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5.みちゆき

 夕暮れの町の中……アパートへ戻る帰り道、オレはずっと考え続けた。

 一人ぼっちで。いや、自分一人の本当の『現実』に戻って……。

 オレ……いいのだろうか?こんなことを続けてて……?!

 オレ……いいのだろうか?こんな風に、あの人と会い続けて……?!

 オレの心の中には……どうしょもなく、違和感と恐怖感と焦燥感が渦巻いていた。

 道の途中で……買い物帰りの親子連れを見た。

 自転車を押した母親が、小学校低学年くらいの男の子を連れて歩いている。

「今日はパパの帰りが遅いから、ラーメン食べて帰ろうか?」

「やったぁー!」

 子供は、笑っている。母親も、笑っている。幸せそうな……親子の姿。

 オレは……ふと、立ち止まる。

 そうして、道行く人々の姿を、人一人眺めてみた……。

 みんな、『家族』がいる。

 あの人にも……この人にも。きっといる。

 ……なのに。

 オレには、『家族』がいない。

 バァちゃんは、死んだ。母親はいない。父親は……顔も知らない。

 ……そして。

 三善さんは……本当に愛美さんは、オレの『姉さん』なのか?!

 オレの『家族』に、なってくれるんだろうか……?

 スゥッと心の奥底から……一つの回答が、明確に浮かび上がってくる。

 ……そんなの、無理だ!絶対無理に決まっている。

 だって、オレたちは、あまりにも住む世界が違う。

 オレは『隠し子』で……愛実さんは、正式な奥さんだった人との間の正式な子供……。

 その上、愛美さんは、お嬢様で、名門校に通ってて、美人で背も高くて……。

 オレの方は、どうしょうもないくらいのド貧乏で……馬鹿で、成績も悪くて、学校に友達もいなくて……何より、チビでやせっぽちだ!

 中三なのに、小学生と間違えられるような……貧弱な身体の……!!!

 少しも……愛美さんに相応しい人間じゃない!!!

 こんなんじゃ、オレたちが、『家族』になんてなれるわけがない……絶対に。

 こんな状態で……ずるずると、愛美さんと会い続けるわけにはいかない。

 オレはきっと、オレは……あの人に甘えて、迷惑を掛けるだけの情けない存在になってしまうだろう。

 あの人は、オレに食事を作ってくれようとするだろう。今日みたいに、オレに、物を与えてくれようとするだろう。そのうちには、お金だって、置いていってくれるようになるだろう。ずっと、みっともないオレのために、何かをしてくれようとし続けるだろう……。

 それは……『家族』か?!

 違うだろう。オレは……愛美さんに施しを受けているだけじゃないかッ!

 オレは、愛美さんに何も返せない……何もしてあげれない。

 だって、オレは、何も持っていないんだから!

 その上……オレと会うことは、彼女に時間と労力を無駄遣いさせることになる。

 すでに今日、愛美さんは、『習い事』を休んで来てくれた。彼女のお祖父さんに、叱られるリスクを背負ってまで……。

 このままでは、いけない!こんなことが、ずっと続くわけが無いんだから。

 今なら、まだ引き返せる……忘れることができるはずだから。

 だから……次に愛実さんが、オレに「会いたい」って言ってきた時は……。

 理由を作って断ろるしかない……。

 もう二度と、彼女とは会わないようにしよう。

 そうするべきだ……それしかないんだ。

 そういう結論に達して……オレは、アパートに戻った。

 一人きりの部屋は静かだ。寂しい……少し、怖くなる。

 昨日までは、一人で居ることも、こんなに怖くはなかったのに。

 部屋の中には、バァちゃんの祭壇の線香の香りと、それからほのかに、愛美さんの匂いが残っていた。

 オレは『消臭スプレー』でその匂いを消して……。

 それから……ちょっとだけ一人で泣いた……。



   ◇ ◇ ◇



 ……と、こ、ろ、が!!!

 夜の十一時過ぎに、突然、携帯電話が鳴った。

 オレの知らない、妙に明るいクラッシックっぽい音楽が、ジャンジャラジャーラ!ジャンジャラジューラと、流れてきて!

 液晶の画面を見てみると……。

〔メールが一件、届いています〕

 昼間教わった通りに、キーを操作してみる……。

〔送信者:愛実お姉ちゃん/件名:お休みなさい。

 今日はとても楽しかったです。髪の毛ごめんね。でも、坊主頭の恵ちゃんも可愛くて、お姉ちゃん好きよ。寝冷えしないようにね。お休みなさいっ!〕

 オレは、しばらく……呆然とその画面を眺めた。

 急に頭の中に、愛実さんの笑顔とか、匂いとか、手の感触とか、そういう生々しい記憶が、ぐるぐると蘇って来る。

 何か、お腹が減っている時みたいな……切ない気持ちが、身体の中を駆け巡った。

 ……すると。

 また突然、携帯電話がジャンジャカジャーラッ!と鳴り出して!!!

 画面を見ると?!

〔着信:愛実お姉ちゃん〕―!!!

 はいいいいいいっ???!

 何で、たった今メールしてきたばかりの人が……今度は直接、電話を掛けてくるぅ?

 オレは……おそるおそる、通話のキーを押す。

『おっそーいっ!恵ちゃん、あたしからのメール、見た?見た?もう、見たわよね?!』

 愛美さんは、すでにハイテンションのマックス・モードだった!!

「は、はい……見ましたけど……?」

 オレ……こんなに怒らせるようなこと、何かしたか?

「あのねぇ、恵ちゃん!お姉ちゃんからメールが届いたら、すぐに返信をするっ!そうじゃないと……ちゃんと恵ちゃんに届いたのかどうか、お姉ちゃんが判らないでしょ?!」

 ……え。そ、そういうものなんですか?メールって……!

「メールに気付いたら、一分以内に返信!それがルールだからねっ!!!」

 そんな、大変なものなんだ!!!知らなかった!!!

「あ……もしかして、恵ちゃん、返信の仕方が判らなかったの?」

 愛美さんが、そんなことを言い出してくれたから……うん、そういうことにしよう。

「あ、はい……正にそんなような感じだったんです!」

 愛美さんの怒気が……サワァァと晴れる。

「なぁんだ、そうなんだ……良かった!」

 ……へっ?!

「お姉ちゃん、恵ちゃんに嫌われちゃったんじゃないかって、ちょっぴり心配になってたんだからねっ……もお!」

 ああ……だめだ。オレもう、この人のペースから逃れられないのかもしれない!完全に、底なし沼にスブズブとハマり込んでいるような気がする。

「ところでさ、恵ちゃん。今週の金曜日なんだけど、学校が終わった後に何か予定はあるかな?」

 いけない、いけない。しっかりしろ、恵介。

 さっき決心したばかりじゃないか!

「あの……金曜日は、ちょっと用があって」

 断れ……ちゃんと、断るんだ。

「ふーん……どんな用?」

 ど、どんな?!それは……ええっと。

「それは、その……学校で、ええっと」

 ……思い付かない。普段から、学校で他のやつらと交流してないから、とっさに適当な言い訳が……頭に浮かばないッッ!!!

「恵ちゃん……本当は、用になんて何も無いわよねっ!」

 な、何でバレる?

「……は、はい、すみません」

 電話の向こうから、クスッという笑い声が聞こえてくる……。

「……恵ちゃんて、嘘下手よね」

 ……え?

「お姉ちゃんには、すぐに判るんだからねっ!」

 いや、誰にだって判るだろう……オレの見え透いた嘘なんて、どうせ。

「あのね……今度の金曜日の放課後、お姉ちゃんとデートしようよっ!」

 ででで、デート???!デートって?……まさか、あのデートなんじゃ?!

「あ……デートじゃないか。お姉ちゃんのお友達も来るから」

 デートじゃない?……友達も来るぅ???!

 オレには……何がなんだかよく判らない。

「うん、女の子が二人……二人とも、とっても綺麗な子なんだよっ!」

 女の子が……二人って……愛美さんの友達なんだから……。

 やっぱり、オレよりも年上なんだろうな……。

「一人はね、洞口加奈子さん……ほら、今日話したでしょ?」

 ああ……ヤクザ映画の名優、洞口文弥の娘さん……。

「もう一人はね……高塚綾女さん」

「それって、もしかして五歳の弟がいる?」

 弟と風呂に入るって人か……。

「そうよ。二人とも、お姉ちゃんの親友なの。それでね……えっと、恵ちゃん、金曜日なんだけど今日と同じで、三時半に帰って来られるかな?」

 ……やばい。このままでは、約束させられてしまう。

「で、でも……愛美さん」

 何としても……この状況を変えないと……。

「なあに?」

「あの……金曜日は愛美さん、日舞のお稽古なんじゃ……」

 そうだ。今度の金曜日は、お稽古優先にしてもらって……オレと会うのは、『またの機会に』ってことに……。

「大丈夫よ……その日はあたし、『カンゲキビ』だから」

 ……カンゲキビ?

「ええ。あたしの家では、『カンゲキビ』は、お稽古をお休みしてもいいことになっているから……」

 カンゲキビ……感激日……間隙日?何だ???!

「えっと……意味がよく判らないんですけど……」

 そしたら……愛美さんは。

「詳しいことは、金曜日に話すわ。じゃあ、お姉ちゃん、三時半におうちまで迎えに行くから……いいわね!!!」

「えっと……あの」

「恵ちゃん、お返事は?!」

「……そ、その」

「い、い、の、よ、ねっ!!!」

 うわわわああ。この人に抵抗するのは……無駄なことなのかもしれない。

「は、はい……判りましたっ……!」

「……よろしいっ!」

 ……終わった。何もかも。

「お姉ちゃん、とっても楽しみにしてるからね!」

 だけど、愛美さんは……嬉しそうだった。

「朝にまた『お早う』のメールするからねっ!今度はちゃんと、すぐに返信するのよっ!」

「は、はい」

「じゃあね、お休みっ!」

「……失礼します」

 そして……電話が切れた。

 薄暗い部屋の中で……オレは一人、途方に暮れる……。



   ◇ ◇ ◇



 そうして、朝にはまた『お早う』のメールが届いて、[お早うございます]とだけ返信をしたら……。

 「返信文が短い!」と……またお叱りの直電が掛かってきた。

 夜の就寝前には、また『お休みなさいメール』が……。

 火曜日、水曜日、木曜日、金曜の朝と……そんな風に、愛美さんと『メール』のやり取りが続いた。。

 オレ、ちょっとマヒしてきたかもしれない。『愛美さん』という……不思議な『姉』の存在に。

 いつの間にか、メールが届くのを楽しみに待っているオレがいる。

 携帯の画面の中の……愛美さんの画像を、ジッと見つめているオレが……。

 ヤバイと思う。このままでは……オレ。

 愛美さんに……恋してしまう。

 愛美さんはオレを……『弟』だとしか思っていないのに。

 オレにとっての愛美さんは……やっぱり『姉』じゃない。あの人はとっても綺麗な、年上の女の人で。

 ……どうしよう?このままじゃいけない。

 ……でも、オレ。



   ◇ ◇ ◇



 約束の金曜日が来た。

 学校から急いで帰って来ると……愛美さんは、もうアパートの前で待っている!

 今日も、天覧学院の夏の制服姿で。

「あっ、お帰りなさい。早かったわね」

 愛美さんは、聖母マリア様のような笑顔でオレを出迎えてくれた。

 ……でも、待てよ。

「あれ……お友達は?」

 確か……友達を二人連れて来るって言ってなかったっけ?

「ああ……加奈子さんたちは、大通りのところで待ってもらってるの!ほら、ここ暑いでしょ?」

 そう言って、愛美さんはハンカチで首元の汗を拭う。この時間は、アパートの玄関口は陽光が直接当たって暑いかもしれない。

「すみません……暑苦しい場所で」

 ていうか……さすがに、天覧学園のお友達たちを、このボロアパートにまでは連れて来たくなかったんだろう。この部屋は、お嬢様たちが来ていい場所じゃない。

 オレは……急いで部屋の鍵を開ける。靴を脱いで部屋の中へ。

「ちょっと待ってて下さい。すぐに、着替えてきますから!」

 どこに行くにしても、公立中学校の制服のままではマズいだろう。幾ら何でも、この格好のままでは、どっから見ても、男子中学生そのものだ。

 とにかく……着替えよう。

 だけど……オレは、お嬢様学校の人たちと並んで歩いて恥ずかしくないような服なんて持ってないよな。さて、どうしよう?

「着替えなくていいわよ、恵ちゃん」

 愛美さんが……テンパっているオレを呼び止める。

「はい?」

「その格好でいいから。というか、制服姿の方がいいのよ!」

 と……愛美さんも、オレに続いて部屋の中に入って来る。

 玄関のドアをパタン閉めた。

「でも……中学の制服ですよ、これ?」

 公立中学校の黒ズボンに、夏用の半袖のYシャツ、校章付き。

「……それがいいのよっ!」

 愛美さんは「チッチッチ」と人差し指を振って、オレに言う。

「恵ちゃん、判ってる?学校の制服は、どんな場所でも『フォーマル』なのよ!」

 ……ふぉーまる?

「どんな格式の高いところにでも入れるってことよ!」

 か、格式って。あの…今日は、オレをどこへ連れて行くおつもりなんですっ???!

「恵ちゃん、ちょっと制服のYシャツさ」

 愛美さんが、ジロッとオレを見る。

「……もうちょっと、綺麗なのはあるかな?」

 えええ、そんなこと……急に言われても。

「……その。オレの持ってる制服のシャツは、みんな同じくらいクタクタです!」

 中学に入ってから、オレはそんなに背が伸びていないから、入学した時に買って貰ったYシャツもまだまだ着ることができる。というか、着ないといけない。うちは、貧乏なんだから……。

「うん。そうだと思った!だから、お姉ちゃん用意してきたのよっ!」

 ……用意って?!

「はい……これに着替えて」

 そう言って、愛美さんは……自分の通学バッグから、ビニール袋に入った新品のYシャツを取り出した。袋からを出して、オレの上半身に当てる。

「うん……いい感じね。サイズも丁度良さそうっ!」

 嬉しそうに微笑む……愛美さん。

「あの、このシャツは?」

 何か見るからに、高そうなんですけれど。オレのシャツとは、生地から違うような。

「ああ、これはね……昨日の帰りに、お姉ちゃんがデパートで買ったのよ!」

 デ、デパートでって。いや、愛美さんのことだから。普通の、駅前の安売りしているような、量販百貨店じゃないよな。

「うん。昨日のお稽古に行く途中に、銀座に寄ってね!」

 銀座のデパートって……お金持ちしか入っちゃいけないのでは?!

 エレベーターの中に、専用パイロットのお姉さんを常駐させているようなところでしょ?!『ご希望の階、承ります』って!

「じゃ、オレ、お金払います。何かこのシャツ、ものすごく高そうだし!」

 ブランドとかよく判らないけれど。とにかく、雰囲気からして、何か高級品ぽい感じがする。こんな高価そうな物を、愛美さんからタダで貰うわけにはいかない。

 ……しかし。

「そんなの後でいいから、早く着替えて!」

 愛美さんは、もの勢いでオレを押し切る……。

「それと……ベルトもこれの方がいいわっ!」

 愛美さんの通学カバンから……今度は、革のベルトが出てきた。

「男の子のベルトは、やっぱり革じゃないとダメよっ!」

 確かに、僕のベルトは、三百円で買った厚手の布のベローンとしたやつですけど……。

「でも、これ……バックルとか金ぴかじゃないですか!」

 こんなペカペカした物を……オレが身に付けても許されるのだろうか?

「文句言わないでとっとと着替えるッ!お友達、お待たせしているんだからねっ!」

 愛美さんは、オレに、頭ごなしに命令する……。

 はぁ。今日はしょうがない……あきらめよう。

 愛美さんのお友達に、あんまりみっともない格好を見せられないもんな……。オレじゃなくって、愛美さんが恥をかくことになるんだし。

「あの……着替えますから、後ろ向いててくれませんか?」

 ……と、オレが言うと。

「え、何で?」

 いや……何でって、何で。

「ああ、恵ちゃん、恥ずかしいのね?」

「それは、まあ……その」

 こんな綺麗なお姉さんの前で、ベルト外せば……パンツが丸見えだ。そんなことできるわけがない。

「もおっ……しょうがないわね。じゃ、後ろ向いててあげるから……はいっ!」

 愛美さんが、玄関のドアの方を向いてくれる。

 オレは、急いで着替えを始める。まず、今着ている古いYシャツを、パパパッと脱いで、愛美さんの持ってきてくれた新しいシャツにチェンジ!

 うわっ!このシャツ、肌触りからして、いつもの安売りと違うぞ!!

 ベルトも革なのに、とっても柔らかくて、これ……何の革だ?牛、馬、ひつじ、さる、いのしし、とり……???!

「それはね、コードバンよ」

 オレが着替えた頃合いを見て、愛美さんがこっちに振り返る。

「……コードバン?」

「馬のお尻の辺りの革なの……ベルトの穴は合う?」

 オレは……ベルトをキュッと締める。

「はい。1番内側の穴で、何とか締められます」

 愛美さんが、ニコッと笑った。

「良かった……それ、お祖父様が『もう使わない』っておっしゃってた物なのよ」

 ……え?!

 小柄なオレが締められるってことは……愛美さんのお祖父さんも、相当痩せている人なんだな。

「だから、このベルトは、恵ちゃんがずっと持ってていいからねっ!」

 も、持ってていいって?

ー「いや……いいですよ。こんな高価そうな物」

「もう使わない物なんだから、黙っていただいておきなさいっ!」

「……でも」

 こんな立派なベルト……していく場所なんてないし。学生服なんかを着る時に、付けていいようなベルトじゃないよな……これ。

「恵ちゃん、お金無いんでしょ!革のベルトの一本ぐらい持ってないと、困るんだからね。文句言わないの!」

「……だけど」

 オレのこれからの人生で、革のベルトが必要になるようなことは、まずないと思う。

 背広を着るような仕事に就くことは、まずないだろうし……。

「もおっ!ぐだぐだ言ってると、恵ちゃんの舌、引っこ抜くわよ!」

 愛美さんか、プクッと膨れる!

「あ……はい、判りましたっ!」

 まあ……持っているだけなら、いいか。

「よろしいっ!」

 ……どうにか、着替えが終わった。

「ほら、ベルトを革のちゃんとしたやつに替えたら……ズボンのラインがスッと綺麗に出ているじゃないっ!」

 そういうことは……オレには、よく判らない。

「でも、オレ……何を着ても似合わないですから」

「え……どうして?」

 愛美さんが、不思議そうにオレに尋ねる。

「だって、オレ、体格が貧弱ですし。背が低くて、小柄で、肩幅も無いし……服とかベルトとかに気を遣ったって、格好良くはならないんですよ」

 ちょっと自嘲気味に……オレは答える。

「いいわよ……別に格好良くなくたって!」

 愛美さんは、ケロリと言った。

「その分……恵ちゃんはとっても可愛いんだからっ!」

 可愛い?またそれかよ。オレは、中学3年生なんだ、男なんだぞ!

「それより……恵ちゃん、お姉ちゃんに手を見せて」

 ……手?

「早くっ!」

「あ、はい……!」

 オレは、慌てて愛美さんに手を差し出す。

「ああんっ!やっぱり、指の爪が伸びてるぅぅ!恵ちゃん、『爪切り』はどこっ?!」

「そ、そこの机の引き出しにありますけど」

「……持ってきて、すぐっ!」

 オレは……ダッシュで爪切りを取ってくる。

「はい、お姉ちゃんが切ってあげるからねっ!」

 愛美さんが、オレの手を握る……!

「いや、爪ぐらい自分で切れますから!」

「いいからっ!お姉ちゃんが、切ってあげるのっ!」

 愛美さんに、指の爪を切ってもらうなんて。何か、オレ、ものすごく『小学生』扱いされているような気がする。

 それでも断ることができずに、オレはパチパチと爪を切られる……。

「……はい、これでよし!」

 爪切りに満足した愛美さんは、大きく頷く。

「じゃあ、行きましょう!恵ちゃん、早く革靴を出して……!」

 か、革靴?

「……革靴、持ってるわよね?」

 ……え???!

「そんなの、持ってませんけど」

 愛美さんの顔が、驚愕する……!

「な、何でよっ?!」

 いや……何でって、言われたって。

「だって……必要ないから」

「恵ちゃんの学校は、入学式とか卒業式とか……公式の行事な時には、革靴じゃないといけないんじゃないのッ?!!!」

 ……いいえ。愛美さんの通っている『お嬢様学校』なら、そうかもしれないけれど。

「うちの中学は、白の運動靴なら何でもいいという校則なんで……革靴なんて、別にいらないんですけど」

「……ええええええーッ!」

 愛美さんが、パニックに陥る!


「も、盲点だったわ!!どうしよう、もう革靴を買いに行ってる時間なんて無いし……!」

 愛美さんが……真剣な顔で困惑している。

「いや、あの……革靴ってそんなに大事なんですか?」

 オレには……よく判らない。

「大事よぉ!靴はお洒落の要でしょっ!!!」

 そうなんだ。知らなかった。

「もういいわ、仕方ない。今日は諦める……恵ちゃん、今度、お姉ちゃんと革靴を買いに行きましょうねっ!」

「いや……でも、本当に必要ないですから」

 ……本当に、履いていく場所が無いんだってば。

「……靴は大切なのっ!!」

 愛美さんの絶叫が……アパートの部屋の中に轟いた……!



   ◇ ◇ ◇



 とりあえず……一番汚れの目立たない黒いスニーカーを履いて行くことになった。といっても、このスニーカーも大分くたびれているけど。靴紐が、汚くなっているし。

「……では、お祖母様、今日は恵ちゃんをお借りします」

 家を出る前に……愛美さんが、バァちゃんの遺影に挨拶してくれた。

「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 オレも……バァちゃんにそう告げる。

「さあっ!恵ちゃん、急ぐわよっ!!!」

 オレたちはアパートを飛び出して、少し早歩きで大通りに向かった。

「もう、思ったより時間が掛かっちゃたわ!」

「……すみません」

 何か、自分が怒られているような気がして……つい、愛美さんに謝てしまった。

「恵ちゃんはいいのよ!あたしが、お友達に可愛い恵ちゃんを見せたかっただけなんだから!」

 愛美さんはそう言って、オレにニコッと微笑んでくれた。。

 ……やっぱり、『格好いい』ではなく、『可愛い』なんだ。

 何だか……ガックリくる。

「こっちよ……恵ちゃんっ!」

 大通りへ出ると……路肩に、大きな黒塗りの車が一台停まっていた。

「これ、ベンツかな?」

「……ロールス・ロイスよっ!」

 愛美さんは……真っ直ぐその高級車に近寄っていった……。

 ……え?!

 すると……運転席から、黒っぽいパンツスーツを着た女の人が、サッと降りてくる。

 綺麗というより、とってもカッコイイ感じの美人だ。背が高くて、スラッとしててスタイルが良い。ピンクのフレームの眼鏡を掛けている。年齢は……二十代の前半ぐらいに見えるけど。

「ごめんなさい……時間が掛かって」

 愛美さんが、その眼鏡の美人さんに話し掛ける。

「大丈夫ですわ……まだ、充分に間に合う時間ですから」

 美人さんは、ニコッと微笑む。そして。

「こんにちわ」

 なぜか、オレに挨拶してくれた……。

「恵ちゃん……こちらは、山辺清香さん。時間に余裕が無いから、今日はお車を出していただいたのよ!」

 愛美さんが……そう、紹介してくれた。

 そうなんだ。じゃあ……このロールス・ロイスは、山辺さんの家の車なのかな?

 オレや愛美さんのために、わざわざ車を出してくれるなんて、愛美さんとはどういう関係の人なんだろう?

「今日は、よろしくお願いします」

 オレも、とりあえず頭を下げる。

「……どうぞ」

 山辺さんが……スッと、後ろの座席のドアを開けてくれた。まるで愛美さんが、山辺さんのご主人様みたいに。その動作は、とても自然だった。

「ありがとうございます。さ、恵ちゃん、先に入って」

 愛美さんが、そう言ってくれる。

「あ……はい」

 オレが、車に乗り込もうとすると……。

 車の後部シートの奥には……すでに先客が座っていた。

「……こんにちわ」

 愛美さんと同じ、天覧学院の制服を着た……女の人!

 読んでいた文庫本から、スッと顔を上げて……オレに、ニコッと会釈してくれた。

 ……ものすごい美人だッ…!

 愛美さんとは、また違った感じの……大人っぽい、しっとり落ち着いた雰囲気の女性。

 愛美さんの美貌は、日本的な黒髪美人だけど……この人は、地中海とかの白い海岸で爽やかな風の中に立つ『春の女神様』のような西洋的な豊かで穏やかな美しさがある。

 そう……豊かだ。愛美さんより……胸が大きい。遙かに大きい!!!

「こ、こんにちわ」

 オレは……慌てて、女の人に挨拶する。

「初めまして……わたし、洞口加奈子です!」

 うわっ、天使の微笑みっ!声も、とっても大人っぽい。ハスキーでセクシーだ!

 この人が……映画俳優・洞口文弥の愛娘?!

 うん……この美しさなら、お父さんが、学校中の男子生徒を脅しまくっているのも理解できる!

「……乗るのなら早くして」

 と、今度は車の前方の助手席から、また別の女の人の低い声が聞こえた。

 ルーム・ミラー越しに……切れ長で二重の涼しげな眼が、オレをジロッと見ている。

 オレの位置からは、肩と袖しか見えないけれど……やっぱり、愛美さんと同じ天覧学院の制服だ。ということは、この人が愛美さんのもう一人お友達の……?!

「ほら、恵ちゃん、もっと奥に入って!」

「あ、はい」

 愛美さんに促されるまま、オレは後部シートの中央に座る。

 すかさず、隣に愛美さんが乗り込んできて、パタンとドアを閉める。

 ええっと……オレは、人よりも背が低くて小柄だ。愛美さんは、長身でスタイルがいい。洞口加奈子さんも、愛美さんと同じくらいの背丈かな……スタイルは、愛美さん以上だ。

 と、いうことは……車の後部座席で、オレは背が高くてプロポーションの良いお姉さん二人に、ギュッと挟まれるような感じになっているわけで……。大きくて幅のある車だから、別にぴったり肩をくっつけて座ってるわけではないんだけど、それでも緊張する。

 つーか、この車の中には、すっごく女の子の甘ったるい匂いが充満してるぞ!

 オレ、汗臭くないかな?今日は、体育の授業があったし。ちょっと、心配になる。

「では、参ります」

 運転席の山辺さんが…エンジンを始動させる。トゥルルルルルッ!!

 オレたちを乗せたロールス・ロイスは、スイッっと滑らかに走り出す!

「……何時からだっけ?」

 助手席に座っている、愛美さんのもう一人のお友達の女の人が口を開く。

「確か、四時半よ」

 加奈子さんが答える。車のダッシュボードの時計を見ると……三時五十分。

「……ギリギリね」

 え、僕が着替えとか、のろのろとやってたせいか?!

「大丈夫よね、清香さん」

 愛美さんが、山辺さんに尋ねた。

「はい、安全運転で充分間に合いますわ」

 はぁ。良かった。

「あ、恵ちゃん。みんなを紹介するね」

 愛美さんが、オレに微笑みかける。

「えっと、洞口さんには、さっきご挨拶していただきました」

 愛美さんも見ていただろうけれど、一応、そう言っておく。

「加奈子さんはね、この間も話した通り、お姉ちゃんと幼稚園からずっと一緒の親友なの。お祖母様の日舞のお弟子さんでもあるのよ!」

 へえ、そうなんだ。

「愛美ちゃんだって、わたしの先生よっ!」

 加奈子さんは、華やかな笑顔でそう言う。

「お稽古中に、わたしが判らないところがあったりするとね……スッと近くに来て教えてくれるの。いつも、とっても助かっているのよっ!」

 親友の言葉に照れる、愛美さん。

「それはね……加奈子さんとは、いつもお稽古の時間が一緒だから」

「愛美ちゃんは人に教えるのが上手なの。撫子先生も、とっても褒めていらっしゃったわ!」

 ……撫子先生?

「あ、恵ちゃん、『紺碧撫子』っていうのが、お祖母様の踊りの時のお名前なの」

 踊りの名前?!

「うん……踊りの時だけの名前がね……」

 それから、ちょっと恥ずかしそうに。

「お姉ちゃんにもね、『紺碧桜子』っていう名前があるの」

 え、愛美さんも?

「愛美ちゃんは、『名取り』なのよ。撫子先生、ご自慢の孫娘なんだから。今年の春からは、小学生のクラスで指導もしているんでしょ?」

 名取り……指導……?

「それは……あたしはお祖母様に言われて、初級クラスのお手伝いをしているだけよ。指導なんてしてないわ。あたしは『名取り』だけど、『師範』の資格は持って無いもの」

 師範……どんどん知らない単語が増えていく。

「それでね、恵ちゃん。今、車の運転をして下さっている清香さんは、一昨年からお祖母様の『内弟子』をなさっているの」

「ウチデシって何です?」

 ついに聞いてしまった。そろそろ、話が判らなくなってきている。

「内弟子っていうのはね、自分の師匠の先生の家に住み込んで、お世話をしながら修行をするお弟子さんのことよ」

 と、いうことは……愛美さんのお祖母さんは、住み込みの弟子がいるような偉い先生ってことか?何か、話のスケールが想像できない。全然判らない。判らなすぎる。

「……彼、よく判ってないみたいよ。ポカンとした顔してる」

 ルーム・ミラー越しに、切れ長の眼が僕を観察している。

 あ……この人はまだ、紹介して貰ってない。


「あ、恵ちゃん。彼女は、高塚綾女さん。こないだ話したでしょ。可愛い弟さんがいるって」

「……あんなの、全然可愛くないから」

 切れ長の眼が……冷たい口調でそう言った。

「何言ってるのよ。綾女さん、いつもとっても可愛がってるじゃない!」

「可愛がってるけれど……別に可愛いとは思ってないから」

 綾女さんは、そっけなくそう言った。

「綾女さんはね……お姉ちゃんが天覧の中等部に入ってからのお友達なんだけどね……彼女は、ミュージカルのダンサーを目指しているのよ!」

 日舞の次は、ミュージカル。踊る人ばっかりだな……この車の中。

「……初めまして」

 ミラーの中の眼は、そっけなくそれだけ答えた。

「よ、よろしくお願いします。ところで、愛美さん!」

 オレの頭に、ちょっとした疑問が浮かぶ。

「なあに、恵ちゃん?」

「あの、もしかして、この車の中のみなさんは僕のこと?」

「ええ、知ってるわよ、みんな。恵ちゃんが、あたしの『弟』だってこと!」

 やっぱり……!!!

「な……何で?」

 だって……オレは、愛美さんの腹違いの『秘密の弟』で……『隠し子』で。世間の皆様に、大々的に公表して良いような存在じゃない……そう思う。

「いいのよ!ここにいるのは、みんなお姉ちゃんの親友だから。加奈子さんも、綾女さんも、清香さんだって。お姉ちゃんが、大切なことを、みんな打ち明けられる大事なお友達なんだからっ!」

 愛美さんは……ニッコリと微笑んだ。

「……大丈夫、問題ないわ」

 ミラーの中の綾女さんの眼が、オレにそう言った。

「わたしたちは、愛美ちゃんの味方よ。だから……恵介さんの味方でもあるの!」

 加奈子さんが、オレの膝に自分の手を置いて、そう言ってくれた。

「私もです」

 運転席の清香さんまで。

「恵ちゃんは、もう一人じゃないんだからねっ!」

 愛美さんも、自分の手をオレの手に重ねてくれた。

 愛美さんの手は……柔らかくて、温かい。この温もりを……オレは、信じていいのだろうか?!

「あの、ところで……愛美さん、今日はどこへ行くんです?」

 そうだ。この顔ぶれで、この車はどこへ向かっているんだ?みんな、時間を気にしているけれど。

「あれ……恵ちゃんに言ってなかったっけ?」

「聞いてませんけど」

「嘘よ。電話でちゃんと言ったでしょ。今日は『カンゲキビ』だって!」

 だから……!

「その……『カンゲキビ』って何なんです?」

 愛美さんが、眼を丸くする。

「あ、そっか。恵ちゃんには、ちゃんと意味が伝わってなかったのねっ!」

 うん……全然判らないっての。

「ごめんなさい。『カンゲキビ』っていうのは、『劇を観る日』っていうことよ!」

 ゲキヲミルヒ???!

 劇を観る日……観劇日……なるほど。

 ……えええっ?!

「劇を観るって???!」

 愛美さんが、フフッと笑う。

「はいっ!あたしたち、今日これから『歌舞伎』を観に行きますっ……!」

 カ、カブキ?!カブキって……何ぃぃぃ?!





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