4.さんぱつ
「さあ……始めましょうかっ!」
三善さんは、そう言ってハサミをカチカチさせる!
オレは……もう、言葉が出ない。
う、嘘ですよね?お願いだから、嘘だって言って下さい!
「恵介くん。これ持って、そっちの端を引っ張ってくれるっ!」
三善さんは、通学カバンからピクニック用のビニール・シートを取りだして、畳の上に敷いていく。なぜか、オレもお手伝い。あ、ホントに本気なんだ。
「はぁい、恵介くんは、ここに据わって下さぁいっ!」
言われるままに……オレは、シートの真ん中に正座して座る。こうなりゃ、ヤケだ。まな板の鯉だっ!
「それでは!」
続いて三善さんは……オレの首元に、これまた美容室をやっているというお友達から借りて来たのだろう……散髪用のビニール布をフワリと掛ける!
オレ……てるてる坊主みたいになってませんか?あるいは、『妖怪油すまし』。
「……切りますっ!」
あの、三善さん。せめて「どんな髪型にする?」とか「もみあげは残す?」とか、そういう話はしないんですか?!あ、しないんですね。オレの希望とかは、全然聞かないんですね。じゃあ、もういいです。あきらめます。
……どうにでも、しやがれっ!!!!
「もおっ!そんな『これから殺される』みたいな顔、しないでよっ!」
殺されはしないだろうけれど……不安がいっぱい、目一杯。
「じゃあ……ホントに切りるからねっ!」
三善さんの細い指が……オレのボサボサの前髪を掴む。
軽く捻って……ジャキリッ!
最初の一撃が、オレの毛をバッサリ落とす!
「よしよし……いい感じ、いい感じ!」
そんな……まだ、切り始めたばっかりじゃないですか!
「お姉ちゃんが、恵介くんの頭を格好良くしてあげますからねっ!」
……ああああ。
三善さん、段々、眼が据わってきてるし……どうなるんだ、オレ?!
し、しかし、現在の三善さんは……ビニールシートの上に正座しているオレの前に立て膝になって、オレの髪の毛と格闘している状態だ。。
つまり、今、オレの眼の前には……三善さんの制服の青いベストに包まれた柔らかそうな胸が、ゆらり、ゆらーりと、揺れているているわけで。肉迫しているよわけで。
……ゴ、ゴクリ。
思わず、唾を飲み込んでしまう。
オレ、こんなに若くて綺麗なお姉さんのおっぱいを、こんな近くで目撃するのは……これが、初めてだ!
二つの豊かな山が、オレの顔に接触しそうなくらいにまで近寄ってくるぅぅ!
いやいやいーや……当たってる。何か……ムニュッて、当たってるよ!!
オレのほっぺたに……当たってるよおおおっ!!
……や、ヤバイよ!
ほっぺたで、制服の布地の下の……ブラジャーの素材の感触まで判る!
その下の……ぷっくりとした肉塊も……!
何という……弾む手応え!
み、三善さぁんっ、もしもーしっ!!!
「……ちょっと、動かないでっ!」
三善さんの左手が、クイッと、オレの頭をねじ伏せる。
その瞬間、ビビビビッと凍り付いたように、オレの全身は硬直する!
おでこに……三善さんの指の感触が残っている!
「もおっ!動いたら、危ないでしょ?お姉ちゃん、刃物を持っているんだからね!耳とか切っちゃったら、どうするのよ!」
三善さんの綺麗な声が、真上からオレを叱る。
「は、はい、動きませんっ!もはや、1ミリたりとも身動き一つ致しませぬっ!」
オレは、甲高い声で叫んだ。
何で声のトーンが高くなってしまったのかは……よく判らない。
「そんなに緊張しなくていいから……ジッとしているのよっ!」
三善さんは、どんどんハサミを振るっていく!
見上げると、三善さんの細い首筋が見える。そこに浮かぶ……丸い汗の滴。
汗ばんでいるからではないんだろうけれど……三善さんの身体からは、女の子のいい匂いがした。甘いミルクのような、優しい匂いが!
一方、オレの顔の前では、相変わらず二つの胸のふくらみが揺れている。
髪を切るのに慣れてきたのか、もうオレの頬に、胸が当たるようなことはない。残念。
オレは……そこから下に視線を下ろす。
三善さんの腰は……何て細いんだろう?このままギューッと、抱き締めてしまいたくなる。もちろん……そんなことは、許されない。
見るだけだ。見るだけだぞ……オレ!
この人は……オレとは違う世界の人なんだから……。
今、一緒に居るのは、何かの間違いで……これは本当に、今だけのことなんだから。
こんなの、夢だ……!夢だから……もっと、見ておこう。醒めないうちに……。
三善さんの腰の下にあるのは、制服のスカートから伸びた二本の足!
これまた、びっくりするぐらい細い。
それでも……太ももは、つるんとしていて……とっても触り心地が、良さそうで。
……あああああ!
「……緊張したままなのね、恵介くん」
三善さんの悲しそうな声に……オレは、ハッと顔を上げる。
三善さんの大きな瞳が、オレを見下ろしている。
「お姉ちゃんと居るの、怖い?」
……怖いって?
「怖くないからね。愛美は、恵介くんのお姉ちゃんなんだから……絶対に、恵介くんに酷いことはしないわよ。約束するから」
……三善さん?
「だから……安心していいのよ!」
オレ。本当に……『子供』だと思われているんだ……。
オレだって……男なのに……。
「うん……急ぐことはないよね。そういうのは、ゆっくり時間を掛けて……少しずつ、信頼関係を築いていくしかないもんね」
三善さんは……そう言いながら、オレの髪を切っていく。
ハサミのチョキチョキという音だけが……しばらく、部屋の中に響いていた。
オレは、黙って……三善さんの顔を見上げている。
真剣な顔でハサミを動かしている、三善さん……。どこから見ても、最高に綺麗な女の人だとオレは思う。
本当だったら、オレみたいな貧乏中学生は、話をすることさえ許されないような美人の『お嬢様』。そんな人が、今、オレの髪の毛を切ってくれている!
嘘だ。やっばり、こんなの……夢に決まっている。
こんな素敵な人がオレの『お姉さん』だなんて、そんなこと……あるわけがない!
「うーんと」
三善さんは、オレからちょっと離れて……全体のバランスを見ている。
「ま、後で調整すればいいかな……」
長い毛を、大まかに切り落とすと、今度は、櫛を使いながらの細かいカット作業に入っていく。
……ジャキッ!
……ジャキッ!
……ジャキジャキッ!!!
ハサミを使いながら……三善さんが、何となくオレに言った。
「ねえ、恵介くん」
「……な、何です?」
オレはその一言だけで、ドキリとする。
「恵介くんは、学校に好きな子とかいるの?」
……あわわっ!いきなりストレートに剛速球が飛んできたッッ!
「……い、いないです」
そ、そんな子……!
「えー、好きな子いないんだ……?!」
オレみたいな貧乏人が……レンアイとか、していいはずが無い。
女の子にジュースをオゴってやるどころか、自分の分のジュース代だって持ってないんだから。
彼女ができると、お金が掛かる……浪費する……消耗する。
それは、現在のオレの生活においては死に直結する!
「そ、そう言う……三善さんはどうなんです?」
これ以上、こんな質問をされるのは困るから、オレも直球で勝負するッ!
質問に質問で返すのは0点なのかもしれないけれど、背に腹は代えられない!
何より、三善さんに恋人がいるのかどうか、確認しておきたい。
どうせがっかりするのなら、早い方がいい。今ならまだ、小ダメージで済むはずだ……。
「み、三善さんは……『彼氏さん』とか、いらっしゃるんですか?」
オレは……清水の舞台から飛び降りる覚悟で、そう尋ねてみた。
……1秒。
……2秒。
……3秒。
三善さんから……返答は無い。
「……ぷっッ!」
突然、吹きだして笑い出す、三善さん!
「いないわよ、彼氏なんて……!」
笑いながら、ハサミをパチパチさせていく。
「そ、そうなんですか」
良かった。『彼氏さん』なんて、居ないんだ。
……いや。これは……喜ぶべきことなんだろうか?
何にせよ、オレには、関係無いことなんだぞ。
「ていうかね……あたし、男の人とお付き合いしたことなんて、まだ一度も無いわよっ!」
「……ええっ?!」
思わず、大声を出してしまった……!
「なぁに?そんなに意外?」
それは……その。
「はい、意外です。三善さん……とっても、綺麗なのに……」
こんな美人な女子高校生……世の中の男どもが放っておかないだろう!
「いやね、恵介くん。お姉ちゃんには、お世辞なんて言わなくていいのよっ!」
……お世辞なんかじゃない。本当に、心からそう思う。三善さんは……綺麗だ。
「あたし、『天覧学院』て学校に通っているんだけど……恵介くん、知ってるかな?」
天覧学院?!
「……あ、聞いたことはあります」
確か……お金持ちや芸能人の子供とかが通っている、有名な私立の名門校だ。大きな敷地に……幼稚園から大学までが、全部揃っているっていう。すっごい、お金が掛かる上に……父母の面接試験とかがあって、品の悪い成金の子供とかは落とされるって聞いた。
確か……共学だ。
「あたしね……幼稚舎の時から、ずっと天覧なの」
て、ことは……三善さんは、本当にマジで完璧に『お嬢様』なんだ。
折り紙付きの……ホンモノの……スーパー『お嬢様』。
「それでね、あたしには幼稚園から、ずーっと一緒の親友がいるのっ!」
三善さんの……親友?
それは……男?それとも……女?
「もちろん、女の子よ。洞口加奈子さんていうのっ!」
洞口……加奈子さん。
「その子はね……お父様がとっても怖い方でね、ううん、ホントはお優しい方なんだけど……とにかく『見た目が』っていうか……お顔が怖い方なのよ」
顔が……怖い?
「恵介くん、洞口文弥さんていう俳優さん……知ってるかしら?」
……ええっと。
「あの……昔、ヤクザ映画とかに出てて、今はテレビで刑事役とかをやってる……?」
うん。誰もが知っている……人気のある俳優さんだ。
いつも『暴力団員』か『警察官』か……捕まるか、捕まえるか、どっちかの役しか演じたことがないっていうことで有名な……。
「その洞口さんが、加奈子さんのお父様なのよ……!」
あ……そりゃあ、すんげぇ怖いや!
洞口文弥といえば……とにかく、見た目がヤクザ。
遠目で見ても、ヤクザ。それも組長クラスの……。
というか……本物のヤクザと親交があるんじゃないかって記事が、週刊誌に載ったこともあったような……。
そう言えば、前にテレビのトーク番組で、洞口文弥が後輩の俳優を連れて六本木に飲みに行ったら、地元の暴力団が別の組織の『殴り込み』と勘違いして、危うく街全体が『抗争寸前』に陥ったことがあるっていう……強烈なエピソードを紹介していたっけ!
「それでね……洞口さんは、とっても娘さん思いな方なのよ。加奈子さんのことが大好きで、入学式とか、授業参観とか、運動会とか、文化祭とか……そういう学校の行事には、お仕事をお休みしてでも、必ずいらっしゃるのよ!」
あの……洞口文弥が、自分の娘には、目が無い。
「必ず後輩の俳優さんたちもお連れになって」
ああ、いわゆる『洞口ファミリー』……みんな、強面の俳優さんばかりだ。
「いらっしゃるのは、いいんだけど……!」
三善さんの……ハサミを動かす、手が止まる。
「何か問題が?」
洞口文弥が……学校へ来て……?!
「うちの学校にいらっしゃる度に……洞口さん、男の生徒たちに『おい、お前ら!うちの娘たちに手を出したら、ただじゃおかないからなっ!覚えとけよッ!』って、大きな声で脅かしていかれるのよ!」
……うえええ?!それは怖い。
「それも、クラスの子だけじゃないの……もう、学校内で出会った男子生徒に、全員、片っ端から、そうおっしゃていかれるの。男性の先生方や……校長先生を脅かしているのを見たこともあるわ!後輩の俳優さんたちも一緒に」
どんな、地獄絵図だ……!
「そういうのが……もう、毎度、毎度でしょ。今では、天覧学院の中では知らない人は無いくらい有名なのよ!」
それは、怖い……。
「まあ、洞口さんは、ただの冗談のおつもりなんでしょうけど……」
いや、本気だろう……本気に決まっている。
「あの……三善さん」
「なあに?」
「その……洞口文弥の娘さんて、どんな人なんですか?」
一応……尋ねてみる。やっぱり、顔が怖いのか?
「え、加奈子さん?とっても、綺麗な子よ……!」
……はい?
「洞口さんより、お母様に似ているわ。知ってるでしょ、女優の丹波貴代子さん」
ああ、洞口文弥の奥さんて、美人女優だったっけ。
それなら……判る。三善さんと、親友だってことも。
美人は、美人と仲が良い。それは、オレの中学でもそうだから……。
「それで……あたしは、洞口さんの娘さんの加奈子さんと親友でしょ?いつも一緒にいるから、洞口さんの言う『うちの娘たち』の内に入っているのよ。だからね……学校の男の子たちは、特別な用事でも無い限り、絶対にあたしたちには近寄って来ないのっ!」
……うんと。それは……とっても、素晴らしいことのような……。
「まったく……みんな、洞口さんの冗談を真に受けちゃって!」
いや、その加奈子さんという娘さんが、三善さんと同じレベルの美人さんだとしたら、洞口文弥は、絶対にマジだろう。本気の本気。本気と書いてマジのマジ。
「あの、でも、三善さんは」
恐る恐る……オレは、質問する。
三善さんは……そのことを、本心ではどう思っているんだろう?
ホントはやっばり、男友達とか、恋人とか……欲しいのか?!
「『彼氏が欲しいな』とか、考えたりしていますか?」
三善さんのハサミが……再び、動き出す。
「全然!」
……うへっ?
「そんなのいらないわ。今は、『彼氏』なんて!」
ニッと、三善さんはオレに微笑む。
そうなんだ。何か……ホッとする。
「今のあたしに、男の子なんかと遊んでいる様な時間は取れないわ。あたし……日舞が、もっともっと上手くなりたいの。少しでも、お稽古に集中して上達したいの!デートしている時間とか、もったいないもの!」
また、日舞……日本舞踊中心の生活。
「時間の無駄になるようなことなんて、できないわよっ!」
でも、三善さん。あなたは、今……オレの髪を切っている。
これって、無駄な時間じゃないないんですか?オレに会っている、この時間は全て……。
「それにね、あたしは、好きな人ができても、その人とは絶対に結婚できないから。だから……男の人は、誰も好きにならないようにしているのっ!」
三善さんは笑顔のまま、さらりと答えた。
「それ……どういうことなんです?」
思わず……聞いてしまった。そしたら、三善さんは。
「え?……ああ。ごめんね。それは、恵介くんは気にしなくていいことだから!」
そう言って……突然、オレの頭を優しく抱き締める……!
オレ、心臓が……止まるかと思った!
「……恵介くんは、お姉ちゃんが絶対に幸せにしてあげるからね!」
オレの顔が……三善さんのムニッとした、柔らかい胸に包まれている!
汗の匂い。女の子の……優しい、甘い匂いがする……!
「だから……恵介くんに好きな子ができたら、お姉ちゃんに教えてね。お姉ちゃん、全力で応援してあげるから……!」
オレの頭を抱く手に、ギュギュギュギュギュッと力がこもる……!
……オ、オレは。
「み……三善さんっ!……三善さぁんッッ!」
「ん……どうしたの?」
「……く……苦しいですッ…!」
力を込めて、抱き締めすぎですッ!おっぱいで呼吸困難なんてぇッッ!
し……死ぬぅぅぅぅぅッ!!!
「あ……ごめんッ!」
おっぱい天国から……生還するッ!
「ぷはぁっ!!!」
……ケホッ、ケホンッ……!
「恵介くん、大丈夫?」
心配そうにオレの顔を覗き込む、三善さん。綺麗な顔が……また、オレに急接近する!
「へ……平気ですっ!」
オレは……スッと、顔を遠ざける。
……あああ。口の中が……カラカラに乾いている。言葉が出ない。
「本当に平気なの……?」
オレの眼の前に……また、おっぱいが揺れている。
思わず思い出す……その感触。おっぱいの弾力って……スゴイッ!あの柔らかさは、人が殺せる…!
いやいや……いかんいかん、おっぱいのことは、ひとまず忘れろッ!
「……麦茶、飲みます」
オレは……自分のコップを取る。
「はい……恵介くん!」
三善さんが……紙パックから注いでくれた。
それを一気に……ゴクリと飲み干した。
……ふう。
飲んだ途端に、汗がじわっと出てくる……。
「落ち着いた?じゃあ、続きを切るからねっ!」
三善さんは……今度は、オレの背後に廻って、後頭部の髪を切り始めた。
……ジャキジャキッ!
……ジョキッ!
……ジャキジャキッ!
はぁ……後ろに行ってくれて助かった。これ以上、眼の前におっぱいがチラつくのは、どう考えても、身体に良くない。
「……ねえ、恵介くん」
耳に囁かれた優しい声に……ドキッとする!
「恵介くんは、どんなことが好きなの? 」
み、三善さん、耳元に息を吹きかけないで!お……お願いですから…!!!
「恵介くん……学校は、楽しい?」
……オレは。
「えっと……あの、別に……」
「えっ……楽しくないの?」
……うんと。
「オレ……学校じゃ、みんなとあんまり話さないですから……!」
「え、どうして?」
耳元の声が……オレの心を刺激する……。
「だって……オレ……みんなとは、あんまり話が合わないから……!」
高揚していたオレの心が、リアルな『現実』に……急速に冷やされる。
「……何かあったの?」
……それは。オレの……現実。現実の生活。
「オレ……中学に入ったばかりの頃は、まだ、特にそうでもなかったんですけど……!」
小学校高学年から中学に掛けて、みんな変わっていく。男も女も……。
「オレ……段々、他の子が興味を持つようなことに付いていけなくなって……」
「付いていけない?」
……そうだ。
「オレ……そんなにテレビとかも見ないし。パソコンとか、ゲーム機とかも持ってないですから……」
オレには……何も無い。
「……ずっと、バァちゃんと二人きりの生活だったじゃないですか。だから……海外のサッカー・チームとか……流行りのお笑い芸人だとか……人気のあるアイドルとか……そういうの、みんなが知っていて話していることが……よく判らなくて……」
何を話していいのか、判らない。みんなが話していることが……理解できない。
「そんなの、あたしもよく知らないわよっ!あたしのところも、ほら……老人が中心の家だから。あたしだって、若い人向けのテレビとかは見てないし」
三善さんは……明るくオレに、そう言ってくれた。
「そうね……だから、あたしもクラスではお友達が少ない方だな。でも、さっきの洞口加奈子さんとか、このハサミを貸してくれた鈴木真代さんとか、高塚綾女さんとか、毎日、お話するお友達はたくさんいるわよっ……」
それは……そうだろう。
だって、三善さんは、そんなにも美人で、人も良さそうで、名門の学校に通う『お嬢様』で……。きっと……頭だって良いんだろうし。
「恵介くんにも……そういうお友達はいるでしょ?」
オレには……いない。
オレはクラスでも……ブッちぎりのド貧乏だ……。
身体だって、小さいし。見た目が、みっともないし。勉強だって、できないし。
友達なんて……いるわけがない。
「どうしたの、恵介くん?……学校で何かあったの?」
オレの暗い顔を見て……三善さんが、心配してくれる……。
だから……オレは。
「オレ……五月の修学旅行、行かれなかったんです」
三善さんのハサミが……止まる……!
「恵介くん、どうして修学旅行、お休みしたのっ?」
……それは。
「うちには……お金が無いから。バァちゃんは、無理をしてでも行かせてくれようとしたんですけれど……オレが、断りました。バァちゃんを家に残して……オレだけ、旅行なんてしてできないですし……!」
修学旅行なんて……遊びだ。そんな遊びに……バァちゃんの稼いでくれた大事なお金を、浪費するわけにはいかない。
「でも……修学旅行に行かなかったことで、決定的になったんだと思います」
クラスの中での……オレの立場が。
「修学旅行が終わって、他のみんなが帰ってきたら……何か、ホントに誰も、オレとは話をしてくれないようになってて……」
……仕方ない。修学旅行に行かれないような……底抜けの貧乏野郎とは、誰だって仲間になりたくないだろう。『貧乏軍団』とか、後ろ指をさされることになるだろうし……。
「……そうだったの」
再び……三善さんのハサミが動き出す。
「でも、いいんです……正直、クラスの連中と一緒に何日も旅行に行くなんて、ちょっと気が重かったし……行かれなくって、良かったんですよ。あれはあれで正解だったんです。あの後で、バァちゃんが倒れて入院して、お金が掛かって大変だったから、修学旅行なんかにお金を使わなかったのは大正解でしたよ……」
オレ……何で、こんな話をしてんだろ。格好悪いよな。
でも、どうしてだか、三善さんには、何もかも話してしまいたくなってて……。
……ちくしょう!
「それに……うちで修学旅行に行けなかったのは、オレだけじゃないですし」
「……恵介くんだけじゃない?」
「はい……死んだバァちゃんも、子供の頃、うちが貧乏で修学旅行へは行かれなかったんだそうです。オレの母親も……」
「恵介くんのお母様も?」
「オレの母親は、中学の時の修学旅行は行ったらしいんですけれど……高校の時は……」
「やっぱり……お金が?」
「いいえ……オレの母親、高校中退なんで……」
「……中退?」
「死んだジィちゃんが、事故を起こして……ジィちゃん、トラックの運転手だったんですけれど……飲酒運転で、車ごと踏切に飛び込んで電車と激突しちゃって。幸い……回送車だったから、ジィちゃん以外に人が死んだりはしなかったんですけれど。……でも、全部ジィちゃんが悪いから……残されたバァちゃんと母親は、鉄道会社に補償をしなくちゃいけなくなって……!」
それで……オレの母親も、高校をやめて働かないといけなくなったらしい。
「……そうなの」
「……はい」
三善さんが……穏やかな声で、オレに尋ねる……。
「恵介くん。今、中学三年生なんだよね?」
「はい……そうですけど」
中学三年。義務教育は……もう、終わる。
「中学を卒業した後の……進路は、どうするつもり?」
「……それは」
それこそ、オレの現在の最大の悩みであって……。
「……お姉ちゃんに話して……お願い」
その優しい言葉に……オレはつい心を許してしまった。
「オレ、中学を卒業したら……できれば、バァちゃんみたいに青果市場で働きたいと思ってます……」
「……市場?」
「はい……オレ、バァちゃんの仕事先の人しか、コネがないですし。何とか会社で『寮』とかもあるところを探してもらっているんです。東京じゃなくって……地方の小さな市場なら、住み込みの仕事もあるかもしれないって、言われてるんですけど……!」
それが、オレのたった一つの未来の選択肢……。
それさえも……危うい。身元引受人もいないオレは……。
「恵介くん。高校には、行きたくないの?お勉強は嫌い?」
「それは……現実問題として、オレには無理なことだから……」
「何が無理なの?」
オレの髪に触れている指先……ジャリジャリと髪を切るハサミの感触。
耳元に囁く優しい声……女の子の汗の匂い……。
それらが、一つになって……オレの心を、解きほぐしていく。
だから……弱いオレは、つい……!
「お金が、無いから。今までは……バァちゃんの働いてくれた収入で、何とか生活してきたけれど……これからは、オレ一人きりですから。正直……住み込ませてくれる会社があれば、オレ、来月からでも働きたいんです。今のオレには、お金が必要ですから……!」
……そうだ。オレには……金が要る。
「オレ……定時制の夜間の高校へ行くも考えたんですけれど……市場は朝が早いし、夜勤もあるから両立させるのは難しいらしくて……中途半端になるのは嫌ですし……」
それなら……最初っから、諦めてしまった方がいい……。
「今はまだ、バァちゃんの残してくれた貯金もありますから。何とか、中学を卒業するまでは、そのお金でどうにかしのいで……!」
それから、一生懸命に働いて……少しでも、お金を貯めないと……。
「恵介くん。お父様から『養育費』は?」
三善さんが、オレに尋ねる。
「……あれは、使っちゃいけないお金だから」
「使っちゃいけない?」
「はい、毎月振り込んでもらってますけれど……一度も、引き出して無いんです。バァちゃんが、使わないで貯めておけって」
「でも、そのお金があるんでしょ?お父様は……毎月幾ら、振り込んでいるの?」
三善さんが……オレに尋ねた。
……そうだ。オレに『養育費』を送っているのは、この人のお父さんだ。
「……それは」
「いいから、教えてちょうだい……ね」
三善さんは、再び手を止めている。彼女の真剣な気持ちを……オレは、背中越しに感じる。
「毎月……八万円です」
「たった?」
…………!!!
その一言に、オレは強く反発する!
やっぱりこの人は、『お嬢様』だ。オレとは、違う世界の人なんだ!!!
「オレのバァちゃんは、毎日、朝早くから市場で働いて、それで月に稼いだお金が手取りで十四万円ぐらいです!厚生年金とか、雇用保険とか引かれたら……ホント、それぐらいにしか残らないんですっ!オレは、オレの父親がどんな仕事をしているのかとか全然知らないですけど……それでも、オレのために毎月八万円ものお金を送金するっていうことが、どんなに大変なことかは判ってます。だから!」
「ご、ごめんなさい、あたし!」
三善さんの細い手が、オレの肩に触れる。
「いいえ、いいんです」
どうせ……三善さんには、少しも関係のない話だ。
「でもね、恵介くんが成人するまでは、お父様には責任があるわ。月に八万円で足りないのなら、必要なだけ出していただくべきよ。あたしからお父様にお話してもいいわ!」
「そういうのはいいですから。絶対に、やめて下さいッ!」
オレは、ハッキリと強く言った……!
「……どうして?」
三善さんの声が、震えている。
「バァちゃんが、前に言ってました。『あんたのお父さんからは、向こうがくれるという分だけを受け取りなさい。貰う方の側の人間が、これじゃあ足りないからもっと寄越せなんて言うのは、みっともないことだよ。そんなんじゃあ、他人の金を当てにしているだけの、性根の腐った人間になってしまうからね』って。オレも、そう思います」
オレは……乞食じゃない。
「本当に立派な方だったのね。恵介くんのお祖母様……」
オレは、バァちゃんの遺影を見る。笑っていない、厳しい表情。
「オレのバァちゃんは、北陸の金沢で生まれたんだそうです。早くにお父さんを亡くして、それでバァちゃんが一人で東京に出て来て働いて、故郷の弟に仕送りをしてたんだそうです。でも、バァちゃんの弟は、大人になったら勝手に故郷の家と土地を売り払って、どっかへ行ってしまったらしくて……。手紙も、処分した家のお金も一円も渡さないで。バァちゃんが東京で結婚したオレのジィちゃんも相手も……さっき話した通り、飲酒運転で事故って……バァちゃんに多額の借金だけを残して死んじゃったし、その上、娘はオレを産みっ放しで、一人で勝手に自殺しちゃうし……!!!」
バァちゃん……オレのバァちゃん!
「だから、バァちゃんは、本当にずっと働いてきて……いつも誰かのために。オレのために。なのに、全然幸せになれなくって。オレは、ずっとバァちゃんに助けて貰うだけで、何もしてあげれないままで……!」
そのまま……バァちゃんは、死んでしまった。
今は、骨だけになって。あんな小さな桐の箱に納められて!
「でも、やっぱり……恵介くんは、高校へ行った方がいいと思うの。あなたのお祖母様も、そう願っていらっしゃると思うわ!」
そんなこと、言われたって……オレには、お金も時間も、これから住む場所だって無い。
「ねえ、恵介くん。お祖父様の家で、お姉ちゃんと一緒に暮らさない?うちで生活して、うちから高校に通えばいいわ。あたしがお願いすれば、お祖父様は、きっと許して下さると思うの!」
優しい声が、耳元に囁く……。
これは多分、この上もなく魅力的な申し出なんだろう。でも。オレには。
「ね、そうしましょうよっ!」
……そんなことは。
「できません……オレ!」
「……どうして?」
三善さんの声が……震えている!
「オレ、働いて……とにかく働いて、それで、お金を貯めないといけないんですよ!」
今のオレには、お金が要る。住むところもそうだけど、できるだけ早く、まとまった額のお金を貯めないと!!!
「どうして、お金が必要なの?!」
……それは!
「何か理由があるの?」
ダメだ、これ以上は、話しちゃいけない!!!
ここから先は、他人に話すべきことじゃない。三善さんは、他人なんだから!!!
「それは言えません。内緒です―」
「お姉ちゃんにも言えないの?!」
「……はい」
オレは、この人の優しさに、溺れてはいけない!耐えろ、山田恵介!!!
三善さんは、他人だ。どうせ、すぐにいなくなってしまう人なんだ。
他人なんだ。オレのお姉ちゃんなんかじゃない!
「三善さんだって、さっきオレに内緒のことが、あったじゃないですか……!」
オレの弱さが……つい、三善さんに攻撃的な言葉を投げ掛けてしまう。
「言ってましたよね。恵介くんには関係の無いことだって……だから、オレもそう言います。こんなの三善さんには、関係の無いことですから……話しませんっ!」
三善さんのハサミを持つ手が、ビクッと震えた。
「そう……判ったわ」
三善さんは……寂しそうに呟く。
「そうよね……何でも、お姉ちゃんに話してくれるわけはないわよね」
耳元で、ハサミの音が大きく「ジャキリン!」と響く!
「……すみません」
これは……『家族』でない人には、話してはいけないことだと思うから……。
……と。
「あれれっ!」
突然、三善さんがスットンキョな声を張り上げるッ?!
「……は、はい?!」
その瞬間、オレの髪の毛が一気に、大量に、バサリと床に落ちた?!!!
「あ……やっちゃった、あたし……!」
みみみみ、三善さぁん?!!!ななな、何を???!
「だ、大丈夫よっ!ここから、何とか取り戻すから!バランスを……左右のバランスが取れれば、こんな失敗、何とかなるんだからっ!」
し、失敗って?!
「まだまだ、取り戻せるはずなのよっ!」
さらに……ジャッキリ、ジャッキリ!ジャキジャキ、ジョッキリ!!!
オレの、髪の毛が……どんどん、切り落とされていくぅぅぅぅっ―!!!
「……うわぁ……これは、もうダメかも」
かも……って……???えええええーっっ!!!
「こんなの……もう思いっ切りザックリいかないと、全体のバランスが取れないわよっ!」
……ザックリ!
……ザックリ!
……ザクザク、ザックリクリクリ…!!!
……あの。頭がどんどん……。
何か、スースーしてきたんですけど……!
「あっれぇ!」
ななな、何ですか……?!
「……ごめん、恵介くん」
もしもし。三善さぁん?!!
「あの……オレ、ちょっと鏡を見て来てもいいですか?」
「……ど、どうぞ」
オレは、てるてる坊主の状態のまま、ずるずると布を引きずって……洗面所の鏡へ向かう……!
鏡の中のオレの姿は……『虎刈り・オブ・ザ・虎刈り』!!!
これはもう……メシャメシャのザンバラ頭になっていた。
……ど、どうするよ、これ?!
こんな、タイガー・ヘッド……。
これはもう、モヒカン刈りにでもするしかないのか?って、真ん中も欠けてる箇所があるから、モヒカンさえも……不可能です。
どう見ても……これ『再生不能』???!
「け、恵介くんっ!」
と……オレの背後から、三善さんの決意に満ちた声と共に、何やら……ウィィィーン!という、電気モーターの振動音が聞こえてくる!
「大丈夫よっ!最後の手段として、真代さんから、一応、これも借りてきてあるからっ!」
そ……それは!
三善さんが……説明書の表紙の文字を読み上げる……!
「えっと……『楽々スムーズ、フラッシング・ローリング・バリカン機能搭載、サン・バリカン900クラッシック』よッ!!!」
ででででで……電動バリカン!もはや、電動バリカンなんですねっ!
……うわわわわわっ!!!
「はいっ!あたしに頭を向けてっ!恵介くん!さあっ!!」
……うん。確かに、これは最後の手段だ。
もう……これしか残ってないのか……?
……ないんだろうな。
こんちくしょうっ!うわあああああっ!
オレは、三善さんの前に、トイヤッ!っと頭を突き出す!
「いっくわよぉっ!!!」
三善さんも、オレのの頭をエイヤッ!としっかり掴んで、まるで羊の毛でも刈るみたいに一気に、電動バリカンを……。
……イッガガッッ!
……ガンッヌガガッッ!!
……ガガガガガガーアァッ……!!!!
そして、数分が経過すると、オレの頭は、清々しいまでの丸刈り頭になっていた。
……うむむむむむ。清々しいっていうより、剃り跡が青々しいだな……。
「これって……何分刈りぐらいですかね?」
三善さんのカバンの中にあった、小さな鏡を借りて、オレは自分の坊主頭を鑑賞する。
ああ、オレって頭の骨の形が、あんまりよくないんだな。髪の毛がなくなると、後頭部がゼッペキ状態なのがよく判る。
「ええっと……ちょっと判らないわ」
三善さんは、電動バリカンと説明書を交互に見比べている。
「アタッチメントの目盛りは『3ミリ』を指しているけど……」
……3ミリ。
「あ、ここに書いてあったわ……『一分は、約3ミリです』だって」
ふと……疑問が湧く。
「三善さん、もしかして、アタッチメントって他にもあるんですか?」
三善さんが、バリカンの入ってた箱を見る。
「あるわよ。あと、四種類入ってるわ」
……四種類?
「うん。『ロング用アタッチメント』と『アタッチメント・大』と『アタッチメント・小』と『スキ刈り用』だって」
「ちなみに……今、付いてるアタッチメントは?」
「……『アタッチメント・極小』みたいね」
もしかして、一分刈りよりも、長くできたんじゃ。五分刈りとか、スポーツ刈りとか。
「『アタッチメント・極小』って、1分刈り用なんですか?」
「そんなことないわ……『アタッチメント・極小は、3ミリから6ミリまで長さ調節が可能です』って書いてあるから……」
……落ち着け、オレ。
これってつまり、わざわざ一番小さいのアタッチメントで……さらに一番、キッツイ状態の一分(3ミリ)の長さの丸刈りにされたってことなのか……。
「恵介くん」
「……はい?」
三善さんが、心配そうにオレの顔を見ている。
「怒っている?怒っているよわね?!」
……オレは。
「怒ってません。怒ってなぁいです。……もう、どうしようもないんですし」
オレは……男だ。こんなことで、腹を立ててはいけないぞぞぞ!
「いいんですよ。どうせ、これから、暑くなっていくんですし!」
……うん。これなら、半年は床屋に行かずに済む。その分、金が浮いたと思えば。
「……ごめんね」
三善さんが、オレに謝ってくれた。
「もう、いいですから……ホントに!」
ということで……三善さんによる、オレの頭の散髪は、『一分刈り』という、究極にシンプルなヘア・スタイルで落ち着くこととなった。
「あ。でも、坊主頭の男の子って、可愛くていいと思うわよ!」
三善さんは、全然フォローになってない感想を述べてくれる。
「あたし、好きかも。今の恵介くんのさっぱりした髪型!」
これは、髪型なのか。髪型と言えるほど、髪が残ってないけけど……。
「もおっ、そんなに、落ち込まないでよ」
いや……その。中学三年のこんな半端な時期に……別に運動部でもないっていうのに突然、『坊主頭』なるっていうのは……。
オレ、ただでさえ、クラスの中で浮いているのに。明日から、また「貧乏臭い」って、陰口を言われることになるんだろうな。
「ホントに、もういいですから。オレ、あきらめますから……もう、何もかも……」
ガックシきているオレに、三善さんは。
「ああーん……もおっ、そんなこと言わないでよぉっ!!」
彼女は、その麗しい手の平で、オレの一分刈りの頭をぞりぞりと撫でる。
「……ほうらっ!とっても、触り心地がいいわよ!恵介くんの頭っ!!」
あの、三善さん。あなた。いつの間にか、楽しそうになってますよ。何で、そんなに嬉しそうに触ってるんですかぁぁぁぁ……!!!
「うふふふっ!お姉ちゃん、この感触、好きかも…!」
「好きかも」とか、言うなぁ!!!
てててて、照れるじゃないかっ!!!
「あら……もう、こんな時間なのね」
不意に……三善さんが、時計を見る。
カラーボックスの上のバァちゃんが使っていた目覚まし時計は、いつの間にか夕方の五時を指していた。
「……ごめんね、恵介くん。お部屋の中を、すっかり散らかしちゃって」
改めて部屋の中を見渡すと、部屋の畳の上は……オレの頭の毛が散らばっていて、とんでもなく酷いことになっている。
オレの背中も……髪の毛が、チクチクして痒い……。
「いいですから……気にしないで下さい。オレが後で片付けますから」
時間を気にしているということは、そろそろ帰らないといけないんだろう。三善さんは、家の人に黙ってオレに会いに来てくれたんだし……門限とかも決まってそうだよな。
「そんなの、お姉ちゃんがやるわよ……掃除機はどこ?」
三善さんが、部屋の中を見回す……。
「あの……いいですから……ホント」
あんまり、よその人に家の中を引っかき回して欲しくはない。
だけど、三善さんは、ムキになって……!
「お姉ちゃんがするのっ!それより、恵介くんはシャワー浴びてきなさいっ!」
……え?!
「痒いんでしょ……背中?さっきから、モジモジしてるから!」
あ、そういう意味ですか。何か……すっごく、ドキッとしてしまった。
「それも……後でしますから」
お客さんが来ているのに、シャワーなんて、浴びられるか。
「いいから、早くなさいっ!……お姉ちゃん、その間に、お部屋に掃除機掛けておくわっ!」
あああ……台所の隅にあった年代物の掃除機を、見つけられてしまった。
「いや、でも……!」
オレが、抗議しようとすると……。
「……そうだっ!お姉ちゃん、恵介くんの頭、洗ってあげようか?!」
……え?
「背中も流して上げる……ねっ!」
みっ、三善さん?!あ、あなた。うら若き乙女が……自分が今、何を言っているのか判っていらっしゃるのかッ??!!!
「い、いえ……結構です!!!」
オレは……反射的に断るッ!
「……何で?いいじゃない、姉弟なんだし」
そういう……問題じゃなぁぁぁいッ!!!
「オレ、三善さんに洗っていただくほど、髪、残ってませんからっ!」
オレは、一分刈りの坊主頭をブンブン指差して、力強くアピールする。
「それに、うちのシャワーは完全に一人用ですっ!」
オレは……シャワーユニットを開いて、中を見せる。
「うわっ……何これ。狭そう」
驚く、三善さん。うちのシャワーは、物入れがあったスペースに無理矢理後付けだから、本当に一人で満員状態だ。二人は入ったら、窒息する。
「狭いからっ……一人しか入れないんですっ!!!」
オレは、力強く主張する!!!
「そっか……残念だわね!」
彼女は、クククッと笑った……。
あれ……オレ、からかわれたのかな?
そうだよな。三善さんみたいな綺麗な『お嬢様』が、本気でオレの頭や背中を洗ってくれるわけがないもんな。
それなのに、オレ、ムキになって怒って……馬鹿みたいだ。
「あのね。あたしの学校のお友達にね……高塚綾女さんっていう子がいるんだけどね」
三善さんは……突然、そんなことを話し出す。
「この間聞いたら……綾女さんは、毎日、弟さんと一緒にお風呂に入るんだって」
「……はい?」
三善さんと同い年くらいの女の人が……毎日、弟と風呂に入っている?!
「それでね……いつも、洗いっこしているそうなの……!」
……洗いっこ?
それって……警察に捕まるんじゃ。幾ら何でも、マズイだろう?!
「だからねっ……あたしも、恵介くんのこと洗ってあげたくてっ!」
あの……ほ、本気なんですか、三善さん?気は確かか???!
「綾女さんの弟さんって、本当に可愛いのよっ!あたしが、綾女さんのおうちに遊びに行くと、いつも弟さんがお姉さんの後ろをチョコチョコ追っ掛けて来るの……!」
……チョコチョコ?
「あの、三善さん。そのお友達の弟さんて、いくつぐらいの人なんですか?」
オレの想像が正しければ……。
「うんと……今年、『年長組』だから……5歳かな?」
……やっぱり。
「あたし、いつも綾女さんと弟さんの様子を見てね、『いいなあ、あたしもあんな弟が欲しいなあ』って思ってたの!」
……はぁ。
「あたしも一緒にお風呂に入って、髪の毛や身体を洗ってあげたいなあって……!」
……この人。マジでオレのこと……子供だと思っているんだ。
オレは……もう十五歳で、中学三年生で、三善さんとだって幾つも違わないのに。
そりゃ確かに、オレは背が低くて、見た目は、小学生なのかもしれないけれど。
でも……男なんだ!立派に男なのにっ!!!
「だけと、もう……あたしは、綾女さんのことが羨ましくはないわっ……!」
三善さんは、クスッと微笑む。
「今は……あたしにだって、恵介くんていう可愛い『弟』がいるんだから!」
三善さんは、幸せそうだった。
その顔を見たら、オレはもう……何も何も言えない!
「さ……掃除機掛けるねっ!」
三善さんは、掃除機のコードを引っ張り……コンセントに繋ぐ。
「じゃ、オレ……シャワー浴びますから、そっちの方を向いてて下さい」
子供だと思われているのなら……仕方ない。とにかく身体に付いた髪の毛を洗い落とそう。髪の毛が身体にくっついたままだと、また後で掃除機をかけ直すことになるだろうし。
それに、正直……オレは、頭を冷やす時間が欲しかった。
「どうして、こっちを見てないといけないの?」
三善さんは、不思議そうに尋ねる。
「あの……脱ぐんで。脱衣所が無いんですよ……うちは」
後付けのユニットなんだから。見れば判るだろっ!
「そんなの、気にしなくていいわよ……姉弟じゃない」
三善さんは、ケロリとそう言う……。
「オレは、気にするんですっ!」
「ああ……恵介くん、恥ずかしいんだ?」
三善さんが、ニコッと微笑む……。
「判ったわよ……じゃあ、お姉ちゃんは、こっちを見てまーすっ!」
そう言って……掃除機を引っ張って行く。
オレは、とりあえず……バスタオルと着替えを用意して……。
服を脱ごうとしていると……んんん!
……視線を感じる。
「……三善さん!」
タンスの影から……三善さんの顔が覗いている!
「あっ……見つかっちゃったぁっ!」
『見つかっちゃった』じゃねぇぇ……!!!
「恥ずかしいから見ないでくれって、言ったでしょ?」
「だってぇぇ……!」
三善さんが……恥ずかしそうに言った。
「……気になるんだもん」
な、何が?いや……聞くまい。
とんでもない答えが返ってきたら、オレの方にダメージが残る……。
つーか、こっちから答えてやる。少しは、オレが大人の男だってことを理解させないと!
「……毛なら、生えてますっ!」
オレの渾身の一撃に、三善さんは……。
「……嘘っ?!」
「ホントですっ!」
「……ボゥボゥなの?」
「チョロチョロですけれど」
「うわっ……見てみたいっ!」
……何で。そうなるぅぅッッ!!!
「お断りしますっ!」
オレは……バシンッと、シャワーユニットの中に閉じ籠もるッ!!!
薄暗い、ユニットの中で服を脱いで、ユニットのドアをちょこっとだけ開けて……脱いだ服を外へ……。
……よし、三善さんは見ていないな。再び、ドアをぴったり閉めて、鍵を掛ける。
「……はぁぁぁぁぁ」
深く深く……息を吐いた。
「とにかく、シャワーを浴びよう……」
蛇口を捻って……水がお湯になるのを少し待つ。そのまま、頭からシャワーをズザザザーッと浴びて、一気に身体についた毛を洗い落す。
一応、シャンプーもしてみたんだけど、一分刈りの頭だと……全然、泡が立たない。わずかに残った頭の毛が、シャンプー液を弾いてしまって……。髪を洗うというより、何だかシャンプーの液を、頭皮に直接ぐりぐり練り込んでいるみたいだ。これでちゃんと、洗えているのだろうか?!その代わり、水切れが良い。むしろ、良すぎる。手で擦っただけで、水滴がピョンピョン弾け飛んでいく……。
「……ふぅぅぅぅ」
また、シャワーユニットのドアをわずかに開けて……バスタオルを、中に引き込む。
隣の部屋から、三善さんの掃除機の音が響いている。
急いで、濡れた身体をタオルで拭く。続いて、頭をぐるりとタオルで一周拭いたら……もうそれだけで、水分が拭えた。何て便利なんだ、一分刈り。
そして、着替えの服を引っ張り入れて……もあんと湿気のあるユニットの中で、オレは服を着る。
「……よいしょっと」
ユニットの外に出ると……ちょうど、三善さんも、掃除機を掛け終わったところだった。
うちのボロ掃除機が……プシュルルンシュルンと、音を立てて停止する……。
「あれ……恵介くん、もう出たの?」
額の汗を拭いながら……美しい三善さんが、オレに言った。
「……はい。ザッと毛を洗い流しただけですから」
そんなシャワー上がりのオレを見て、彼女は……。
「いいなあ……あたしも、シャワー浴びようかしら……」
……うへっ?!
「と、言いたい気分なんだけれど……そろそろ、帰らないとね」
三善さんはそう言って……腕時計を見た。彼女は、赤い革のバンドの腕時計をしていた。それもきっと、高価な物なんだろう。
「あたし……『今日は、7時前には帰宅します』って、言って来たから」
……そうだった。彼女は今日、『習い事』を休んで来てくれたんだっけ。
「ここから三善さんの家は、どれくらい掛かるんです?」
何となく、聞いてみたくなった。
「うんと……一時間ちょっとかな?」
「どの辺なんですか?」
「青山よ」
……青山って。渋谷の方だっけ?行ったことないし……よく判らないけれど。
「一時間も掛かるんなら……そろそろ出た方がいいですよ。オレ、駅まで送ります!」
オレは……財布と鍵を持って、出掛ける支度をする。
「うん……そうね」
三善さんも……ハサミやらバリカンやらを、通学カバンにしまった……。
「……バァちゃん、ちょっと出てくるね」
遺影に向かって、そう話し掛ける。
「ちゃんと、お祖母様にご挨拶してから家を出るのね」
三善さんが、オレに微笑む……。
「……骨になっても、バァちゃんは、オレのバァちゃんだから!」
オレの中では……バァちゃんは死んでない。骨になっても。あそこから、オレを見ていてくれている……。
「……お祖母様、お邪魔しました……また参ります」
三善さんも……バァちゃんに、手を合わせてくれた。
良い人だ…この人は。純真で、天真爛漫で、邪心の無い……本当の『お嬢様』。
とにかく……悪い人では無いよな。
「さあ、恵介くん、行きましょう!」
◇ ◇ ◇
二人で……夕方の街を歩いた。剃り上がったばかりの坊主頭が、風に晒される。
うん。これはこれで……まあ、涼しくていいかもな。そうでも思わないと、やっていられない。
……駅までの道。
三善さんは、あんまり喋らなかった。何か考え事をしているらしい。
だから……オレも、黙って歩く。
「……あ、ここでいいわ」
駅の前で、三善さんが言った。
「恵介くんは、夕飯のお買い物とかあるんでしょ?」
三善さんが、駅前のスーパーを見る。
「あ……はい、まあ」
せっかくだから……何か買って帰るか……。
「今夜のご飯の予定は?」
三善さんが、笑ってオレに尋ねる。
「えっと……じゃあ、スーパーで適当に何かお総菜を買って……後は、また豆腐かな」
……嘘だ。オレは、スーパーの総菜を買うほど、金持ちじゃない……。
買うのは、豆腐だけ。うん、今晩は、豆腐一つで充分だな。
「……成長期なんだから、ちゃんとした物を食べないとダメよ」
三善さんが、心配そうにそう言ってくれる……。
「あ……オレ、一人の生活になってから、あんまりお米を炊かなくなったんです……何か、面倒で」
適当なことを言って……オレは誤魔化す。米を炊かなくなったのは、本当だけど……。
「もしかして、ご飯代も節約しているの?」
あ、気付かれた。
「まあ、ちょっとは」
「そうよね……一回の食事代が千円だとすると、一日三千円……月になると十二万円を越えるのね。確かに、 養育費が毎月八万円じゃ厳しすぎるわよね……」
三善さんの住む世界では、一回のご飯代に千円とか掛けられるんだ。
オレは今、一日五百円とかで生活している。休みの日とかは、一日一食だし。
「そうだ!今度、お姉ちゃんがご飯作りに行ってあげるねっ!」
三善さんは、明るくそう言う。
だけど……オレは、その言葉を受け入れてもいいのだろうか?
「そうですね。じゃあ、そのうちお願いします」
とりあえず、あいまいな返事をしておく。
「うん、そうしましょうね。あ……そうだ!」
三善さんは、通学バッグのポケットから、自分の赤い携帯電話を取り出す。
「恵介くんの写真……一枚撮ってもいい?」
……え?
「お姉ちゃんが丸刈りにしちゃった恵介くんの姿を……記念に残しておきたいのよ!」
三善さんは、クスクスとと笑う。
「……じゃ、どうぞ」
「うん……じゃ、撮るねっ!」
携帯電話が……カシャリと音を立てる。
「見て見て……ほらっ!」
三善さんが、オレに液晶の画面を向ける。
ああ、オレの貧相な顔が、さらに情けなく映っている。
「……あ、あの」
オレは……勇気を出して言ってみる。
「その、オレも……三善さんの写真、撮ってもいいですか?」
三善さんに貰ったばかりの……青い携帯電話をオレは取り出す。
すると……三善さんは、明るく答えた。
「……ダぁメぇ!」
えええーっ!!!な、何でぇぇ?!!!
「……だって、恥ずかしいもんっ!」
あっ……そうですか……なら、仕方ない。
「ウッソォ、うそ、うーそ!……そんな悲しそうな顔しないでよ。もう、ホントに可愛いなあ……恵介くんは!」
……か、可愛い?!
それ、中三男子に対しては、非常に不適切な『形容詞』だと思うんだけど……!
「写真を撮ってもいいけれど……一つだけ条件がありますっ!」
三善さんが……ニンマリとオレに微笑む。
「な……何ですか?」
さて……何を要求されるのやら……。
「恵介くんは……そろそろ…あたしのことを『三善さん』て呼ぶのは止めましょうっ!」
……はい?!
「……『お姉ちゃん』て、呼んでみない?!」
そ、そんなこと、急に言われても……。
「うーん……そっか。まだ、『お姉ちゃん』は早いか……そうだよねえ」
オレの表情を見て……三善さんは、そう言った。
「はい……すみません」
まだ、早いんじゃない……無理だ。そんなの。
「……じゃあ、『愛実さん』て呼んで」
……何?!
「せめてさ……下の名前で呼んでみようよ!ねっ!」
三善さんは、ニコッと微笑む……。
そうだ……『三善さん』てのは、この人のお母さんの家の名前で、この人は、そのことを良く思っていないんだっけ……。
成人したら、お祖父さん、つまり、お父さんの方の家の名前……『江崎』に戻るって言ってたよな……。
「……わ、判りました。それなら、何とか」
ちょっと……悪いことをしていたような気分になった。本人が嫌っている名前で……ずっと、呼んでいたんだから。
「そんでさっ、あたしは、恵介くんのこと……『恵ちゃん』て呼んでもいい?」
……けけけけ、『恵ちゃん』?!
なななな、何じゃ、そりゃ。オレはもう、十五歳なんだぞ!
そんな、今さら『恵ちゃん』とか……!!!
「……ダメかな?」
年上の『お嬢様』の……瞳が曇る。真剣な顔で、オレを見ている……。
「お姉ちゃんの一生のお願いっ!!!」
……お願いったって。
「お願い聞いてくれないと……お姉ちゃん、死んじゃうかもよっ!」
……いや。オレが先に死にます。
ていうか……オレ、もう死んでもいいですか?
むしろ……誰か、殺してくれぇぇぇ!!!
「……い、いいですよ……別に」
もういいや。何でもきやがれってんだっ!!!
「ホント?いいのねっ!」
眼の前の美少女は、ニコニコ笑って喜んでいる……。
こんなに喜んでくれるのなら、いいか……ガマンしよう。オレが耐えれば、いいことなんだから。
と……思ったのも、つかの間。
「では、ちょっと練習してみましょうっ!!!」
……はい?……練習?……何の?
「お姉ちゃんが『恵ちゃんッ!』って声を掛けますから、ケイちゃんも『愛美さんッ!』て呼び掛けてみて下さいッ……!!!」
この駅前の往来で?!それって、どんな『罰ゲーム』なんだよ!!!
「……いっくよぉぉ!」
彼女が、オレに微笑み掛ける……!
「恵ちゃん!」
「ままま……愛美さん」
……何じゃ、こりゃ。
「表情が固いわよっ……もう一度!恵ちゃん!」
「ま、愛美……さん……!」
駅前で、ななな……何て恥ずかしいことをッ!!
……ぬああああああっ!!!死ぬっ!もう、自分で死ぬ!悶死するぞ……オレ!!!
「うむ、うむ、いい感じ、いい感じ!」
愛美さんの方は、とっても嬉しそうだった。
「じゃあ、約束だから……恵ちゃん、愛美お姉ちゃんの写真、撮ってもいいわよ!」
……そうだった。そういう話だったっけ。
「あ……ありがとうございます」
オレはブルーの携帯電話を手に取る。
「……写真の撮り方判る?」
「はい……さっき、教わった通りにやります」
画面の中央に、愛美さんの姿を合わせて……とりゃあっ!
青い携帯が、カシャン!とシャッター音を模して鳴る!
「ん……ちょっと見せて」
オレは、撮れた画像を愛美さんに見せた。
「うーん……まあまあね」
愛実さんは、オレの携帯の画面に映った自分の顔写真を見て、そんな感想を述べた。
「でも……写真を撮っておくのはいいことだわ。きっと、良い記念になるわ!」
愛美さんも……自分の携帯に映る、オレの顔を眺める。
「……そうですね」
何にせよ……この美しい人の写真が手に入ったことは、嬉しい。
「そうよ。あたしたち『姉弟』の記念写真だものっ!」
愛美さんの言葉が……オレの心に刺さる。
『姉弟』。オレとこの人が……。
本当に、そうなんだろうか?信じて、いいのだろうか?
背筋にゾクリと、戦慄が走る……!
「あ……あたし、そろそろ行かなきゃ!」
愛美さんは、駅の時計を見上げてそう言った。
「恵ちゃん、またね!」
昨日と同じように笑顔で、愛美さんは、駅の中へ入って行く。
オレも、同じように見送る。
昨日のオレは、笑ってなかった。何か困ったような、戸惑いの表情で……改札口に消えて行く愛美さんを見送っていた。
今日のオレは、笑って、彼女を見送っている。
でも、この顔は……作り笑顔だ。
「……ばいばーい!」
最後に大きく手を振って、愛美さんの姿は駅の奥へ消えた。