのだろうと思います。この子が、僕に内緒で君に会いに行った。ここへ君を連れてきた。それは、お友達の協力もあったのでしょうが……それでも、この子が僕に相談をしないで、こんな勝手な振る舞いをするのは意外でした。この子が、自分の意志で独自の行動をしたところを見たのは、これが初めてかもしれません。僕もできることなら、この子の気持ちを尊重してやりたい」

 オレの知っている姿とは違う……本当の愛美さん。

 大人の言うことに決して逆らわない……そんな人なのか。

「しかし……君も、少しは判っていると思いますが……この子は、特殊な環境の中で多くの人間の期待を背負っています。本当にたくさんの人間が、この子の将来に賭けています」

 日本舞踊『紺碧流』家元候補……現在の家元の孫娘。

 誰もが才能を認める少女……三善愛美。

「この子に期待している人間は……もちろん良い人間ばかりではありません。中には悪い人間もいます。この子は、この若さで、すでに様々な人々の思惑や野心の渦の中で毎日を過ごしています。過酷な重責を負わせていることを、正直、僕は不憫に思っています」

 祖父の言葉に、愛美さんの小さな肩が、震えている。

「だからこそ……僕は、仲代家の主として、この子の未来に禍根を残すようなことはできません。君という存在は、やがてはこの子の未来に影を落とすことになるでしょう」

 『隠し子』。家元の祖母の……もう一人の孫。

「もちろん、必ずそうなるとは限りませんが……君というイレギュラーな存在を放っておけば、やがて紺碧流の一門の中に混乱を生むことになるだろうと思います」

 家元の家にとって……オレは不名誉な存在だから。

「愛美は、きっと将来家元を継ぐことになります。今、君を僕の孫と認めてしまえば……いずれは愛美と親しい関係を得たいばかりに、君を取り込もうとする勢力が現れます。無理にでも、君と結婚しようとする不埒な輩さえ現れるでしょう」

 老優の推測は正しい。そんな輩は、すでに現れている……この部屋の中にもいる。

「そういう混乱は、未然に防がねばなりません。そんなつまらないことが引き金になって、愛美の将来に傷を付けるようなスキャンダルに発展するのは困ります」

 老優が……愛美さんを見る。その眼差しには、厳しさの中に家族に対する情愛が見えた。

 オレを見る眼とは……違う。

「だから……山田君。僕は絶対に、君を僕の孫とは認めません。法律的、あるいは生物学的には、君は僕の孫なのかもしれませんが……決して君は、僕の『家』の人間ではない」

 そんなことは……判っている。

「君は『他人』です。あくまでも『他人』として扱います。どうか、そのことだけは理解していただきたい」

 理解も何も、最初から、オレは……。

 この人たちを『家族』だなんて思っていない……この人たちに、何も望んでいない。

「僕が『君を認めない』と世間に宣言することで……愛美への悪影響を最低限にすることができます。仲代の当主に認められないのならば……君の存在が明らかになったとしても、無理に君と関係を結ぼうという輩はいなくなるでしょう。だから、そうします。そうしなくてはいけない。そして……君も愛美とは『他人』であるということをきっちりと守っていただきたいと願います。このケジメさえ守っていただけるのなら……僕は幾らでも君に援助します。金は惜しみません。どうでしょう……そういうことで、納得していただけませんか?」

 老優の言葉は、穏やかだった。

 しかし……その眼は、オレに「納得しろ」と強く訴えている。

 そう広くはない楽屋の中が、何だか妙に寒々しく感じた。緊張した静寂が、ゆっくりと拡がっていく。

 ……ちくしょう。そうだよな。

 不名誉な『隠し子』に、血のつながりなんて何の意味も無い。

 愛美さんたちみたいに……オレに、優しくしてくれる人の方が珍しいんだ。

 これが、普通の対応なんだ……世の中の大人の。

 うん……実に判りやすい。

 とっても、判りやすくて泣けてくる。

 この老優は、決して悪い人じゃない。この人は、自分の愛する孫娘を、守りたいだけなんだ。

 そして……息子のしでかした『汚点』であるオレには、一片の愛情も持っていないということを、正直に話してくれてた。

そうすることで、これが……世の中の現実的な対応であることを、はっきりオレたちに教えてくれている。

 わざと、オレに嫌われるように……愛美さんの前で、悪役を演じてくれている。そうすることで、オレの憎悪が老優だけに向き、愛美さんへの逆恨みが起こらないように。

 これはこれで……立派な大人の正しい姿なんだろう。それは判る。

 適当に耳障りのいい嘘をつかれるよりは、よっぽどいい。

 厳しい対応をしてくれて……助かる。ありがたいとさえ、思う。

 その上……愛美さんの二人の親友にも、この場に立ち会わせることで『これ以上深く関わるな』と、釘を差している。

 これは仲代家の……『紺碧流』全体に関わる問題なのだと。

 愛美さんの個人的な気持ちで……どうにかできることではないのだと示している。

 ……うん。

 さすが……名優だ。

 全ての行動、言葉の裏に、ちゃんと意味がある。

 だから……この人が、オレをずっと援助してくれるという話も信頼できる。

 この人は自分のプライドにかけて……オレとの約束を守り続けてくれるだろう。

 …………だけど!!!

 プライドなら、オレにだってあるッ!

「あの……今日は、本当にありがとうございました」

 オレは……老優に頭を下げた。

「お芝居は、本当に面白かったです。こうしてわざわざ会ってもいただいて、本当に心から感謝します!」

 オレの心は……冷たく凍り付いていた。

 今ここで何をすべきか、何を成すべきかは、はっきり判っていた。

 オレは……死んだバァちゃんの孫だ。

 バァちゃんなら、きっとこうする!!!

「オレのことについて、色々とお気遣いをしていただいて本当にありがとうございます。でも、オレ……自分の『家族』でない人からお金を恵んでいただくことはできません。その必要もありません。オレは、乞食ではありませんから!」

 バァちゃんなら、きっとこう答える!オレのバァちゃんなら!!!

「あなたの息子さんにも……『養育費は中学を卒業するまででいい』と伝えて下さい。中学さえ出れば義務教育は終了です。これから先は、自分で働いて自分の金で生活していきます。誰の面倒にもなりません!」

 オレは……親父と母親に捨てられた。育ててくれたバァちゃんも、もういない。

 オレはもう、天涯孤独なんだ。その『現実』を……受け入れる。

 『他人』なんかに助けてもらうもんか!

 『他人』なんかに、情けを掛けられてたまるか!

 ……ちくしょう!!!

「……恵ちゃん、ちょっと待って!」

 愛美さんが……真っ青な顔で、オレを止めようとしてくれる。

 でも、オレはもう、この人に甘えることは、許されない。

「愛美さん。これまで、オレに優しくして下さって、本当にありがとうございました。あなたに会えて良かったと思います」

「……恵ちゃん?!」

 愛美さんが……怯えた眼で、オレを見る。

「本当に……感謝しています。でも、これっきりです。もう、二度とオレに会いに来ないで下さい」

「恵ちゃん、そんなこと……言わないでよっ!」

 愛美さんの大きな瞳に、くわっと涙が溜まっていく!

 オレだって泣きたい。でも、泣くもんかっ!泣いてたまるもんかっ!!

「日舞……がんばって下さい。オレ……応援していますから。ずっと……!」

 オレは……もう、限界だ。

 ここには……いられない。

「……オレ、帰ります」

 そう……老優に挨拶した。

「待ちたまえ……清香くんに車で送らせよう」

 老優は、そう言ってくれるが……。

「結構です……電車で帰ります」

「……帰り方は判るのかね?」

 正直、この建物が何処にあるのかさえ、よく判っていない。

「大丈夫です……オレ、もう大人ですから」

 だけど……ここは突っ張る。弱みを見せてはいけない。

「せめて……車代だけでも受け取ってくれないかね?」

 車代って……タクシー代のことか?

 オレ……とことん馬鹿にされているんだな。

「電車代くらい持ってますから」

 ここから二千円で……帰れるだろうか?いや、足りなきゃ歩けばいい。地面は繋がっているんだ。何時間掛けても、歩いて帰れないことはない!

「失礼しましたっ!」

 オレは、バッと立ち上がって、楽屋の出口へ向かう。

 オレの背後で、「うわぁぁ!」と愛美さんが泣く声が聞こえた。

 それでも……オレは、振り向かない。

 愛美さんの顔を見たら……きっと未練が残る。

 次の間の下に、脱いだままのオレの靴が見えた。

 愛美さんや加奈子さんたちの靴は……綺麗で高価そうな革靴だ。

 その中に……オレの薄汚れた運動靴がクタッとしている。

 綺麗で高価な物の中の……安物の『汚物』。それが、今のオレの姿だ。

 急いでここから立ち去ろう。

 そして、忘れよう……愛美さんのことは、もう…!

 そう思って、靴を履こうとした瞬間……!!

「……待てぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!」

 オレは、突然、制服の首の後ろを思い切り引っ張り上げられたッ!!!

 それは……綾女さんだった。

 背の高い綾女さんが……オレのシャツの首根っこを、グッと掴んでいる!

「……な、何?!」

 そのまま……力任せに、グィッ!と引き上げられるッ?!

「愛美を泣かせるなぁぁぁぁッッ!!!」

 ……うわわわわっ!!

 もんどりかえって、畳の上に投げ落とされる、オレ!

 もの凄い怖い顔で……綾女さんが、上からオレを睨んでいる!!!

「あ、あの、綾女さんっ?!」

 オレが、そう言うと……。

「……愛美に謝れっ!愛美を泣かすやつは、あたしが許さないっ!」

 再び、グイッとオレを掴み上げる

「ちょっちょっ、ちょっと待って!!!」

 そのまま……綾女さんは、力任せにオレを突き飛ばすッ!!!

 ……あわわわわわっ!

 オレの身体は、楽屋の壁に強く打ちつけられて、そのままズデーンっと、畳の上に倒れ込むッ!!!

「痛ててててッ!」

 さらに綾女さんの手が、オレの胸ぐらをガッと掴む……その瞬間!!!

「やめなさい、綾女さん……!」

 それは……加奈子さんの声だった!

「高塚綾女さん。もし、あなたが、これからもずっと愛美ちゃんの側にいるつもりなら、こういう場で取り乱してはいけないわ。最低よ……あなた!」

 加奈子さんは、穏やかに話しているが……その言葉には、熱い怒りが込められていた。

「……ご、ごめんなさい」

 オレのシャツから、綾女さんの手が離れる……。

「……恵ちゃん!」

 すかさず愛美さんが、オレと綾女さんの間に飛び込んでくる!

「大丈夫、恵ちゃん……?!」

 畳の上に倒れて転がっている……オレ。

 そのすぐ真上に……愛美さんの綺麗な顔がある。

 優しい顔。悲しげな……美しい顔。

 熱い何かが……ぽたりぽたりと、オレの頬に零れて弾ける。

 それは、愛美さんの涙だ。温かい涙が……オレの上に降ってくる……。

「お、オレは……大丈夫ですから」

 ようやく……それだけが言葉になった。

 すると、愛美さんは、すっと身体を起こして……。

 そのまま、お祖父さんの前に正座する。

 ……そして。

 深く深く。畳に、額をこすりつけるほど深く……祖父に、頭を下げた。

「お祖父様……これまで、愛美をお慈しみ下さいまして、ありがとうございました」

「……ま、愛美?」

 突然の孫娘の態度の変化に……老優は、狼狽する。

「愛美は、もうお祖父様の所に置いていただくわけには参りません……今夜からは、恵ちゃんの家で、恵ちゃんと一緒に生活していきます」

 ……ま、愛美さん?!

「これからは……愛美が、毎日、恵ちゃんのご飯を作って……恵ちゃんのお世話をします。恵ちゃんを高校に行かせるために、愛美が外で働きます……!」

 どうして?……どうして、そうなるんだよ?!

「あたしは……一生、恵ちゃんを守ると、恵ちゃんのお祖母様のご霊前にお約束しました。ですから……あたしは!」

 バァちゃん……天国のバァちゃん…!

 この人は……本当に、いい人だよ。優しい人だ。

 だけど……だけど……だけど!

 オレは、そんなことを望んではいないッ!!!

 オレ、どうしたらいい?!オレ、どうしたらいいんだろ……!

 ……バァちゃん!!





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