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7.まくあい

「恵ちゃん。次の幕の『鏡獅子』っていうのは舞踊劇だからね!」

 カップに入ったコーヒーを飲みながら、愛美さんがオレに言う。

「……舞踊劇?」

「踊りだけど……ちゃんとストーリーがあって、俳優さんが役を演じているのよ」

「踊りながら、セリフを言ったりするんですか?」

「そういうことは無いけれど……この舞踊劇の踊りは、日本舞踊だからね!」

 そ、そう言われても。

「あの……歌舞伎と日本舞踊って、どういう関係なんです?」

 オレの問いに、愛美さんがニコニコして答える。

「歌舞伎の踊りを、一般化したものが日舞よ。元々、歌舞伎の振り付け師が、町の娘たちに舞台での踊りを教えたのが、日舞の各流派の起源だから。今でも、歌舞伎の舞踊に振り付けをするのは、日本舞踊の舞踊家のお仕事になっているのよ。そういう関係だから、日本舞踊と歌舞伎はとても近しいのよ……!」

 そっか。だから愛美さんは、日舞の家元になるために、毎月何度も歌舞伎を観に来ないといけないんだ……。

「……そろそろ始まるわ」

 綾女さんがそう呟くと……。

 ブーッ!という開演を知らせるブザーが、観客席に響く……。

 『休憩』の表示ランプが……消えた。

 座席を離れていた観客が、わらわらと戻って来る。

「恵ちゃんは、こういう舞踊が中心のお芝居を観るのは初めてでしょう?気楽に楽しんでね……!」

 愛美さんは、そう言ってくれるけれど……。

 はてさて……面白いのかな?

 また、オレが寝ちゃったら……愛美さん悲しむだろうなあ。

 どんなに眠くなっても、今度は必死で起きていないと……。

 ……だけど。

 どう考えても……そんなに面白くはなさそうだよなあ、『踊り』なんて……。

 音も無く……スーッと、幕が上がる……。

 開演だ……はあ、気が重い。

 なんて……思ってたら……。

 始まってみると……。

 これが何と……!

 お、面白いっ……!

 最初に出てきた若い女性……っていっても歌舞伎だから、もちろん男の俳優が女性を演じているんだけど……その女の人が踊っているうちに『獅子の霊』に取り憑かれる。

 そんで『獅子の化身』というか……白くて長い毛のカツラを被った、何かよく判らない物の怪みたいなものに変化したら……これがもう、俳優さんが踊る、踊る、ものすごい勢いで踊りまくるッッ!

 ダイナミックというか……凄まじいテンションというか。メチャメチャに激しく踊っている!

 同じ俳優さんが演じているのに、女の役の時には、女らしく……本当に『本物の女』にしか見えないような女性的な仕草で……。

 ところが、それが『獅子の化身』になると……これはもう、力強い男というか、『獅子の化身』そのものに成り切って踊っていく……。

 しまいには……頭の白くて長い毛を、ぐるんぐるん振りまくり、回しまくって!!!

 ……な、な、な、何だこれっ!

 言葉では、上手く説明できないんだけど……。

 とにかく、何か、底抜けにスゴイッッ……!!!

 凄いものを見せつけられている!!!

 そう思っているうちに……舞踊劇は、終わった!


「どう、恵ちゃん、面白かった?」

「……お、面白かったですッ!」

 思わず……愛美さんに叫び返してしまった。

「あの……今、踊ってた俳優さんて、もしかして?」

「……芳沢三十郎」

 綾女さんが、ぼそりと答えてくれた。つまり……綾女さんのお姉さんの旦那さんだ。

「さっきの『勧進帳』には出ていませんでしたよね?」

「……歌舞伎の役者は、別に全ての演目には出演するというわけではないから」

「そうね。その日の演目が三本なら、出演するのはそのうちの二本とかよね……」

 綾女さんの言葉に、加奈子さんが補足してくれた。

 へえ……そういうものなんだ。

「オレ、テレビじゃ、三十郎さんが踊っているところとか、女の格好しているところとか観たことなかったから……びっくりしました」

「そうね。歌舞伎の役者さんは、テレビと舞台とでは雰囲気が違うかもねっ!」

 オレが興奮しているので、愛美さんも喜んでくれている。

「すごいカッコ良かったです!!」

「……良かった。恵ちゃんに気に入ってもらえて。『鏡獅子』の他にも、もっと色々、面白い舞踊劇があるのよ。また今度、観に来ましょうねっ!」

 愛美さんは、そう言ってくれるけれど……オレがまた、この劇場に来ることはもう無いだろう。オレは、そう決めている。

 劇場の壁の休憩時間を告げる表示が、また点灯している。

 ……一つの演目が終わる度に、休憩があるんだ。

 その間の時間で……次の舞台の美術にセットを交換したり、俳優さんが次の芝居の支度をしたりしているんだな。色々、判ってきたぞ。

「恵ちゃん。この休憩時間が、お食事の時間よ」

 ……食事?

 そうか、今日は三本立てだから、これが最後の休憩になる。ご飯を食べるなら、この時間で済ませないといけないんだ。

「さあ、行きましょうか?!」

みんなに号令を掛けるのは……いつも、加奈子さんの仕事らしい。



   ◇ ◇ ◇



 オレたちは……座席を離れて、劇場のロビーへ向かう。

 さっきは、開演時間が迫っていからよく見られなかったけれど……。

 大きなガラスケースの中に……大きな博多人形みたいな人物像が置かれていた。

 これって、さっきの『鏡獅子』の『獅子の化身』の格好だな。……等身大の人形なのかな?いや……実物大よりも、二廻りくらいは大きいと思う。

「これは、六代目さんよ」

 と、愛美さんが教えてくれた。

「……六代目さん?」

 何の六代目なんだ?

「歌舞伎の世界で『六代目さん』って言えば、『六代目尾上菊五郎』のことを指すのよ」

 加奈子さんが、そう教えてくれた。

 はあ……こんな像を作って貰ったぐらいだから、きっとすごい名優さんなんだろうな。

「六代目さんの『鏡獅子』は本当に素晴らしかったそうよ。ジャン・コクトーが絶賛したそうだから」

 加奈子さんの言葉に、オレは戸惑う。

「ジャン・コクトーって誰ですか?」

 オレの質問に……加奈子さんは微笑む。

「何て説明したらいいのかしら。フランスの芸術家で……詩人で小説家で劇作家で画家で映画監督で……」

「どれが、本職だったんです?」

「どれも本職よ。芸術家なんだから」

 そんな……それを一人で全部をやり通すことなんて、できるのか?

「……昔のフランスの有名な芸術家……そう思っておけば、間違いない」

 綾女さんが、そっけなくオレに言った。

 やっぱり、この人……オレのこと、嫌いなんじゃないだろうか?!

 一階ロビーから、エスカレーターで二階へ上がる。

 そのフロアには……レストランやお弁当屋さん、お土産物屋さんなんかが並んでいた。

「……あの、どこへ行くんです?」

 オレは、愛美さんに尋ねる。

「すぐそこに、自由にお弁当を食べてもいい場所があるのよ」

 ちょっと、ホッとする。これでもし……レストランとかに入るんなら、どうしようかと思っていた。さてと……お弁当、お弁当。手ぶらで来たんだから……どこか、その辺のお店で買うんだろうな。

 このご飯代はせめて、自分の分は自分で払おう。

 もう、今持っている二千円は、この場で使ってしまう覚悟はしている。

 なあに……三日間ぐらい、一日一食にすれば何とかなるだろう。

 さっき愛美さんには、コーヒーを御馳走になってるし……。

 と……思っていたら!

 売店で売っているコーヒーの値段を見て、オレはびっくりする!

 二百六十円?!カップ一杯で……!!!

 さっき飲んだコーヒーって……そんな値段なんだ?!

 そ、そうか。愛美さんは、この値段を知っているから……。

 一緒に買いに来ると……オレが遠慮して「要らない」と言い出すと思って……それで、オレを席に残したまま、買いに行って来てくれたんだ。

 ……ま、待てよ。

 コーヒーが、こんなに高いのなら……ここで売っている弁当も?!!!

 二千円で買えるのか……?!!!

「こっちよ、恵ちゃん!」

 立ち止まって、売店の様子を見ていたオレに……愛美さんが、声を掛ける。

「清香さんが待っているから!」

 そうだ……清香さんは、2階の2等席で歌舞伎を観ていたんだっけ。ここで合流して、一緒にご飯を食べるんだ。

「……愛美様、こちらです!」

 向こうの椅子が並んでいるところで……清香さんが手を振っている。

 『無料お休み処』の看板が出ていた。ああ……ここで食べるんだな。

「さあ……行きましょう!」

 加奈子さんが、オレの背中を押す。

 あれれ?!『無料お休み処』で、オレたちを待っていた清香さんは……すでに、全員分のお弁当とお茶を、すっかり用意してくれていた!

「あの……そのお弁当、お幾らですか?」

 おそるおそる聞いてみると、

「もおっ!恵ちゃんは、お姉ちゃんの弟なんだから、そういうことは気にしなくていいの!」

 愛美さんが……お怒りになる。

「……でも」

「でもじゃありませんっ!」

 チケット代はタダにして貰ってもコーヒーをご馳走して貰って、その上にお弁当までというのは……ちょっと、気が引ける。

「……いいから、黙って食べろ」

 綾女さんが……オレにそう言った。

「そうね、お食事の時はもっと楽しそうな顔をするべきね」

 加奈子さんも……。

「恵ちゃん、これは、お芝居の幕と幕の間に食べるから『幕の内弁当』って言うのよ!」

 愛美さんは、とっても楽しそうだ。

 でも、さすがに『幕の内弁当』の語源ぐらい、オレだってクイズ番組か何かで見て知っています。実際に食べるのは……これが初めてだけど。

 清香さんも入れて、五人で座ってお弁当を広げた。

 愛美さんと加奈子さんは……とても、よく喋る。

 清香さんは……聞き上手だ。

 綾女さんは、常にマイペースで……たまに友達二人の話に参加するくらい。

 何となく、このグループの中の人間関係が判ってきたような気がする。

「恵ちゃん、さっきからどうして黙っているの?」

 愛美さんが……オレを見る。

 それは……その。

「……いいから、喋って食べろ」

 綾女さん……あなた、さっき「黙って食べろ」って言ってたじゃないですか。

 オレが、そう抗議しようとすると。

「……あら、愛美、来てたの?!」

 不意に、オレたちの背後から声がした……。

 振り向くと……四十過ぎの派手に着飾ったオバサンがこっちにやって来る。

 エメラルドグリーンのスーツに、柄物のスカーフ。相当なお金持ちなんだろうな。若々しいというよりも……『若作りしてます』っていうような感じのオバサンだ。

 毎日、暇な時間にスポーツ・ジムとかに通って、必死にシェイプ・アップに心掛けているようなタイプの。

「……ご、ご無沙汰しています」

 愛美さんが……そのオバサンに暗い表情で頭を下げる。

「あら。何だ……そういうことだったのね」

 オバサンは、オレたちを一瞥して「フン」と鼻を鳴らした。

「いえね……今日に限って、入り口で瑛子さんがあたしに二階席のチケットを手配して下さったのよ。あの人、あたしが二階は嫌いなの知っているのに、どうしたのかしらって思っていたのよ……!」

 何が言いたいんだ……このオバサン?

「瑛子さんたら……あなたとあたしが劇場内で出くわさないように気を遣って下さったのね!」

 誰なんだろう?愛美さんと……どういう関係の人なんだろう?

 加奈子さんが、オレの耳にそっと囁いてくれる。

「この方……愛美ちゃんのお母様よ……!」

 ……え?!

 愛美さんのお母さんてことは……この人が、オレの父親の本妻だった人?!

 オレの母親は、この人の夫と浮気をして……オレが、生まれた。

「珍しいわね。愛美が学校の制服で劇場に来るなんて。いつも観劇の時は、お洒落しているのに!」

 その言葉で……全てが判った。

 愛美さんは、オレが、ロクな服を持っていないことを知っていたから……。

 だから、オレに恥ずかしい思いをさせないように……綺麗な服に着替えずに、わざわざ学校の制服のままで来てくれた。加奈子さんたちも、愛美さんに合わせてくれたんだ!!!

「……お久しぶりですわ、美世子おばさま」

 スッと、加奈子さんが前に出る。まるで、この口の悪い母親から……愛美さんを守るように。

「まあ、加奈子ちゃん、相変わらず綺麗ね……ところで、そちらの坊ちゃんはどなた?」

 オバサンの冷たい視線が……オレに向けられる。

「それ……天覧学院の制服ではないわね?!」

 うん……ただの、公立中学の学生服だ。三年着てるから、ズボンの布地がくたくたで、表面がてらてらしている……みっともない限りだ。

「愛美とは……どういう関係のお友達?」

 オレは、どう返事をしたらいいのか判らなかった。まさか、ここで……「あなたの夫だった人の隠し子です」って、自己紹介するわけにもいかない。

 ……すると。

「……わたしの親戚の子です」

 綾女さんが……オレの代わりにそう答えてくれた。愛美さんと加奈子さんは、黙っている。

 愛美さんのお母さんは……じろじろと、オレを見た。まるで、人間を値踏みするような、嫌な眼で。

「……あなた、何年生?」

 オレに……尋ねる。

「……中三ですけど」

 一瞬悩んだが……素直に本当のことを言った。

「本当に?」

 何だ、そりゃ!どうせ、小学生にしか見えないってんだろ。小学生が、中学の制服を着ているみたいで悪かったな……!

 そしたら……オバサンは。

「……まあ、いいわ。愛美と仲良くしてね」

 そう言って……愛美さんを見て、ニタッと笑った。とても、嫌な笑いだった。

「……美世子様、撫子先生からお言付けがございます」

 そこにスッと、清香さんが割り込んでくれる……。

「あら、何かしら…?!」

 上手い具合に……清香さんが、オバサンをオレたちから引き離してくれた。

 ……ふぅ。

「美世子おばさまは、青山でファッション関係の会社を経営していらっしゃるの。海外の新興ブランドを、日本のバイヤーに紹介するお仕事よ。今日は、会社のお得意様をお連れになったのね!」

 加奈子さんが、そっと教えてくれた。なるほど……同じように派手派手しく着飾った中年女性の一団がいる。

 愛美さんのお母さんは……勝手気ままに生きているような、自由な感じがした。何の苦労もしないで、毎日を楽しく過ごしているような。

 この人が……親権を持っている。それなのに、愛美さんを、ずっと父方のお祖父さんの家に預けたままにして、平然と暮らしている。恥じていない。むしろ、当然という顔をしている。

 もちろん……オレには、他人の家の複雑な家庭状況については、よく判らない。

 愛美さんは……母親に出会ってから、青白い顔をして、ずっと俯いている。

 ……お母さんのこと、苦手なのかな? 

「美世子おばさま……わたしたち、そろそろ席に戻りますので、これで失礼致します!」

 タイミングを計って……加奈子さんが、オバサンにそう言ってくれた。

「そう……じゃあ、またそのうちね、愛美!」

「はい、お母様……」

 とても、母娘とは思えない、よそよそしい会話。

 みんなでペコリと頭を下げて、とにかくその場から脱出する。

 清香さん一人に、オバサンを押しつけてしまったのは申し訳ないけれど……。

「……振り向かないで」

 加奈子さんが、オレに囁く。

「こっそり、恵介さんを見ていらっしゃるわ……美世子おばさま!」

 ……オレを?何で?

 とにかく、一階に下りるエスカレーターに乗る。ここまで来れば……もう、オバサンの視界から逃れられたはずだ。

 そうだ。綾女さんに、お礼を言わないと……。

「あの……さっきは、ありがとうございます」

「……何のこと?」

 綾女さんは、不思議そうな顔をして……オレに振り向く。

「オレのこと……『親戚の子』って誤魔化してくれたじゃないですか」

 すると……彼女は。

「……それ、嘘じゃないから」

 ……はい?

「……あたし、愛美の遠縁なの」

 遠縁?てことは……オレとも縁戚?!

「……愛美のお祖父様のお兄様の長男の孫の奥様のお兄様のお嫁さんが、わたしの姉」

 ……ええっと。あの、もう一回言って貰えます?

「とにかく……あなたも、あたしの『遠縁』であることに間違いは無いのよ」

 そう言うと……綾女さんはプイッと前を向いてしまった。

 ……あれれれ。

 こういう時は……加奈子さんだ。加奈子さんは、何でも教えてくれるから。

 と……思ったら。加奈子さんは、愛美さんと……何やら深刻そうな話をしている。

「……多分、美世子おばさまは、恵介さんのことお気付きになったと思うわ」

 ……それって。オレの正体に気付いたってこと?

「構わないわ。あの人には、どうすることもできないもの」

 愛美さんが、オレに振り向く。

「恵ちゃんは、心配しないでいいんだからねっ!」

 愛美さんの笑顔は、優しい。

 だけど……オレには、何を『心配する』のかさえ、よく判らない。

 まだまだ……オレの知らない秘密があるのか……。

 子供扱いは……そろそろ頭に来る……嫌になる……悲しくなる。

 愛美さん……本当にオレ……。

 あなたと、一緒に居ても……いいんですか?



   ◇ ◇ ◇



「恵ちゃん。最後の作品はね、約二時間のお芝居だからね」

 座席に戻った愛美さんは、無理に明るく、ちょっとだけお喋りだった。

「……お芝居?」

「そうよ……頭から終わりまでストーリーのある、一本の演劇作品よっ!」

 オレは……最初に貰ったパンフレットを開いてみた。……しかし。

「これ、何て読むんですか?」

 オレには……タイトルが、どう読んだらいいのか判らない。

 パンフレットには『梅雨小袖昔八丈』って書いてあるけど……。

「……つゆこそでむかしはちじょう」

 綾女さんが教えてくれた。

 何だ……そのまま読めば良かったのか。しかし……どういう意味なんだ、これ。

「このお芝居はね……正式な題名より、『髪結新三』っていう通称の方が有名なのよ」

 加奈子さんが、笑って教えてくれた。

 まあ、いいや。判らないことは、イヤホンで解説してくれるだろうし。

「あ、恵ちゃん、このお芝居はイヤホン・ガイドいらないから!」

 耳にイヤホンを差し込もうとしたオレを……愛美さんが止める。

「え、何でです?」

 また最初の『勧進帳』みたいな……大昔の日本語だったら、オレには全然、何を言っているのか判らないんですけれど。

「この作品は、イヤホンがなくても普通に言葉が判るわ……」

 加奈子さんが、オレの顔を見て……笑いながら、そう言う。

「……黙阿弥だから」

 綾女さんが……また謎の言葉を言う。

「……モクアミ?」

「黙阿弥さんというのはね……幕末から明治に掛けて活躍した、有名な狂言作者なの」

 ……キュウゲンサクシャ?

「恵ちゃん。歌舞伎の台本を書く人のことをね、狂言作者って言うのよ」

 ああ……脚本家か。

「黙阿弥さんの言葉は、明治時代の言葉だから……そんなに、今とは変わらないわ。今度は一番目の『勧進帳』と違って、恵さんにも俳優さんのセリフが判るはずよ」

「……解説が無い方が楽しめる」

 三人のお姉さんは、そう言うけれど……。

 明治だって、百年以上も前の時代じゃないですか?ホントに判るのかな……。

「いいから、わたしたちを信用して」

「……観てみれば判る」

「本当に、とっても面白いお芝居なのよ。恵ちゃん、きっと気に入ってくれると思うわっ!」

 そして、拍子木が鳴る……!

 ……幕が上がった。

 ……そして。

 愛美さんたちの言葉は、本当だった……!

 『梅雨小袖昔八丈(髪結新三)』は、さっきの『勧進帳』とは全然違う……!

 明治に書かれた……江戸時代のお芝居は、オレにも舞台の登場人物たちが何を言っているか判った。たまに、よく判らない言葉も出てくるけれど……それでも、物語は理解できる。そのストーリーが面白くて、芝居の中にぐいぐいと引き付けられる。

 しかも、舞台である昔の江戸の様子が……とても生活感に満ちあふれていて、面白い!

 あれも……歌舞伎。

 これも……歌舞伎?!

 いや……踊りの『鏡獅子』だって、歌舞伎だし……。

 『髪結新三』という通称は、物語の主人公の名前に由来していた。

 『髪結』というのは……江戸の町の人たちのチョンマゲを結う床屋さんのことだ。『新三』は、その仕事をしているのだが……自分の店を持っているのではなく、道具を持ち歩いてお得意さんを廻って仕事している。

 その新三を……今度もまた、綾女さんの義理のお兄さんである芳沢三十郎が演じていた。

 この主人公が……とにかく小ずるくて、器の小さい小悪党なんだけど……何とも憎めない魅力的なキャラクターだった。

 江戸時代の不良青年って言うか……本物の『江戸っ子』っていうのは、こういう感じの人なのかと思うような言葉遣いでハキハキと喋って行動する。

 物語の途中で……新三は、大きなお店のお嬢さんを誘拐して来て、自分の長屋に監禁する。

 そこへ……お店の人に頼まれたヤクザの親分が、娘を取り戻しに来るんだけど……。

 身代金の額が少ないことに腹を立てた新三は、親分に目茶苦茶なイチャモンをつけて追い返してしまう。

 身代金の金額を聞く前と聞いた後で、新三の態度がガラリと豹変するのが面白い。

 そしたら、ヤクザの親分の次に……今度は、新三の長屋の大家さんがやって来て……この大家さんを演じているおジィさんの俳優さんが、また不思議な魅力がある人だった!

 何とも……ひょうひょうとした感じなのに、どっしりと貫禄がある。

 いいように新三をあしらって……あっさり、お嬢さんを取り返すことに成功する。

 大家さんの方が、悪党の新三よりもさらに一枚上手の悪党っていう感じだ。「ああ言えば、こう返す」みたいな二人のやり取りがまるで落語みたいで大笑いしてしまった。

 しまいには……大家さんは、身代金の半分を巻き上げた上に、新三が今買ってきたばかりの初カツオの半身まで取り上げていく……!

 新三が半べそ顔で、「オレも相当太いが、大家さんはもっと太ぇ…!」と嘆く場面は、涙が出るくらい笑った。

 ……芝居の最後の場面。

 さっき、新三に小馬鹿にされて追い返されたヤクザの親分が……人のいないお堂の前で新三を待ち伏せして、刃物を持って襲いかかる……!

 しばらくは……戦っている二人の動きが、綺麗に何度もストップモーションになりながら踊りみたいに続く。

 拍子木が何度も、バンッ!バンッ!と鳴って……。

 と……そのうち、観客席の灯りがスーゥと明るくなってきて……?!

 突然、新三と親分が客席の正面に向かって……正座して頭を下げてる。

 「まぁず、今日はこれぎり……!」と訳の判んないセリフを言ったかと思うと……。

 拍子木が「チョンッ!」と鳴って……!

 そのまま……幕がススススゥーっと、閉まって行く!

 ……え?

 もしかして……これで終わり???!

 新三と親分の決闘……ものすごく、中途半端じゃねぇの?!

 でも、「ワーッ」というもの凄い拍手の中……周りのお客さんは、みんな帰り支度を始めているから……。

 本当に、これで『終幕』になっちゃったんだ。

 だけど……何か、納得がいかない。というか、スッキリしない。

 この後……新三は、ヤクザの親分から逃げられたのか?!逆に親分を刺し殺しちゃったりとか?!

「加奈子さん、この場面の続きはないんですか?」

 どうしても先が知りたくて、加奈子さんに尋ねた。

「あるわよ。元々のお芝居だと、新三はあそこで刺されて死んじゃうの」

 ……死んじゃう?主人公なのに?

「えっ、新三の方が殺されちゃうんですか?」

「そうよ。だから、『わざわざ主人公が殺される場面まで、お客様にお観せすることはない』っていう考えで、ここで幕切れになるの。もちろん、本当のラストシーンまで、きちんと最後まで観せるっていう演出の時もあるけれどね」

「本当のラストシーンって?」

「あたしも観たことはないんだけど……新三を殺した親分さんが、自首することを決意して終わるんだったと思うわ」

「……じ、自首する?」

 どんな芝居だ?!

「ほら……この作品が書かれた時は、もう明治だから。自分から名乗り出て、自首するみたいなストーリーが推奨されたのよ」

「そんなの……何か、釈然としない終わり方ですね。主人公が殺されて、殺した方が自首するなんて」

「だから、今ではほとんどラストシーンは上演しないのよ。ここで、バッサリ終わった方がいいでしょ。華やかだし」

 そう言われちゃったら、そういうものなのかもしれないけど。

「恵ちゃん、どうだった……面白かった?」

 愛美さんが心配そうな顔で、そう聞いてきた。

 ……オレは。

「あの……何ていうか、テレビのドラマとかとは違ってて……悪い人が主人公で、ズルイことばかりしているのに、とっても魅力的で……」

「……歌舞伎と現代作品では、作劇の観点が違うから」

 綾女さんが、そう呟く。

 『作劇の観点』て……何だろう?

「そうね。歌舞伎の世界は、『勧善懲悪』というより『因果応報』だものね」

 加奈子さんの説明は……もっと判らない。

「とにかく、言葉の判らなかった『勧進帳』よりも、今の『髪結新三』の方がストーリーがよく判って、すっごく面白かったです」

 オレは、愛美さんに『面白かった』を強調して伝える。

「そうね……初めて歌舞伎を観る人には、『勧進帳』の様な『時代物』よりも、『新三』みたいな『生世話』の方が判りやすいわよね」

 キゼワ……ジダイ?

 また、オレの知らない単語が出てくる。

「ほら……時代劇って言葉があるでしょ?」

 加奈子さんが、笑ってオレに説明してくれる。

「あ、はい」

「あれって、歌舞伎から来ている言葉なの。江戸時代には幕府の監視があったから、『これはみんな昔の時代の話です。今の幕府の政治を批判しているわけではありません』という形を取って、堅苦しいストーリーは『時代劇』として演じることが多かったのね」

 江戸時代の……時代劇。

「『忠臣蔵』とかもそうよ。あれの元になった『討ち入り事件』はもちろん江戸時代にあったことなんだけど……歌舞伎の物語は、南北朝時代の話として書かれているの」

 ……はぁ。よく判らないけれど。

「そういうのは、武士の世界を描いた物が多くて……表現も大げさで、力強いのよ。それが……『時代物』ね」

 加奈子さんの説明の続きを……愛美さんがしてくれる。

「これに対して『世話物』というのはね……江戸時代の現代劇なのよっ!」

 江戸時代の……現代劇。

「基本的に江戸時代の町人の世界の話で、その時代に起きた事件とかを元に、物語が作られているの。だから、表現は基本的にナチュラルで……時にリアリズムな芝居を『生世話』って呼ぶのよ」

 ……はあ。歌舞伎にも、色々あるんだ。

「恵ちゃん……面白いこと、教えてあげようか?」

 愛美さんが、ニッと微笑む。

「今日最初に観た『勧進帳』が、最初に上演されたのが元禄十五年……1702年よ。そして、最後に観た『髪結新三』こと『梅雨小袖昔八丈』の初演は、明治六年……つまり、1873年よっ……!」

 1702年と1873年……?!

「二つのお芝居の間には、百七十年以上の時間があるのよっ!」

 ……百七十年!

 そっか……そんなに長い歴史があるんだ。

 そうだよな。伝統芸能だもんな。

「ちなみに……今日の中幕の『鏡獅子』の初演は、明治二十六年……1893年が初演ね。実は今日観た作品の中では、一番新しいわ」

 加奈子さんが、そう補足してくれた。

「恵ちゃん、古い時代のお芝居も、舞踊劇も、新しい時代のお芝居も……これみんな、全部まとめて、みんな『歌舞伎』なんだよっ!」

 『勧進帳』も『鏡獅子』も『髪結新三』も……全て歌舞伎。

 本当に、長い間、続いてきた芸能だから……とてつもなく幅が広くて、奥が深いんだ。

「うん……とっても、面白かったです。綾女さんのお義兄さんの演技も魅力的だったですけど……あの新三をやりこめる『大家さん』が良かったですね。すごく迫力があって」

 オレは……とにかく、オレに言える感想を言った。

 芝居の良し悪しは、オレにはわからない……。オレが言えるのは……自分が何を気に入ったかということだけだ。

「……恵ちゃん、ホント?」

 愛美さんが、オレの目を覗き込むようにして言った。

「ホントですよ……オレ、あのお爺さんの俳優のファンになっちゃいましたから!」

 あの役者さんは、テレビドラマとかには、出てないのかな?

 出てたら、必ず観るのに……。刑事役とかも上手いそうだと思うんだけど。

 オレの今日の収穫は……あのお爺さん俳優を観たことだけで充分だ。

 歌舞伎なんて……もう二度と観に来ることはないんだろうし……。

「愛美ちゃん……そろそろ行きましょうか?」

 加奈子さんが、席を立った……。

 ああ……帰るんだな。うん、もう九時過ぎだし。

 家に帰ったら……十時ぐらいか。バァちゃんの遺影が、頭に浮かぶ。

「そうね……もう、そろそろいいと思うわ」

 愛美さんは……ちょっと、緊張しているみたいにそう言った。

 ……何がいいんだ?

「じゃ……行きましょう、恵ちゃん」

 愛美さんも、席を立つ。





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