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6.かんげき

 オレたちの車は、そのまま、どんどん都心に向かって走り続ける。

 大きな通りを、走り抜けて……何か、本当に東京の繁華街って感じの所を走っているんですけれど。

 そうか。『カブキ』の劇場って、こういう所にあるんだよな。

 なんて、思っていたら。

「……あれって」

「恵ちゃん、知らないの?皇居だよ」

 いや、さすがにオレだって皇居ぐらいは知っている。都内には、他にお堀は無いだろう。このお堀端の景色は、これはもう皇居以外の何ものもあるまい。ただ、オレは今まで、車の中から皇居を観たことなんて無かったから。ていうか、そもそも車になんてそんなに乗らないし。さすがに、バスは乗るけれど。

 し、しかし、お堀の廻りってのは、本当に凄い建物ばかりだな。何か、日本の中心ていうか。国のお役所の建物がいっぱいっていうか。へえ、警視庁って、こんな所にあるんだ。

 あ……あの建物は、知っている。あれ、国会議事堂だよな……多分。うん。テレビで観るのと、同じ形している。大臣とかが、集団生活しているとこだよな、確か。

 て、おいおい。この車、どこへ向かっているんだよ。……ん?

「……何じゃ、ありゃ?」

 思わず、声を出してしまった。何か、すんげぇ立派な……何かロボットアニメの秘密基地みたいなコンクリートのでっかい建物がある。コンクリートの壁がくるっと開いて、ミサイルとか発射しそうな感じだ。

「あれは、最高裁判所よ」

 オレのぽかーんとした顔を見て……加奈子さんが、小さな声で教えてくれた。

 あれが……最高裁判所。教科書で、その存在は知っていたけれど……本当に、実在していたんだ。しかし……何で、あんな戦闘要塞みたいな建物なんだ?!

「歌舞伎の劇場は、最高裁判所のすぐ裏にあるのよ」

 なぜ、そんな場所に?!『カブキ』って、もしかして相当ヤバイものなのか?!

「うふふ」

 加奈子さんが、オレの顔を見て笑う。

「……はい?」

 オレは……その意味が判らない。

「愛美ちゃんの言う通りね。ホント、可愛らしい弟さんね」

 また、年上の女性に……可愛いと言われた。

「でしょう。加奈子さんっ……!」

 って、愛美さん。何で、あなたが鼻高々なんですか?!

「コロコロ表情が変わって……面白いわ、恵介さん!」

 加奈子さんは、また天使のように微笑む。

「素直で良い子なのよ。恵ちゃんは……!」

 愛美さんも、ニコッと微笑む。

「はい……着きましたっ!」

 運転席から、清香さんの声がする。

 お堀端の道から、建物の敷地の中へ。確かに、そこに劇場はあった。

 現在の時間は……午後四時二十二分。

「……開演八分前」

 助手席から、綾女さんがそう言う。

「大丈夫よ……定刻より、少し開演が押すと思うから」

 愛美さんが、またオレの判らないことを言った。

 オレたちのロールス・ロイスは……劇場の入り口前に着く。

「皆さんは、このまま中へお入り下さい。私は、駐車場に車を置いてから参ります」

 清香さんが、そう言う。

「うん。ありがとう、清香さん」

 ドアをガチャッと開けて、愛美さんが降りる。続いてオレも。

 助手席側のドアから、綾女さんが降りてきた。綾女さんの全身を見るのは、これが初めてだ。

 ………え。で、でっかい。ドが付くほど……でかい!

 ついに、オレの前にその全貌を現した綾女さん。天覧学院の夏の制服に……ショートカットで、とってもスレンダー。

 そして、オレより遥かに背が高い。これ、百八十は優に越えてるよな?!

「……なに?」

 二重で切れ長の綺麗な眼で、綾女さんがオレを見下ろす。正に『ザ・クール・ビューティ』だ!!!

「いや、あの……バスケ部とかですか?」

 何か、とてもマヌケなことを聞いてしまった。『背が高い』=『バスケ部』って、オレはバカか……。

「……違うわ」

 綾女さんは、一言で否定した。

「綾女さんは、『ミュージカル研究会』よ」

 愛美さんが、教えてくれる。そうだった。ミュージカルに出たくて、ダンスやってるんだっけ。

「さあ……みなさん、参りましょう!」

 そう言って、加奈子さんが、愛美さんの手を握る。二人は仲良く手を繋いで、歩いて行く。そのすぐ後ろを……綾女さんが、大きな歩幅で追い掛ける。まるで、愛美さんたちを警護するかのように。オレも最後尾を追っ掛ける。

 同じ制服を着た三人は、それぞれ違った魅力を持っている。

 愛美さんは……あっけらかんとしているけれど、和風の清楚で可憐な女性だ。

 加奈子さんは……艶やかで、華やか。西洋風の大人っぽい美人。

 綾女さんは……スポーティな体格にクールな性格。ボーイッシュな綺麗な顔立ちをしている。

 そして、三人とも飛び切りの美人だ。美しい上に気品がある。みんな、落ち着いていて、大人っぽくてキラキラして見える。

 オレの公立の中学校では、まず出会えないホンモノの『お嬢様たち』だ。

 どうしてオレ、こんな人たちと一緒に居るんだろう?それも、こんな場所を。

 オレと彼女たちの間には、見えない壁があるように思う。こんなに近くにいても……現実には、遥か遠くに離れている。だって、オレは。

「恵ちゃん、こっちよ!」

 前を歩く愛美さんが……笑顔でオレに振り向いてくれる……!

「……あ、はい!」

 オレは、早足で三人の後を追い掛ける。小柄で貧弱な肉体のオレは……この背の高い三人のお姉さんたちとは、釣り合いが取れていないと思う……。


「うわっ、並んでいるっ!」

 開演直前だというのに、劇場の前には人がいっぱい居た。待ち合わせとかしているのかな。いや、よく見ると、劇場の玄関口に『受付』の机が出ていて……そこで、チケットやパンフレットの受け渡しなんかをやっていた。

 あれ?!和服を着た綺麗な女性が、正面に立っていて、お客さんに次々と挨拶しているぞ。あの着物の人。どっかで、見たことがあるような……?!

「テレビのニュースキャスターをしていらした、高塚瑛子さんよ」

 加奈子さんが、そっと教えてくれた。

 ああ、そうだ。割と人気のあった人だ。確か……芸能人と結婚して、テレビ局を退社したはずだ。

「今は……芳沢三十郎さんの奥様だから」

 芳沢三十郎って……歌舞伎役者の。うん……オレでも、名前くらいは知ってる。舞台だけでなく、テレビドラマや映画の主役とかもやる人だし。確か、何年か前には、ハリウッド映画にも出演したことがあったと思う。

「歌舞伎の世界ではね、俳優の奥さんやお母さんが、ああやって劇場の玄関に立って、ご贔屓のお客様にご挨拶したり、手配を頼まれたチケットをお渡ししたりするのよ!」

 加奈子さんの説明に、オレは納得する。

 なるほど。俳優の奥さんは、大変なんだな。

 ……あっ!

「あの……ここ入場料って幾らなんですか?どこで買えばいいんです?」

 こういうのって……やっぱり、高いんだろうな。どうしよう……オレ、そんなにお金を持って来てないぞ。二千円で足りるだろうか?

 不安そうなオレの顔を見て、加奈子さんが、ククッと笑う。

「恵介さん。今日の公演のチケットなんて、もうとっくに全部売り切れているわよ。三十郎さんの出演なさる舞台は、いつもすごい人気なんだから!」

「……発売初日に完売した」

 綾女さんが、補足してくれる。

「……へ?じゃあ、どうやって劇場の中に入るんです?」

 チケットも無いのに?!!!

「あたしたちの分は、前もってお願いしてあるの。あそこの受付へ行って名前を言えば、チケットを手渡してくれることになっているわ!」

 加奈子さんが、笑ってそう教えてくれた。

「恵ちゃんのお席も、お姉ちゃんがちゃんと頼んでおいたから。何も心配しなくていいのよ!」

 愛美さんが、ニッコリと微笑んでくれるけど。

「……じゃあ、お金は?」

 チケットのお金は……誰に払えばいいんだ?!

「今日は、あたしが無理に誘ったんだから……お姉ちゃんが払うわよ」

「いや……あの、そういうわけには!」

 そうはいかない。こんなことで愛美さんに甘えたら……後で、バァちゃんに怒られる!

「うーん。大丈夫なんじゃないかな?恵介さんのチケットは、瑛子さんが『招待扱い』にしておいて下さってると思うわ」

 加奈子さんが、不意にそんなことを言った。

「……『招待扱い』って?」

「だから……無料ってこと。恵介さんがお金を払う必要は無いと思うの」

 加奈子さん?!何で、高塚瑛子が、オレを招待してくれるんです?

 オレがそう尋ねる前に……綾女さんが口を開いた。

「……チケットは、わたしがまとめて貰ってくる」

 そう言うと、綾女さんは一人で受付の高塚瑛子のところへつかつかと歩いていく???!

 あれれ?高塚瑛子が……綾女さんに、ニコニコと微笑んでいる。何か、喋ってる?!こっちを見ている?!綾女さんて、高塚瑛子の知り合いなの?!

「瑛子さんは、綾女さんのお姉さんなのよ」

 加奈子さんが……そう言った。

 は?!そういえば……確か、綾女さんの名字も『高塚』だったような?!

「ほんと、こうやって見ると美人姉妹よねっ!」

 愛美さんも、綾女さんと高塚瑛子を見てそう言う。

「え……綾女さんて、確か五歳の弟がいるんじゃ?」

 うん……そう聞いたぞ。

「弟さんもいるけれど、お姉さんもいるのよ。上の瑛子さんと下の弟の健くんは、二十歳くらい離れているんだっけ?」

「綾女さんのお父様が、どうしても男の跡取りが欲しかったそうなの」

 加奈子さんが、そう付け足してくれた。はあ……上のお姉さんが、二十歳の時で、下の弟さんが四十歳の時の子と考えたら、そんなに、おかしくもないのか。で……綾女さんが、お姉さん寄りの姉弟の真ん中。

 なるほど。親しげにチケットの受け渡しをしている二人は、とてもよく似ていた。長身で、知的な『美人』であるところが特に。

 ……しかし。

 愛美さんは、内弟子が居るような日本舞踊の大先生の孫娘。

 加奈子さんは、映画スターの洞口文弥の愛娘。

 そして、綾女さんは……お姉さんが元テレビのキャスターで、ということは人気歌舞伎俳優が義理のお兄さん……!

 一件ずつなら、「すっげぇ!」と叫び出したくなるような衝撃も、三つ重なると……溜息しか出ない。

 そうだよなあ。この人たちはみんな……天覧学院へ通ってるんだもんなあ。

 お金持ちと有名人の子供が通う私立の名門校……。

 みんな、ハイクラスな世界の住人なんだ。

「……はい、これ」

 綾女さんが、お姉さんから全員分のチケットとパンフレットを貰って来てくれた。

「あの……お金は?」

 そうだ。それが肝心だ。

「……気にしなくていい」

 綾女さんは、そう言う。

「いや、でも」

 よく知らない人に、無料にして貰うのは、何か気持ちが悪い。

 いや、こっちは高塚瑛子を知っているけれど、あっちはオレのことなんか知らないはずなんだから。

「いいのよ、恵ちゃん。瑛子さんには、後でお姉ちゃんがちゃんとお礼をしておくからっ!」

 愛美さんが、優しくそう言ってくれるけれど……いいのか、それで。

「さあさあ、開演時間が近いわよ……急いで、席へ行きましょう!」

 再び加奈子さんが、みんなの先頭に立つ。



   ◇ ◇ ◇



 オレたちの座席は、観客席一階の……ど真ん中だった。前から五列め。そこに四人……綾女さん、加奈子さん、愛美さん、オレの順で座った。

 席に座った瞬間に、ハッと判ったことがある。

 もしかして、ここ……『とても良いお席』なんじゃないだろうか?!

 席に座って正面を見ると……舞台全体が、視界の中にきっちり綺麗に納まってる。こんな良い席……幾らぐらいするんだろう?

 オレは、さっき綾女さんに貰ったパンフレットを開いた……ええっと。


『……特別席 12000円(学生8400円)、1等A 9200円(学生6400円)、1等B 6100円(学生4300円)、2等 2500円(学生1800円)、3等 1500円(学生1100円)』


 ここ……特別席だよな、多分。ここより良い席はないよな。

 ということは、お一人様12000円。学生料金でも……8400円!!!

 ……マジですかっ?!オレ、今からでも、帰ってもいいですか?

 ここは、オレみたいな人間が座っちゃいけない席なんだと思います……。

 ……そんなことを考えていると。

 愛美さんが「はい、これ」と、ポケット・ラジオみたいな機械を手渡してくれた。

 それは、パステルカラーのプラスチック製の四角い箱に、『消毒済み』と書かれたビニールを被せたイヤホンが付いている。

「何です、これ?」

 バァちゃんの補聴器によく似ているけれど。

「イヤホンのガイドよ。恵ちゃんは初めてだから、解説の放送があった方がいいと思って、借りてきたのよ」

 それは……助かる。何しろ、オレは歌舞伎を観るのは初めてで。ていうか、何がどう歌舞伎なのか、それさえも良く判ってないし。

 でも、この機械……一つしか無いみたいですけれど?

「愛美さんたちは?」

 と、オレが尋ねると……加奈子さんが笑い出す。

「わたしたちは、解説の音声がある方が鑑賞の妨げになるのよ!」

 あ……歌舞伎初心者は、オレだけなんですね。

「あたしたち三人は、ほとんど毎月、劇場に来ているのよ」

 愛美さんも笑ってそう言う。だから『観劇日』か。

「わたしと綾女さんは月一回だけど……愛美ちゃんは、もっと来ているんでしょ?」

 加奈子さんの言葉に、オレは驚く。

「うん。あたしは、お祖母様とも来るし……毎月、同じ公演を最低三回は観るわ」

「えっ……同じのを三回も観るんですか?」

 三回観たって、内容は変わらないんだろ?!ていうか、学生料金でも8400円✕3回って……。いや、オレの金じゃないんだから、別にいいんだけれど。

「あのね、恵ちゃん……同じ芝居でも、全く同じではないのよ!」

 愛美さんは、真面目な顔でオレにそう言う。あの……意味がよく判らないんですけど。

「歌舞伎は、基本的に一ヶ月公演なのっ!厳密には二十日から二十五日くらいの期間での上演なんだけどね。それだけの期間、ずっと公演を続けていくとね、やっぱり途中でお芝居が細かく変化していくのよ!」

 芝居が変化?

「お芝居は生き物だから。お客様の前で演じていくうちに、良くなったり、悪くなったりするのっ!公演の初日では、まだよく身体に馴染んでいなかったお芝居が、中日の辺りには慣れていって上手くなったり……逆にだれてしまって悪くなったりとかね。役者さんがだれてしまった演技に新鮮さを取り戻すために、細かい演出をガラッと替えることもあるわ。衣装を替えてみたりとかね。でも、やっぱりみんな一流の役者さんたちだから、最終日の千秋楽には一ヶ月の『集大成』となる演技をみせてくださるのよ!だから、一ヶ月公演の初日と真ん中辺りと千秋楽を観比べて、舞台の変化を楽しむのが一番なのよ!」

 愛美さんは、楽しそうにそう言った。

 はあ……本当のお金持ちの歌舞伎好きは、そういう楽しみ方をするんだ。

 でも、そんなの…よっぽど芝居に精通していないと判らないだろうし、正直、そこまでして大金を払って何度も観る理由が、オレには理解できない。

「愛美ちゃんは、同じ演目を最高何回観たことがあるんだっけ―?」

 加奈子さんの問いに、愛美さんは……。

「鏡太郎先生の『鷺娘』を……十七回観たわ。でも、あれはお勉強よ。丁度、あたしも発表会で『鷺娘』を踊ることになってたから」

 ……一ヶ月に十七回!

 チケット代は、全部で幾らになる?金持ちのやることって……信じられない。

「あれ……そう言えば、清香さんはどうしたんです?」

 オレたちのすぐ横の席は……すでに他のお客さんで埋まっている。清香さんは、どこに座るんだ?

「清香さんは……二階席よ。撫子先生の教室では、内弟子は2等席以下でしか観劇しちゃいけない決まりになっているから」

 加奈子さんが……そう言う。

「どうして?」

 オレが『特別席』で……加奈子さんは『2等席』って?!

「仕方ないわ。ここは色んな方の目があるから。恵介さん……周りのお客さんをよく見てご覧なさい」

 加奈子さんにそう言われて……あらためて周囲を見てみる……。

 あれっ?!あそこの席にいるのって……有名な落語家さんだよな?こっちは、元プロ野球の有名選手で……あっちの人は、ワイドショーとかによく出ている評論家の先生だ。あそこに居るの、映画によく出演している女優さんなんじゃ?

 え……もしかして、ここら辺の席って?!

「別に有名人や芸能人ばかりじゃないけれど……大きな会社の経営者や作家の先生もいらしているわ。三十郎さんのお芝居は、セレブの人たちにとっては見逃せないものだから」

 ……はぁ。

「こんな席に清香さんが座ったら、人によっては『撫子先生は、自分の内弟子を甘やかせている』って思われるかもしれないでしょ。だからなの」

 加奈子さんの説明で、よく判った。確かに……劇場内のこの辺の席のお客さんたちをよく見ると……みんな、すごい着飾ってる。特に女の人は……ブランド物っぽい洋服とか、派手な和服の人もいるし。とにかく、見た目からしてお金持ちだって判る。

 そうだよなあ。歌舞伎を観る人なんて、基本的にお金と時間が余っている人なんだろう。

 っていうか……学校の制服で来ているなんて、オレたちくらいしかいない。

 いや、そもそも学生だけで、こんな席に並んで座っている人なんて他にはいない。

 ……いいのか、オレたち。

 もっとも……愛美さんたちの天覧学院の制服は、さすがの風格というか……とっても、お上品な感じで、この空間のゴージャスな客層に何とかマッチしている。

 場違いなのは、オレの公立中学の制服だけだ。何だこりゃ?!

 愛美さんが、シャツやベルトだけでも、高級品を持って来てくれた意味がよく判る。

 でも、シャツとベルトだけじゃあ……全然足りていない。

 その中身の……オレそのものが貧相だもんな。この『特別席』に全然相応しくないような気がする。……ダメだ、オレ。

「恵ちゃん…そろそろ始まるわよっ!」

 と、隣の席の愛美さんが、オレの腕をトントンと叩く。

「……始まる?」 

 すると、舞台袖から……チョンッ!と拍子木の音が鳴る!

 それから、ピョーォォォ!という力強い笛の音!

 劇場内の灯りがスゥーっと暗くなり、するするすると幕が上がる!

 明るい光に満ちた目映い舞台!舞台の後ろには……大きな松の絵。その前に、赤い布を敷いた大きな雛壇があって、黒い和服の男たちがずらりと並んでる。

 それぞれ……三味線とか笛とか鼓とか、楽器を持つ人もいて……。

 な、何が、始まるんだ?

 パンフレットによると……最初の芝居の演目は『勧進帳』。

 イヤホンから聞こえてくる解説によると、どうやら『源義経』とか『武蔵坊弁慶』とかが出てくるお芝居らしい。

 ……おっ!

 何か、顔を真っ白に塗ったくった水色のお侍さんが、家来をたくさん連れて出て来たぞ。

 ……あっ!

 何か、しゃべり出した!

 ええっと、あの……すみません。これ……舞台で喋っているの、ホントに日本語ですか?

 横を見ると、愛美さんたちは、真剣な顔で舞台を見ている。

 判るんだ、この言葉が。多分これって、大昔の日本語なんだと思うけれど。

 オレには、何を言ってるのか……さっぱり判らない。

 それから、役者さんが観客席と舞台の間にある橋みたいなところ……『花道』って言うんですか?そこに誰かが登場してくる度に、観客席のずっと上の方から「マツハシヤッ!!」とか「フジシマヤッ!!」とか……怒鳴り声で叫ぶのはどういうことなんです?!

 あれ、観客がやっているの?何で誰も注意しないの?

 ……あああああ。歌舞伎って、よく判らない。

 一応、イヤホンで、『今の場面では何をやっているのか』とか、『これは、どういう意味なのか』とか説明してくれるんだけど。オレには、どうにも興味が持てなくて。

 そのうち……笛とか、三味線とか、鼓とか……和服のオジたちの合唱とかを聞いていると、オレはどんどん眠たくなってきて……。

 そう言えば、今日、五時間目が体育だったんだっけ。

 ふぁぁぁ、眠い……意識が……ブラック・アウトする……。

 …………。

 …………。

 …………。



   ◇ ◇ ◇



 ハッ!……と眼を覚ましたら。弁慶役(推測。何か、そんな様な衣装を着ている)の俳優さんが、変なチョコマカした動きで花道をピョコタン、ピョコタン飛び跳ねながら逆走して行くところだった。

 耳のイヤホンガイドが「見事な飛び六方」とか言っているけれど。

 とにかく、観客のみなさんは、盛大に拍手をしている???!

 そのまま、弁慶が花道の奥に消えて、音楽が止み……拍子木がチョンッ!と鳴る。

 そしたら、すぐに客席の灯りが明るくなってきて、舞台脇の壁の上に『休憩・三〇分』の表示が光った!

 もしかして……『勧進帳』、終わった?!もう、全部終わり?!

 ……え。

 オレ、ほとんど眠てたぞ…!!!

 ふと横を見ると……綾女さんと眼が合う。ジトッと、冷たい視線。

「……寝てた」

 ええっと……『特別席』に座らせて貰ってるというのに……。

 はい……寝ていました。

「あの……ごめんなさい」

 何か、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。高価な席なのに、オレは。

「いいのよ。恵ちゃんは、初めてなんだから」

 愛美さんも、オレが居眠りしていたことに気付いていたらしい。

「すみません……せっかくのチケット、無駄にしてしまって」

 ……やっぱり、来なければよかったな。歌舞伎なんて、オレにはハードルが高すぎる。

「何言ってるの、恵ちゃん。まだ、後、二本もあるんだからねっ!」

 あ、後、二本……!!!

「歌舞伎の公演は、大体、三本立てか四本立てなのよ。今日は三本よ」

 加奈子さんが、クスクスと笑う。

 はぁ、こんなのが、まだ、後二本もあるんだ!た、耐えきれるのか……オレ。

「……終演は、九時過ぎになる」

 綾女さんが……さらりと言った。く……九時過ぎ?

 ええっ?!そんなに掛かるの?だって開演したの、四時半だろ?!四時半から……九時過ぎまでって、合計・四時間半。

 嘘だろう……長すぎるよ!

「恵ちゃん、お腹空いてる?ご飯は次の休憩の時だから、もうちょっと我慢しててね!」

 ああ、晩ご飯も、劇場の中で食べるんだ。

 そっか……終わるの九時過ぎだもんな……。

 やばい……ご飯代とか、どうなるんだろう。二千円で足りるのか……?!

「何か、飲み物でも買ってくるわ。恵ちゃん、コーヒーでいい?!」

「あ、それならオレが行ってきますよ」

 愛美さんに買ってきてもらうのは、悪いと思った。この場では、オレが一番年下だし、男だし。せめて、使い走りぐらいはしないと。

「いいからっ!恵ちゃんは、ここで待ってて!」

 愛美さんは、強い声でそう言う。

 え、何で?

 そしたら、綾女さんが……スッと立ち上がる。

「……わたしが、愛美と一緒に行くから」

 ……いや、あの。

「いえいえ、オレが行きますって」

「……わたしが愛美と行くの」

 綾女さんの眼が、冷たくオレを見下ろす。

 座席に座っているオレと……立っている綾女さん。綾女さんは、とっても背が高いから威圧感がある。

「わ……判りました」

 綾女さんは、オレを無視して愛美さんに。

「……行きましょう、愛美」

「じゃあね、恵ちゃん!」

 席を離れて行く二人……。

 ええっと。綾女さん……トイレにでも行きたかったのだろうか?お嬢様の世界にも、連れションということはあるんだろうか?

 ……あれれ。ハッと気付くと、その場に取り残されたのは……オレと加奈子さん。

 ずっと黙って、公演のパンフレットを読んでいた加奈子さんが……やんわりとオレの方に顔を上げる!

「恵介さん……ちょっとよろしいかしら?」

「あ……はい」

 オレが返事すると……。

 加奈子さんは、オレの隣の座席へスッと移って来る。肉感的な身体が……接近する。

 加奈子さんは、香水でも付けているのだろうか?!愛美さんとは違う、また別の種類の甘い匂いがした。

 そのまま彼女はニッコリと微笑んで、オレの眼を……真っ直ぐ見る。

「な……何ですか?」

 こんな艶やかな美人に見つめられると……笑顔でも何か怖い。ドキマギする。

「あなた……犬を飼ったことはあるかしら?」

 ……犬???

「いえ……無いですけど…?」

 オレはずっと、あのボロ・アパートで暮らしている。ペットなんて……飼えるはずがない。犬の餌代以前に、人間の食事代に困っているんだから。

「あたしはあるわ……今もね、家でゴールデン・レトリバーを飼っているの。『ハル王子』と『ホットスパー』という名前でね……とっても、可愛いのよ」

 はあ……家が広いんだろうな。映画スターのお嬢さんだし。庭に芝生とかが生えていて、可愛い犬が跳ね回る。そんな感じなんだろうな。

「もっとも……あたしの犬が可愛いと思っているのは、あたし自身だけなのかもしれないけれど」

 加奈子さんは……不思議なことを言った。

「え?加奈子さんの家で飼っている犬つて、そんなに凶暴なんですか?」

 オレの質問に、加奈子さんは笑い出す。

「違うわ……そういう意味で言ったんじゃないわよ」

 じゃあ、どういう意味で……?

「自分の飼い犬はね……他人のおうちの飼い犬よりも、格別に可愛く感じられるものなのよ」

 ……はい?!

「それがどうしてなのか、恵介さん判る……?!」

 いや、そんなこと言われたって。オレ……犬を飼ったことはないし。

「……いえ」

 加奈子さんは、ギッと真剣な眼で、オレを見る。

「自分の犬が、他の犬よりも可愛らしく思えるのは……それが、『自分の犬』だからよ!」

 自分の……犬。

「『自分のだ』って気持ちがあるから……他の犬よりも『特別なものだ』って気持ちになるのね。ちょっとした、錯覚みたいなものよ」

 さ、錯覚?!

「愛美ちゃんが、あなたを大切に思ってるのも……それと同じ感覚よ!」

 加奈子さん?!

「『自分の弟』だから。ただそれだけの気持ちで……今は、あなたのことが可愛いくて仕方がないのよ、彼女」

 この人は……判っている。

 オレと愛美さんの間の……深い溝の存在を。

「はい……それは、確かにそうだと思います」

 オレは……そう答えるしか無かった。

「そうよ。だからあなたは、絶対に勘違いしてはダメよ」

「……はい」

 そうだよな。あんな素敵な人が……オレみたいな人間を、好きになってくれるはずがない。今のあの人はただ……突然現れた『自分の弟』という存在に、気持ちが高揚しているだけだ。いずれ、オレが何の価値も無いつまらない人間だということが判れば……離れていくだろう。いや……オレみたいな人間とは、離れなくてはいけない人だ。

 オレと関わることは……あの人の人生にとって、無駄なだけだから。

「でもね、恵介さん。愛美ちゃんという人間について、これだけは、はっきり知っておいて欲しいんだけど」

 加奈子さんの顔から……完全に、微笑みが消えた。

「愛美ちゃんはね。一度受け入れた相手なら、例え飼い犬のためであっても、平気で命を投げ捨てることのできる強い子よ。だから、あの子が今後、あなたを見捨てるようなことは絶対に無いわ」

 それって?!

「だから……あなたも、絶対に愛美ちゃんの気持ちを裏切ったりはしないでね。もし、あなたが、愛美ちゃんを傷つけるようなことをしたら……わたしは、あなたを決して許さないわ……!」

 この人は……本当に、愛美さんの親友なんだ……!

 幼なじみの親友……本当に、愛美さんのことを心配しているんだ。

「わたしはね……一生、愛美ちゃんの親友でいるつもりなの。どんなことかあっても、わたしだけは、絶対にあの子の側から離れない。そう、心に決めているの」

 加奈子さんの言葉が……オレの心に突き刺さる。

 加奈子さんが、周囲を見回す。愛美さんたちは……まだ戻って来ない。

「いい機会だから、恵介さんにお話しておくわね」

 加奈子さんが……低い声で言った。

「愛美ちゃんは、普通の人たとは違うの。家の伝統を継ぐという大変な重責を背負っているのよ」

 ……普通じゃないって?

「普通の家の子は……日舞の発表会のためだけに、同じ歌舞伎の舞台の踊りを十七回も観ないわよ」

 それって……愛美さんは、ただのお金持ちの歌舞伎好きではないってこと?!

「あの……もしかして、愛美さんのお祖母さんて、日本舞踊の世界とかでは……何か、特別に偉い人とかなんですか?」

 もう、この際だから、聞きたいことは全て質問してしまうことにする。加奈子さんなら、何でも教えてくれそうだし。

「恵介さん。わたしたちの日本舞踊の流派は『紺碧流』っていうんだけど……」

 うん。さっき『踊りの時の名前』とかで話していた。

 愛美さんが『紺碧桜子』で、お祖母さんが『紺碧撫子』だっけ?

「『紺碧流』のことって、幾らかは知っている?」

 いや。正直オレは、日本舞踊の流派のことなんて全然知らない。全く、興味も無いし。

「あの……あれですよね。たまに、町中で看板を見掛けます『紺碧流・日舞教室』とか『紺碧流・日本舞踊教習所』みたいなのを」

 そんなことぐらいだ。

 加奈子さんが、オレにニコッと微笑む。

「『紺碧流は』……日舞の世界では、日本で二番目ぐらいにに大きい流派なの」

 へえ……そうなんだ。

「愛美ちゃんのお祖母様……撫子先生は、その『紺碧流』の現在の家元様よ……!」

 ……は?!

「イエモトって、何ですか?」

 加奈子さんは……ちょっと、「困ったな」という顔をする。

「その流派の代表者で……全体を束ねる人よ。一門の一番上にいらっしゃる方」

「つまり、日本で二番目に大きい日本舞踊の流派の……ボス?!」

「そういうことね」

 それって、すっげぇ……偉いってことなんじゃないのか?!!!

「あたしの知る限り……撫子先生は、今、日本で一番注目されている日本舞踊家よ。次の『人間国宝』の候補に挙がっているっていうお方だから!」

 人間なのに……国宝!そんなに、凄い人なんだ!!

 ……ってことは?!

「もしかして、愛美さんは?」

「そう……一門の中では、同世代のトップね。あの子が次の『家元』になるだろうって、期待している人も多いわ。愛美ちゃんには、それだけの実力と才能があるのよ!」

 将来の家元候補。

 『紺碧流』の家元を継がないといけないから……だから、愛美さん、「今は、日舞だけに集中している」って言ってたんだ。日舞の稽古を熱心に取り組んでいるのも……。

「あの子が、同じ歌舞伎の舞台を何度も観るというのも、勉強の一つなの。日本舞踊と歌舞伎は、絶対に切れない間柄だから。観劇も家元を目指すための修行なのよ……」

 愛美さんが……ますます、オレからは『遠い人』になっていく。

「……なんか、とっても大変そうですね」

 オレには……手の届かない世界の人に。

「仕方ないわよ……それが、家元の血筋に生まれた人間の宿命だから」

 愛美さんは、「日舞が好き」とは考えたことは、一度も無いと言っていた。生まれてからずっと、踊ることが当たり前になっていただけだと……。

「いずれにせよ、あの子は必ず次の時代の紺碧流を背負って立つ存在になるわ!いいえ、あたしが絶対にそうするわ!」

 加奈子さんも……この人も、愛美さんのお婆さんのお弟子さんなんだっけ。

「愛美ちゃんが『家元』になることが……わたしの夢なの!」

 加奈子さんは、ハッキリとそう言った。

 愛美さん……十代半ばにして、すでに、多くの人たちの期待を背負っている人。進むべき道が示されている人。そんな人生……オレには、想像できない。

「あら……恵介さん。あなた、全然判っていないみたいね!」

 加奈子さんが、オレを見る。

「……はい?」

 な、何です……?!

「あなたも……その宿命の星の下に生まれた一人なのよ!」

 あんっ?!……何でオレが?!

「自分には、関係の無いことだって思っているの?」

「いや……だって、本当にオレには関係ないことですし!」

 うん。オレは……ただの貧乏人だ。日舞も家元家も、オレには関係無い。

「恵介くん、申し訳無いんだけれど……『自分の親が誰なのか』、『誰と血筋が繋がっているのか』っていうことは、永遠に子供の人生に付きまとうものなのよ」

 その加奈子さんの言葉には……重みがあった。

 そうだ。この人だって……『ヤクザ俳優・洞口文弥の娘』だ。

 血筋の重さは……よく理解しているのだろう。

「あなたと愛美さんは、お父様が同じ……その事実からは逃れられないわ」

 ……父親?!

「加奈子さんは……オレの父親のこと、知っているんですか?!」

 オレの父親も……『紺碧流』の家元家に関係しているのか?!

 いや、そうだろう。愛美さんは……父方の祖父母の家に暮らしていると言っていた。その家が紺碧流の家元の家なら……愛美さんの父親は、家元の息子だ。

「もちろん……わたしはよく存じ上げているわ。わたしは愛美ちゃんとは、幼稚園の時からの親友だから」

「オレの父親って……どんな人です?!」

 ……思い切って、聞いてみた。

 だけど、加奈子さんは……。

「それは……今ここで、わたしが話すべきではないと思うの」

「どうしてです?」

 加奈子さんは、オレの眼を見て……答えた。

「お父様のことについては……いずれ愛美ちゃんが、恵介さんにきちんとお話すると思うのよ。その前に……わたしが勝手に話してしまうのは、いけないことだとと思うわ……」

 ……そうか。そうですよね。

 そんなのは……家の問題ですよね。

「ただ、一つだけ言うとね……愛美ちゃんのお父様は、そんなに日舞がお上手じゃないのよ。下手ではないのよ……プロとしては充分な技量をお持ちなんだけど……将来の家元に相応しいというような評価は得ていないの」

 うん……日本舞踊家としてはプロで、人に教えたりして生活しているんだな。

 でも、家元に選ばれるほどは、上手ではない。

「だから……愛美さんに、余計に期待が集まってるのよ!」

「どうしてです?」

「お父様の評価がそんなだから……生まれ付き踊りの才能のある愛美さんに、『お父様を飛び越して、次の家元に』って期待している人が多いのよ……圧力と言っても、いいほどよ。期待して下さるのはいいけれど……はっきり言って、迷惑なことも多いわ……」

 ……迷惑?!

「踊りの家元の家に生まれるとね……どうしたって、色々な思惑を抱えた人たちに取り囲まれてしまうのよ。例えば……山辺清香さん。あの人は、相当の野心家よ」

 清香さんが?!

 オレは……さっきの車を運転してくれていた清香さんの姿を思い出す。背が高くてスラッとしていて……優しそうなお姉さんにしか見えなかったけれど。

「清香さんだって……『もっと日舞が上手くなりたい』という理由だけで、撫子先生の内弟子をになられたわけじゃないのよ」

 他に……理由がある?

「清香さんは……いずれ、内弟子から撫子先生の側近になるおつもりなのよ。それで、いずれ愛美ちゃんが家元を継いだ時に、一門の中での高い地位に就くことを狙っているの!」

 ……ああ。そういう裏があるんだ。

「清香さんは、それに人生を賭けているの。本当にギャンブルよ。何十年も側近の弟子として仕えたとしても……愛美ちゃんが家元になれなかったなら、清香さんの苦労は全て水の泡になってしまうんだから!」

 ……え?!

「あの……愛美さんが、家元になれない可能性もあるんですか?」

 加奈子さんは、悲しそうに笑った。

「ええ。撫子先生は……ご高齢でいらっしゃるし。もし、愛美ちゃんが成人する前にお倒れにでもなられたら……愛美ちゃんを次の家元に推薦する人は少ないと思うわ」

「年齢が若すぎるってことですか?」

「そうよ。誰が家元を継ぐかには、色々な人の思惑が絡むし……家元家に対して、嫉妬している人もいるしね。日舞の世界は、女性が多いから……」

「もし、愛美さんが家元になれなかったとしたら……どうなるんです?」

「その時は、愛美さんの叔父様か叔母様か……あるいは従兄姉のどなたかが、家元を継ぐことになるんでしょうね。踊りは愛美さんより上手くないとしても……年齢が丁度良いということで」

「その場合は……愛美さんは、どうなります?」

「もちろん、新しい家元がお元気な間は、家元にはなれないわ。そして、何十年か経って……次の家元を選ぶことになった時に、一文の有力者の方々と後継を争うことになるでしょうね。それで愛美ちゃんが、その次の家元に選ばれるかもしれないし……あるいは、一生なれないかもしれない。その時の一門内の力関係で結果が変わると思うわ」

 そんな世界に……愛美さんは、生きている。

「でも……現在は、愛美ちゃんが次の家元候補のナンバーワンよ。それは本当。一門の誰もが、愛美ちゃんの才能を認めているわ。だから、清香さんみたいに内弟子になってまで食い込もうとする人が現れるの」

 うん。だいたいの感じは、判った。

「ところがね……内弟子なんかよりも、もっと良い方法があるのよ。撫子先生や、愛美ちゃんに上手く取り入る……馬鹿みたいに簡単な方法がね」

 え……そんな方法があるんだ。

「それはね」

 加奈子さんが……オレを見る。

「恵介さん……あなたと結婚するっていう作戦よ!」

 ……オレ?!

「こういう世界ではね……やっぱり血筋が重要なのよ。あなたと結婚すれば、その人は紺碧流の家元家の血縁者でしょ?内弟子を何年も勤めて、幹部に昇格するより、よっぽど手軽に紺碧流の上層部に入り込めるわ!」

 そ、そんな!!!

「でも……オレはただの隠し子ですよ。オレのことなんか……紺碧流の人は、誰も知らないだろうし」

「今は……でしょ!」

 加奈子さんは……言った。

「すぐに広まるわ……みんな情報を察知するのは早いから」

 で、でも。

「隠し子だろうと何だろうと……家元の血筋の人間に代わりはないわ。むしろ、『困った存在』であるあなたを引き取ることで、家元の家に恩を売ることができるわ」

 恩を売るって!

「ええ。恵介くんの結婚相手……それと、その一族に対して、撫子先生や愛美ちゃんが重用するのは当然よ。撫子先生は、とても義理堅い方だから……」

 オレ……そんなんで、誰かの家に引き取られて、結婚して……。

 なのに……愛美さんのお婆さんは、オレの結婚した相手の一族にずっと気を遣っていかないとならない?!なんじゃ、そりゃあ!

「恵介さん。あなた、これから大変よ。あなたが……愛美ちゃんがとっても大切にしている彼女の『弟』だって知れたら、全国の紺碧流のお弟子さんたちが、お金や物で次々に誘惑してくるわよ!恵介さんは、それに耐えられるかしら?」

 それが……愛美さんの『弟』になるということ?

 愛美さんの『弟』になったら……そんな事態に飛び込まないといけない!

 そして……一生、愛美さんたちに、迷惑を掛ける。

「それでねえ……恵介さん。わたし、一つ、提案があるんだけど」

 加奈子さんは……思わせぶりに「うふふ」と微笑んだ。

「これは本当に『何が愛美ちゃんにとって一番最善か』を考えて、あたしが出した結論なんだけどね……」

 加奈子さんの天使のような顔が……妖しく微笑んだ。

「あなた……わたしと結婚しちゃわない?!」

 ……はい?!

 えええええ……うえええええええーッッ???!!!

 そそそそ、それって???!!!

「も、もしかして、加奈子さんも……紺碧流の大幹部とかを目指しているんですか?!」

 そ、そうだよな。この人だって……紺碧流の門下生なんだから……。

 すると、加奈子さんは。

「もおっ!そんなわけないじゃないッ!!」

 と、顔を真っ赤にして強く否定する!

「あたしはね、ただ単に愛美ちゃんの義姉妹になりたいだけなのッ!」

 …………へ?

「愛美ちゃんの義姉妹になれば、毎日、同じお家のの中で生活できるでしょっ!お風呂だって、毎日、一緒に入れるじゃないっ!!!」

 えええっと……加奈子さん?

「あの子は、あたしの『お姫様』なのよ!!!」

 そして、加奈子さんは……ギロッとオレを見る。

「だからね……あたしとあなたで結婚しちゃうのが、一番、丸くおさまる選択なんだと思うんだけどなあ……!」

 どどど、どうしてそうなる?

「愛美ちゃんも……あたしが恵介さんの結婚相手なら、きっと喜んでくれるわよっ!!」

 楽しそうに、ムフフと微笑む……加奈子さん。

「あの……オレのこと、からかっているんですよね?」

 こんなこと……冗談だとしか思えない。

「いいえ。あたしは本気」

 加奈子さんは、まっすぐにオレの眼を見てそう言う……。

 あ、加奈子さんの赤い唇が、オレに迫ってくる!!!

 ちょ……ちょっと待って下さい!!

「……あなたは、何も心配することはないのよ。わたしが、あなたを幸せにしてあげるからね。一生、恵介さんに尽くすわ……世界で二番目に大切にしてあげるから」

 ……に、二番目?

「一番目は、愛美ちゃん、だ・か・ら……!!」

 そう言うと加奈子さんは……プハッと吹きだして笑う。

 けらけらと大きな声で笑い続ける……。

 何だ……やっぱり、冗談か。ドキドキして損した。

 そしたら……加奈子さんは、

「今は、まだ笑っていられるけれどね……!」

 ……はい?

「覚悟していて……どんな事態になってもいいように、心の準備だけはね……」

 それが……オレの宿命。例え、『隠し子』であったとしても……いいや、『隠し子』だからこそ……愛美さんの『弟』であることは、いずれオレの人生を左右する。

「本当に最悪の状況に陥った時には、わたしがあなたを引き取るわ。約束するから」

 加奈子さんは、真顔でそう言う……。

 『最悪の事態』って……この人は、愛美さんに起き得るあらゆる状況を想定している?

「あたしみたいな女じゃ、恵介くんは不満かもしれないけれど……」

「いや……そんなことは無いです!加奈子さんは、素敵な女性です!」

 つい……そう言ってしまった。

「ありがとう……じゃあ、本当に結婚しましょうね!」

 笑う……加奈子さん。

「いや……それは、その……!」

 こんな綺麗な人に結婚とか言われても……全然、想像ができない。

 イメージが湧かないということは……そんなことは絶対に実現しないということだ。

 オレとこの天使のように美しい人が夫婦になるなんて、ホントの笑い話だ。

 そんなこと……あるわけがない。

「あたしは……全然構わないから。恵介さんが、悪い大人たちにいいようにされたら……愛美ちゃんが悲しむもの。わたしは、あの子にはそんな涙は流して欲しくないから……」

 そうだ。加奈子さんが心配しているのは……愛美さんのことだ。

 オレじゃない……。

 やっぱり……愛美さんと会うのは、今日で最後にしよう。

 今のアパートを引き払ったら……愛美さんには、新しい住所は教えない。弁護士の事務所にも伝えない。

 オレが完全に消息を絶てば……オレのことで、愛美さんが悩む必要はなくなる。

 オレみたいな『弟』は、最初からいなかったと思ってもらおう……。

 そうするしかない。

「それから……恵介さん」

 考え込むオレに……加奈子さんが声を掛ける。

「多分……綾女さんも、わたしと同じことを考えていると思うの」

 あ、綾女さんも……愛美さんを悲しませないために、自分がオレと結婚しようとしている?!まさか?!

「あの子は、思い詰めるタチだから、もう決心しちゃってるかもしれないわね。『愛美ちゃんのためなら、自分の身を犠牲にしても構わない』って子だから……」

 いや、一緒に居る感じでは、よく判らなかったけれど……そうなんだ。

「だからね、恵介さん……もしかしたら、綾女さんが突然あなたに変なアプローチを掛けてくるかもしれないけれど……勘違いしないでね。くれぐれも、気安く馬鹿なことはしないで。あの子が好きなのは愛美ちゃんであって、あなたじゃないんだから!そのことは、しっかりと心に刻みつけておいてね!」

 ……加奈子さん。

 それって、つまり……加奈子さん自身も、そうだってことですよね。

 つまりオレは、加奈子さんや綾女さんにとって……あくまでも、愛美さんの可愛がっている『飼い犬』でしかない。

 悪い人間が、オレを愛美さんから取り上げないように……保護してくれようとしているだけだ。オレという人間のことは……別にどうでもいいんだ。

「どうしたの?ごめんなさい。急な話で、びっくりしちゃったのね……」

「いえ……別に」

 この人とも……こうやって話すのは、今日が最初で最後になるだろう……。

 まあいい。こんなに綺麗な人と話をしたということだけでも……一生の思い出になる。

 もっとも……この人は、オレが愛美さんと離れたら、オレのことなんてすぐに忘れてしまうんだろうけれど。

「そうよね……まだ中学生なのに『結婚』とか、普通じゃないわよね」

 加奈子さんは、暗い顔でそう呟いた……。

 そうだ。『結婚』で思い出した……。

「あの……加奈子さん。前に、愛美さんが『自分好きな人とは結婚できないだろうから、誰も好きにならない』って話してたんですけど……」

 オレの言葉に……加奈子さんは、ビクッと震える。

「愛美ちゃん、そんなことを言っていたの?!」

「はい」

 うつむく……加奈子さん。

「……そうね、紺碧流の家元を継ぐためには……愛美ちゃんは、それなりの血筋の人と結婚しなくちゃいけなくなるんでしょうね」

 苦々しい顔で……彼女は答えた。

 家のための政略結婚。そんなことが、今の時代にまだあるなんて!

「でも、安心して……もし、愛美ちゃんに結婚話が持ち上がっても、その相手がおかしな男だったら、わたしが全力で阻止するから……!!!」

 加奈子さん……全力でって???!

「変な縁談は……全て必ず絶対に、徹底的に、完膚無きまで、このわたしがギッタギタのメッタメタにブチ壊すから!もう、どんな卑劣な方法を使ってでも……!」

 ニターリと微笑む……加奈子さん!

 あ……この人。

 ホントに……ヤクザ俳優の洞口文弥の娘だ。この笑い方……テレビで観たことある。

 この人、こんなに綺麗なのに……性根のところが、お父さんと同じだ……。

「……愛美ちゃんは、誰にも渡さないんだからっ!!!」

 や、やんわり怖ぇぇ!!!

 オレが、隣の席の美少女に、激しい恐怖を感じていると、ようやく愛美さんたちが戻って来る。

「ごめんなさい……おトイレも売店も混んでいたから」

 愛美さんも綾女さんも、両手にコーヒーのカップを持っている。

「はい……恵ちゃん、コーヒーお待たせっ!」

 右手のカップを……愛美さんはオレに手渡してくれた。

「あ、ありがとうございます」

 オレが受け取ると……。

「どうしたの、恵ちゃん?真っ赤な顔して。何かあった?」

 うん……色々あったんですけれどね。

 オレが口を開く前に、加奈子さんが……。

「いいえ、特に何も無いわ……ちょっと、恵介さんとお話ししてただけよ」

 と、涼しい顔で答える。

 ……女って、怖いな。

 そんな加奈子さんを……綾女さんがツンとした表情で見つめていた……。





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