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3/11

3.けいたい

 とにかく……帰宅途中にドラッグストアに寄って、一番安い匂い消しスプレーなど、掃除グッズを購入する。

 予定外の出費は痛いけど、三善さんに部屋の匂いなんかで、嫌われるのは困る。

 それからアパートに戻って、決死の覚悟で大掃除を敢行……!

 ……三時間半の苦闘の末。

 取りあえずは、どうにか人様にお見せできる程度に片付いた。

 片付いたと……思う。あんまり自信は無いけれど。

 見つかるとヤバそうな物も、ことごとく紙袋に詰め込んで、押し入れの奥の方へ「ぐいぐい」と突っ込んでおいた……

 うん。なるべく、簡単には、取り出せない場所へ。

 三善さんて、オレが見ていない時に、勝手にあちこち開けそうだからな。あの人、外見はすごい大人っぽいのに、子供っぽいことをするのが、とっても好きそうだから。

 そんなんで、押し入れの中をガシャゴショやっていると……何だこれ?

 変な段ボール箱を見つける。バァちゃんのか?

 とにかく、開けてみると……それは全て、芸能関係の古雑誌だった。

うーむ……歌舞伎とかお芝居関係の本が多いな。どれもこれも十六~七年前の……オレが、生まれる前に出版されたものばかりだ。バァちゃん、こういうの好きだったのかな?

 生前のバァちゃんは、ほとんどテレビを観なかった。ずっと一緒に暮らしてきたけれど、オレと一緒に映画に行ったことも無い。ましてや、『歌舞伎』とか『芝居』なんて……。

 何か、バァちゃんの性格には、合わないような気がする。

 ……とすると?これって、もしかしたら……オレの母親の物なんだろうか?

 オレは……母親のことを何も知らない。写真でしか、見たことはない。

 とりあえず芸能雑誌を一冊……箱の中から取り出して、パラパラと捲ってみる。顔を白塗りにして変な表情をしたおサムライさんが、ギャッと大きく目を剥いて、こちらの方を睨んでいる。

 どうでもいいな。こんなの。オレは、こういう物に興味はない。これはもう、箱ごと処分するしかないな。こういう古い雑誌って、少しは高く売れるだろうか?駅前の古本屋の大手チェーンじゃあ、買い叩かれるだろうけど……。

 母の持ち物を売り払うのは、悪いことだと思うが仕方が無い。オレは、もうすぐこのアパートを出なくてはいけないのだから。持ち物は、できる限り少なくするしかない……。

 ……ゲホッッ!

 押し入れを引っかき回したから……ホコリがすごい。ちょっと、換気をしよう。

窓を開けて、空気を入れ換えて……それから、改めて、部屋中に消臭スプレーをバシュバシュと噴霧する。何か、部屋に消臭剤の匂いが籠もって、逆にツンと鼻につく感じになったけれど……いや、『部屋が臭い』と『消臭剤臭い』なら……『消臭剤臭い』の方がモア・ベターな選択だろうと理解する。なので、これはこれで良しとする。

 そんな騒ぎを……一人でドタドタと真夜中過ぎまで繰り広げた。

 シャワーをザッと浴びて、汗を流そう。オレ自身も、消臭しないと……。

 うちは元々、風呂無しアパートだったんだらしいんだけど……今は、大家さんが後付けでユニット式のシャワーを付いてくれている。

 縦180センチ、横90センチの……シャワー・ルームというより、洋服屋の試着室みたいな狭い空間だ。多分、物入れだった場所に、無理矢理、プラスチックのユニットをがシッとハメ込んだんだと思う。

 換気扇を常に回していないと……シャワー・ユニットの中で窒息することになる。

 バァちゃんとの約束では、シャワーのお湯を出しっ放しにしていいのは3分間のみ。シャワーは、水道とガスのダブルで金が掛かるから。だからも頭や身体を洗う時は、シャワーを止める。

 冷たい水がお湯になるまで待って、一気にシャボンを洗い落とす。そして即、シャワーを止める。うん、今夜も3分以内でいけたはずだ。やったぜ、バァちゃん!!!

 湯冷めしないように、そのまま布団を敷く。シャワー後は、10分以内に眠るのが……うちのルールだ。蛍光灯を消して……と。

 三善さんと出会ったことで……興奮して寝付けないと思ったけれど、いつも通りに……オレは、あっという間に眠りに落ちた……。



   ◇ ◇ ◇



 翌日は学校へ行っても、放課後の『三善さん来訪』のことで頭がいっぱいだった。

 少しも……授業に集中できない。いや、授業に集中できないのは、いつもだけど。

 オレは、学校の成績は決して良い方では無い。というか、勉強には向いてないんだと思う。バァちゃんを心配させたくないから、赤点だけは取らないようにしているけれど……得意な科目も一つも無い。学校って……どうも好きになれないんだよな。

 ホームルームが終わると同時に……ダッシュで家へと戻る!オレは帰宅部だから……誰にも気兼ねはいらない。


 ハァハァと息を切らせながら、アパートに辿り着くと……すでに、三時二十分。

 三善さんは……まだ来ていない。ホッとする。

 アパートの部屋に飛び込んで、もう一度、部屋中を消臭剤まみれにする。

 それから、大きく窓を開いて空気の入れ換えをした。

 まだ……三善さんは、来ない。オレは窓から顔を出して、ジッと表の通りの様子を覗きながら、彼女を待つ……。

 やがて。三時二十七分。通りの向こうから……オレのアパートに向かって歩いてくる三善さんの姿を肉眼で確認したッ!

 三善さん、来襲!三善さん、来襲!オレの心の中で、警戒警報のサイレンが鳴り響く!

 今日の三善さんの姿は……学校帰りの制服姿。上は、薄い水色のブラウスの上に鮮やかなブルーのベスト。下は、濃い緑色がベースのチェックのスカートだ。

 ブラウスの首元には、エンジ色の大きなリボン。ベストの胸には、校章のワッペンが付いていた。その細い足には、紺のソックスに黒の革靴。長い黒髪は、今日は、黒いリボンで一つに纏められている。色遣いも形も、とても上品で華やかな印象だ。

 どこの学校か判らないけれど……見た目だけで『私立のお嬢様学校』な感じがする。オレは、そういうのに詳しくないから、良く判らないけれど。

 三善さんは、うちの中学の女子みたいにスカートを短くしたりはしてないし、暑いからって、ブラウスの胸元のボタンも開けていない。学校の指定カバンも、渋い濃紺のやつで、その辺の女子高生みたいに変なマスコットをジャラジャラ括り付けたりもしていない。

 きちんと、校則通りに制服を着ているだけなのに……どうして三善さんには、あんなに清潔感があるんだろうか?!昨日の白ワンピースとは、また違う方向で……彼女は、『お嬢様☆光線』をキラキラと撒き散らしている。

 あっ、オレに気付いたッ!おおっ、オレに向かって、ニコニコと手を振ってくれている。

 ……ええっと。オレも、彼女に手を振るべきなんだろうか?

 そんな恥ずかしいことができるかよ!オレは、別に……三善さんの彼氏とかじゃないんだし。あ、彼氏は、手なんか振らないのか?いや、むしろ振るのか?その辺は、オレにはよく判らないけれど……!

 とにかく!!!このまま、窓のところに居るのは、よくない気がした。

 これじゃあ、まるで、三善さんが来るのを、ずっとここで待っていたみたいじゃないか。まあ、実際、そうなんだけど。

 速やかに、窓辺から撤収せよ……!オレは、オレの身体にそう命じる……。

 で……どこに行こう?あ、そうだ!

 オレは、部屋のドアを開けて、玄関前で彼女を『お出迎え』することにした!

 数分後、うちのボロアパートの鉄階段をカンカンカンと、甲高い音を立てて……美しい三善さんが、上がって来る……!

「こんにちわ!恵介くん、待った?」

 制服姿の三善さんが……オレを見て、ニコッと微笑む。

「いや、オレも、今、帰ってきたばかりですから!」

 オレは、とんでもない嘘吐きだ。

 というか、何だ……この、このものすごーくありがちな会話は?!

「良かった。あたし、今日は『お稽古』を休んできちゃったッ……!」

 そう言って、三善さんは可愛らしい舌をペロッと出した。

「……お、『お稽古』?」

 な、何の……?

「うん。あたし、病気以外で『お稽古』を休んだのは……生まれて初めてよ!」

 ……え?!

「あの……いいんですか?」

 オレに会うためなんかで……休んだりして。

「ホントは、ちょっとマズイんだけどね」

 三善さんは、エヘッと笑った。

「でもいいのよ。月曜日は、『英会話』だけだから。あ、先生には、昨日のうちにご連絡してあるから問題ないのよ」

 ……休むことは、連絡済み?

「先生は『問題ない』のに、何がマズイんです?」

 オレがそう尋ねると……三善さんは、ちょっと曇った表情で……。

「……お祖父様が」

 お、お祖父様?

「お祖父様は、とてもお稽古事にはとても厳しい方だから……内緒でお休みしたことが判ったら、とってもお怒りになられると思うわ!」

 ああ、三善さんのお祖父さんて、そういう人なんだ。

「昨日も話したけれどね……あたし、ずっと、父方の祖父の家で暮らしているの」

 ……そっか。お祖父さんが、三善さんのお稽古事の月謝を払っているんだ。それなら、厳しいのも理解できる。

「三善さんて、他にも習い事しているんですか?月曜日は『英会話だけ』って、言ってましたけど?」

 『だけ』ってことは……他にもあるってことだよな。

「うん、月曜日は『英会話』。で、火水金は『日舞』のお稽古日なの」

「……ニチブ?」

 何だ……そりゃ?!

「『日本舞踊』よ!」

 ああ……和服を着て、舞台でチョコマカ踊るやつか。よく判んないけれど。

「ね、恵介くん。日本舞踊って、どう思う?……観たことある?」

 そんなの、あるはずが無い。

「……無いです」

 三善さんは、ちょっと残念そうだった。

「でも、何となくは判るわよね?」

 何となくって、言われてもなあ。

「あの……和服で、クルクル踊るやつですよね?木の枝とか、番傘を持って……」

 あれ……釣り竿とかだったかもしれない?

 いずれにせよ……良く判らないし、興味も無い。

「まあ、そんな感じかな」

 背の高い三善さんが、オレの顔を上から覗き込む。

「ね、今度、観に来ない?」

 え……何を?!

「お姉ちゃんが踊っているところ……恵介くん、観に来てくれないかな?!」

 うーん、それは……あの。

 正直……イメージが湧かない。多分、三善さんが、綺麗な着物を着て踊るのは素敵なんだろうけれど……。何か、退屈そうだし。わざわざ観に行くのは、ちょっとなあ。

「は、はい、そうですね。何かの時に機会があれば、ぜひ……!」

 それでも……適当な約束をしてしまう。弱いオレ。

「うん。約束したからねっ!」

 三善さんは、ニコッと微笑んだ。ホントは行く気が無いだけに……その笑顔が心に痛い。

「えっと……じゃあ、木曜と土日以外は、みんな習い事をしているんですか?」

 早いところ『日舞』から話を変えよう。

「いいえ。木曜日には、お三味線を習っているわ!」

 お……シャミセン?!

「三味線て、あの三味線ですよね?」

 猫の皮が張ってある、和風のギターの?!

「そうよ。どうしたの?」

 ……ええっと。

「いや……オレ、同年代の女の子で三味線を習ってる人なんて知らないから!」

 同年代以外でも知らない。テレビでしか見たことないよなあ。

「ああ、お三味線はね、日舞のためにやっているのよ……!」

 日舞のため?!ヤバイ、話がまた日舞に戻った……!

「あのね……日本舞踊って、基本的にお三味線の伴奏で踊るのよ。だから、自分でお三味線を弾けるようになっていたいなって思って……!」

 へ、何で?伴奏が三味線だからって、別に、自分で弾けなくたっていいように思うんだけど……。

「まさか……三味線を弾きながら、クルルンと踊るとか……?!」

 そんなオレの言葉に……三善さんは、クククと笑い出した。

「そんな器用なことできるはずがないでしょ!面白いね、恵介くんの発想は!」

 ……うええっと。三味線の話も、これまでにしよう……。

「じゃあ……三善さんは、週に五日もお稽古事があるんですか…?」

 月曜が『英会話』でも火水金が『日舞』、そして木曜が『三味線』。

「うーん、家でも踊りのおさらいするから……あたし、ほとんど毎日、踊っているのよっ!」

 また話は、日舞に戻る。

「じゃあ、日舞浸けじゃないですか?」

「そうね……ホント、そんな感じなの……!」

 三善さんは、楽しそうに笑っている……。

「はぁ、三善さん、ホントに日舞が好きなんですね!」

 好きじゃないと、毎日は無理だよなあ。その上、日舞のために三味線まで習っているんだし。

 ところが。オレの発言に、三善さんは「えっ?!」と驚いた表情をする……?!

「あの?」

 ど、どういうこと?!ちょっと困り顔の……三善さん。

「あ、あの、好きだからやってるんじゃないんですか、日舞?!」

 嫌なのに、毎日踊ったりはしないだろう、普通?!

 三善さんは、真顔で少し考え込む。

 それから、オレに答えた。改めて……笑顔を作って。

「うん……好きよ……あたし、日舞」

 いや、好きだったら……今の変な間は、何だったんだよ?!

「好きなことは好きなんだけど、改めて、そんなこと考えたことなかったから……あははっ、急にそんなこと聞かれて、びっくりしちゃったっ!」

 考えたことがない?びっくりした?こっちがびっくりだよ。

「あのね、恵介くん。あたしのお祖母様……つまり、恵介くんのお父様のお母様はね、日舞の先生をなさっているの……!」

 オレの……もう一人のお祖母さんが、日舞の先生?!

「おうちで日舞教室を開いているのよ。だから、あたし、生まれてからずっと日舞を踊っているの!」

 日舞教室……。あ……町で看板を見たことがあるな。『**流・日舞教室』っての。

 ……でも。

「家で教室を開いているんですか?」

 カルチャー・センターとかじゃなくて?!

「そうよ。うちの和室の大広間で」

 広いんだ……三善さんの家。何だよ、大広間って。

「だからね……あたしは、子供の頃から日舞を踊るのが当たり前になっちゃっているのよ。踊ることが、生活の基盤になっちゃっているから……改めて『日舞が好きか?』って聞かれると……それは確かにそうなんだけど」

 三善さんは、フフッと笑う。

「ちょっと考え込んじゃったの。でも、嫌いじゃないわ。あたし、踊るのは大好きなの!」

 三善さんが、ニッと笑って、オレを見る。

「あたしね、将来は、お祖母様みたいに日舞の先生になるんだって決めてるのよ……!」

 ……将来の夢。

 この人は……もう、自分の未来が見えているんだ。だから、毎日、日舞を練習して、三味線も本気で習っているんだ。

 すごいな。オレなんて、来月のことさえ判らないのに……。

「英会話を習っているのもね……いつか外国の人に、日舞を教えてみたいって思っていてね。それでなのよっ!」

 ……大人なんだな。三善さん。

 いや……オレよりも年上なんだから、大人なのは、当たり前なんだけれど。

 オレとは違う、別の世界に生きている人なんだ……。

「じゃあ、ホントに毎日、日舞ばっかりなんですね」

「そうね。土日は、色んな方の発表会にも行ってるのよ。他の人の踊りを観るのも、大切な勉強だから!」

 何かちょっと。オレには……想像できない。そんな生活。

「……大変なんですね」

「大変じゃないわよ。全部、自分でやると決めたことだから……ところでさ、恵介くん」

 三善さんは、ポケットからハンカチを取り出して、首元の汗を拭った。

「……はい?」

「そろそろ、お部屋の中に入らない?ここ、お日様が当たって暑いわよ。恵介くん、暑くないの?!」

 あわわ!!オレが部屋に勧めないから、すっかり玄関先で立ち話になっていた!

「あ、すいません!どうぞ!」

 オレは、急いでドアを開け、靴を脱いで……先に、ソソソっと部屋に上がる。

「お邪魔しますっ!」

 そうして、ついに、三善さんが…僕の部屋に上陸したぁッッ―!!!

 三善さんは、丁寧に片方ずつ革靴を脱いでいく。女物の小さな革靴は、何だかとても可愛らしく見える。白い手が、脱いだ靴をきちんと揃えた。

 ついでに、オレの汚い運動靴まで揃えてくれて、ああ……綺麗な手に、余計なことをさせてしまった。ふ、不覚を取った!

「……ふーん、綺麗にしているのね」

 三善さんは、部屋の中をぐるりと見渡している。畳の上は、チリ一つ無い。窓ガラスも全部拭いてある。よしよし、掃除作戦は取りあえず成功だ。

「……!」

 三善さんの視線が、死んだバァちゃんの祭壇に向かう……!

「恵介くん」

「はい?」

「あたし、恵介くんのお祖母様に……ご挨拶させていただいてもいいかしら?」

 大きな黒い瞳が、オレを見る……。

「それは……どうぞ」

 オレの言葉に、スッと祭壇へと赴く、三善さん。その動作も……凜として美しい。

 畳の上での立ち振る舞いに慣れているんだ……。

 そして、彼女は、祭壇の前に正座して……葬儀屋さんの置いていった祭壇用のライターで、お灯明のロウソクとお線香に火を着ける。

 祭壇に深く頭を下げ、手を合わせてくれた。

 それから、真っ直ぐバァちゃんの遺影に向かって……!

「初めまして。ご挨拶が遅くなって大変申し訳ございません。わたくしは、恵介くんのお母様違いの姉で……三善愛美と申します」

 ……三善さん。

「ご生前にお目にかかれなくて、とても残念です。今まで、恵介くんを慈しんで下さって、本当にありがとうございます。恵介くんを健康で、立派な男の子に育てて下さって……姉として、心より感謝致します」

 三善さんが……オレのバァちゃんに、お礼を言ってくれる。

 正直……オレは、嬉しかった。生きてきて良かったとさえ思った。

 可哀想だった……オレのバァちゃん。決して幸せな一生を送ったとはいえない。そんなバァちゃんの一生を……三善さんに、認めてもらったような気がした。

「これからの恵介くんのことは、どうか、わたくしにお任せ下さい。わたくしが、恵介くんを全力でお守りします。お祖母様に、ご心配をお掛けるようなことは、決してありません。この身に賭けてお約束致します。ですから……どうぞ、安らかにお休み下さい……!」

 そう言ってくれた……三善さんは!

「……ありがとうございます」

 オレも正座して……三善さんに頭を下げる。

「……馬鹿ね。何、言ってるのよ。恵介くんのお祖母様は、あたしにとっても大切な方なのよ!」

 三善さんの笑顔は、とても優しい……。

「あたしたち、姉弟なんだから」

 その言葉が……オレの心に突き刺さる。

 そうなんだろうか?オレたち……本当に、姉弟なんだろうか……?!

「あの……座布団を、どうぞ」

 オレは、ちょっと緊張しながら……死んだバァちゃんの使っていた、うちにあるただ一枚きりの座布団を三善さんに差し出す。

「ありがとう、恵介くん!」

 ちょこんと、正座して座る三善さん。背筋が、スッと伸びている。和室の暮らしに、慣れていることが判る。

「今日は、ちょっと暑いわよねっ!」

 三善さんは、また白いハンカチを取り出して、首元の汗を拭った。

 オレは、その姿に、ちょっとドキリとする。

 バァちゃんの祭壇から……お線香の穏やかな匂いが、部屋の中に拡がっていく……。

「……あ、飲み物、麦茶でいいですか?オレ……学校の帰りに、冷たいのを買って来たんで……!」

 スーパーで1リットル入りの紙パックのやつを買って来た。

 いや、うちにもヤカンとかあるし、正直、沸かして作った方が安く済むんだけど……何か、オレが作ったのは、三善さんに飲ませてはいけない様な気がした。

 おかしな物が入ってると思われたりしたら嫌だし。ここはやはり、市販品をお出しするのが、無難であろうと判断した。

「ありがとう。いただくわ……あたし好きよ、麦茶!」

 好きなんだ、麦茶!良かった。麦茶にしておいて……!!!

「……い、今、持って来ますっ!!!」

 オレは、猛ダッシュで台所へ飛び込む!冷蔵庫をガバッと開けて……麦茶のパックを取り出す。それから、きちんと洗って、ピッカピカに磨き上げたコップを二つ取って……!

「……お待たせしましたぁぁッッ!!!」

 ちゃんと、三善さんの眼の前で……よく見える様に、パックを開け、新品であることを示す。開封しているところを、ちゃんと本人に見せないと……。三善さんは、不安になるだろうからな。オレなりに、気を遣ってみた。それからトクトクドクッと注いで、ススススーッと差し出す!

「ありがとうっ!いただきますっ!」

 三善さんの清らかな手がコップを掴み、三善さんのぷっくりとした唇が、コップの丸い縁に接触する!

 ……おおおっ!

 彼女は……コクコクと喉を鳴らして麦茶を飲んだ。飲んだ。飲んでるぅぅぅ!!!

「……美味しいわ!」

 三善さんが、ニコッと微笑む……。

 バンザイ、スーパーの麦茶!バンザイ、買って来て本当に良かったぁぁ……!

「あれ……恵介くん、飲まないの?!」

 ……あややややや。

「の、飲みますっ!飲ませていただきますっ!」

「何言ってるの……恵介くんが買って来てくれた麦茶じゃない!」

 三善さんは、クククっと笑った。

「……い、いただかせていただきまするッ!」

 な、何を言ってるんだ……オレは。武士か?!ううう。何か、緊張する。

 とにかく、ぐびりぐびりと麦茶を飲む!!もう麦茶の味なんか、全然判らない。

 オレ、今、この綺麗なお姉さんと二人っきりで麦茶を飲んでるんだッ!感動ぉッ!!!

 同じ1リットルのパックに入っていた麦茶を……分け合って!

 いいのか。オレ……こんな、大それたことをして……。

 この麦茶のパックは、全て三善さんに献上して……オレは、水道水とかを飲むべきなんじゃないのかぁッ?!

「どうしたの?」

 ……ま、まずい。へ、変に思われてはいけない。だから飲む。麦茶を飲む。

 ごくごく、当たり前の様に……ごっくんごっくん、飲ませていただくッ!

「……んぐっ!はっ!」

 オレは……コップを空にする。ああ、一杯の麦茶を飲むのが、こんなにも勇気の居ることだったなんて!

「あ、そうそう、恵介くん、あのね……!」

 不意に三善さんが、オレに話し掛ける。

「な、何ですか?」

「あ、ちょっと待って……!」

 そう言って、彼女は……通学カバンの中をゴソゴソやって、手の平サイズの四角い物体を取り出した。

「はい、これ!」

 それは……メタリック・ブルーの携帯電話機?!

 三善さんの白い手が、その小さな機械をスーッとオレの前に差し出す。

「これ、三善さんの携帯電話ですか?」

 そうだよな。三善さんは、高校生だし。『お嬢様』なんだから、携帯電話くらいは当然持っているよな。もちろん……オレの中学にも、自分の携帯を持っている生徒はたくさんいるけれど。オレ自身は、触ったことすら無い。

「そうなんだけどね……これ、恵介くんにあげるっ!使って!」

 三善さんは、オレにニッと微笑みかける???!

「は……はいぃぃ???!」

 携帯を……オレにくれる?!!!

「いや、でも……オレが、これを貰っちゃったら、三善さんが困るでしょ?」

 だって、三善さんは……自分の携帯電話が、なくなっちゃうじゃないか???!

「あ、いいのよ。あたし、携帯は二つ持ってて、こっちは普段使ってない方だから」

 ふ、二つ?携帯電話機を?こっちは、使っていない???

「だから、これは恵介くんのにしようって思って、持って来たのっ!」

 そもそも、何で女子高校生が携帯電話機を二つも持っているのか……その段階からオレには理解ができない?!!!

「えっとね……あたしの普段使っている電話機は、これよ!」

 三善さんは、カバンの中からもう一つ、赤い携帯電話機を取り出した。

「これね、先月、新しくしたばかりなのっ!」

 ああ……いわゆる、『機種変更』ってやつですね。うん、そんな言葉を、小耳に挟んだことがある。

「この前、お父様と外でお会いした時にね……お父様が、あたしに『そろそろ機械を新型のに替えた方がいいんじゃないか』って言って下さってね……それで、二人で電話屋さんへ行って、この赤いのを買っていただいたのよ!」

 三善さんは、お祖父さんと暮らしている。お父さんとは……たまにしか会わないんだろうな。そのお父さんに、新しい携帯電話を買って貰ったんだ。そこまでは、理解できた。

「じゃあ……こっちの青いのは、古い方の電話なんですか?」

 それにしちゃ、ずいぶん綺麗に見えるけれど……。

「違うわ。古いのは、家に置いてきたわ。あれは、もう二年近く使ってた機械だから……」

 え……違うんだ。ってことは?!

「ああ、そっか……古いのは、もう壊れちゃって使えないんですね?」

 そういうことなんだな。そうでもないと、新しいのなんて買って貰えないよな。確か携帯電話機って、何万円もするらしいし。

 しかし、二年使ったら、故障して交換なんて……携帯電話って、オレが思ってたよりも壊れやすいものなんだな。

 などと、オレが考え込んでいると……三善さんが、ムッとした表情になる。

「あたし、そんなに乱暴な使い方はしないわよ!壊れてませんっ!機種交換した日まで、ちゃんと使ってましたっ!」

 ……は、はい?

「え……壊れてもいないのに、新しいのを買ったんですか?」

「そうよ!」

「だって、まだ使えるなら機械を新しくする必要は無いじゃないですか?!」

 オレの問いに……三善さんは。

「それは……色々と機能とか、デザインとか……新型の方が良くなっているじゃない」

 機能?デザイン?携帯電話機は、電話が掛けられれば、それでいいんじゃないのか?!よく、判らないけれど……。

 とにかく……別に、故障したりしたわけじゃなく、新しくしたんだな。メチャクチャ高価な物を。さすが……『お嬢様』は違うなあ。

 ん……ちょっと、待てよ?!

「古いのは、もう使ってないってことは……この青い機械は何なんです?」

 オレは……眼の前の、もう一つの青い携帯電話に眼を落とす……。

 三善さんが、お父さんに買い換えて貰ったのは……赤い電話。それは今、三善さんの手の中にある。

 そしたら、オレの前のこの青い電話機は……これは、何なんだ?!

「あ、それはね」

 三善さんは、ちょっと恥ずかしそうな顔をして……。

「その青いのは、こっちの赤いのを買っていただいた後に……お祖父様が、あたしに下さった物なの……!」

 ……ぬぬぬぬぬっ?!

 もう、三善さんは赤い新しい携帯電話を持っているのに……お祖父さんが、別の機械をくれた?!何で??!

「あたし、お父様にこっちの赤い電話を買い換えていただいた日にね……その日の晩、帰宅した後でお祖父様にお見せしたのよ。『今日はお父様に、この電話機を買っていただきました』ってご報告したの!」

 ……うん。

 三善さんは、きちんとした『お嬢さん』なんだ。だから、お父さんと外で会った後に、同居しているお祖父さんに『どんなことがあったか』報告した。それは判ったけれど……どうしてそれで、もう一つ別の電話機が出てくるんだ?

「そしたらね……その次の日の夜に、お祖父様があたしの部屋に突然いらして、お祖父様ったら、こんなことをおっしゃるのよ……!」

 三善さんは、突然、お祖父さんの口真似をする……!

「『愛美、あいつには負けていられない。それなら、僕は、この電話をお前にプレゼントするからね!』って」

 ……へ?

「それで……そっちの青い方の電話機を下さったのよッ!」

 携帯電話機を機種変更した翌日に、別の電話機をプレゼントしてくれた……?!

「お祖父様は、昔からあたしのこととなると、お父様に対抗意識をお持ちになるから……」

 対抗意識つて……何だ、それ?

「それでね……お祖父様ったら、『僕の選んできたこの青い電話機は、舶来物だからね。あいつが買ったその赤い国産品とは、中身の出来が違うんだぞ』って……携帯電話を、腕時計みたいにおっしゃっるのよ……!」

「あの……『ハクライモノ』って何ですか?」

 オレには、言葉の意味が判らない。

「ああ、『外国製』ってことよ。確かに、これ北欧の会社の携帯電話機なんだけどね。でも……どっちの電話機も、機能的にはそう変わらないのよ!」

 は……はぁ。ホクオウって、会社があるんだ。中国製か?台湾?!

「その上、お祖父様ったら……『これは、僕と愛美との直通のホットラインだからね。そう思って、大事に使いなさい。僕は、今から先は愛美から電話が掛かってきても、その青い電話からでないと絶対に出ないからね。あいつの赤い方の電話は、もう捨ててしまいなさい』って……そんなことを、おっしゃるの!」

 どういう世界の話だ?!父親と祖父で、三善さんに新型の携帯電話の押しつけ合いをする?!お金持ちのすることは、よく判らん。

「でも、そんなことを言われても……あたしの元々の電話番号は、お父様に買っていただいた赤い電話機の方が引き継いでいるわけだし……今更、お祖父様にいただいた青い電話機の番号をお友達たちに連絡するのも大変でしょう?」

 う、うん?

「携帯電話が二つあっても……これじゃあ、毎日、両方の機械を持って歩かないといけなくなっちゃうじゃない?番号が違うんだから」

 た、確かに。

「お祖父様ったら、そういう問題について全然判っていらっしゃらないのよ!しかもね、お祖父様の携帯に登録してある、あたしの電話番号は……前の機械と同じままでしょ?だから、お父様に買っていただいた赤い方で無いと繋がらないのよ。お祖父様、携帯電話機に登録されていない電話番号で掛かって来た電話には、絶対にお出にならないんだから!」

「……え。自分で青い電話機をプレゼントしておいて……その電話機の番号を自分の携帯に登録するのを忘れてたんですか?」

「そういうことなのっ!」

 三善さんは、プンスカ怒っている。

「全然、お祖父様と愛美とのホットラインなんかじゃないのよ!その電話機から掛けても出て下さらないんだから。だから結局、お祖父様とお話しする時も、お父様に買っていただいた赤い方を使うしかないってことなのよっ!」

 ……はあ。

「だからね……こっちの青い方の電話機は、お祖父様にいただいたけれど、あたしは全然使っていないのよ。電話番号を知っている人だって、一人もいないんだから。そんなの、あたしが持っていても無駄なだけでしょ?だから、これは恵介くんにあげようと思って持って来たのよっ……はいっ!」

 うえええええっ??!な、何で、そうなるっ?!!

「これは、お姉ちゃんからのプレゼントよ……どうぞ!受け取って!」

 三善さんは、にこやかに、そう言ってくれるけれど……。

「でもオレ、電話機を貰っても、毎月の使用料とか払えませんし……」

 ……オレには、金がない。本当にない。全然ない。

「大丈夫よ。そういうのは、お祖父様が払って下さってるから」

 は……何で?!

「最初に機械を買って電話会社と契約したのは、お祖父様だから……きっとお祖父様は、ずっとこのまま毎月の料金を払い続けて下さると思うの……!」

 いや……それって。

「幾ら、使っていないからって……あたしが、勝手に解約することはできないじゃない?契約の名義は、お祖父様になっているんだから」

 それは……そうなんでしょうけれど。

「でも……オレ、必要無いですから……携帯電話とか……」

 何とか……断る口実を探す……。

「オレ、電話する相手とか、いないですし……!」

 そしたら……三善さんが、大いに怒るッ!

「何言ってるのよ!恵介くんが電話を持ってなかったら、お姉ちゃんとお話しできないじゃないっ!」

 ……あわわわわッ?!

「その電話は、お姉ちゃんと恵介くんのホットラインになるんだからねっ!」

 三善さんは、自分がお祖父さんに言われたことをオレに言う。

「だけど……あの……その……!」

 そんなこと、言ったって……。

「この電話機をオレに渡すってこと……三善さんは、お祖父さんには……話してないんですよね?」

 三善さんの話している感じだと……許可は貰ってないよな。勝手にそんなことをするのは、かなりマズイことなんじゃないだろうか。

「それは……いいのよ、あたしのお祖父様は、恵介くんのお祖父様でもあるんだから。とっても優しい人なのよ……こんなことぐらい、きっと笑って許して下さるわよっ!」

 三善さんは、そう言うけれど……優しい人なら、どうしてちゃんと許可を取らないんだ?

 ……あ。オレの頭に、ふと、一つの疑問が浮かび上がる。

「あの………三善さんが、オレと会っているっていうこと、もしかして三善さんのお祖父さんは、知らないんですか?」

 三善さんの表情が、サーッと暗く曇った。

「……う、うん。まだ、お話ししてないわ。内緒のままよ」

 ……やっぱり。

「どうして、内緒なんです?」

 三善さんは……答える。

「あたしが、恵介くんのことを知って、最初にご相談した時にね……お祖父様に言われたの……」

 何て?

「『恵介くんには、会ってはいけない』って……」

 オレに……会ってはいけない?

 オレは……大きく息を吸って……深く、吐く。

 ……そうだよな。オレは『不倫の子』だから。

 三善さんのお祖父さんは……三善さんを、オレを会わせたくないんだ。

「お祖父様は、『そのうちに会う機会をちゃんと作る』って、あたしにお約束して下さったんだけど……そんなの待ってたら、いつになるか判らないじゃない?」

 約束だけして……一生会わせないってこともあるだろう。

「だけど、お姉ちゃんは、どうしても、すぐに恵介くんに会いたかったから……だから、恵介くんの住所を調べて……それで、昨日、ここに来たのよ」

 三善さんは、真剣な顔でオレに言った。

「調べたって?」

 何を……どうやって?

「それはね……『財前法律事務所』に聞いたの……!」

 ああ……オレの父親が契約してる弁護士の。

 オレの『養育費』のこととかにも関係しているんだから……住所くらいは知っているよな。オレのバァちゃんとも、連絡していたんだし……。

「弁護士の財前さんは、お父様とお母様の離婚調停の時にお世話になったから、あたしもよく存じ上げているの。だから……『お祖父様から、恵介くんのことを聞きました』ってお話したら、すぐにここのの住所を教えて下さったわ」

 それって三善さん。弁護士さんに嘘をついてまで……そこまでして、オレに会いに来てくれた……!

「お姉ちゃん、どうしても、恵介くんに会いたかったのよっ!」

 三善さんが、ニコッとオレに微笑む。

「お祖父様やお祖母様には、いずれ、お姉ちゃんがちゃんとお話するからっ……だから、大丈夫よ!」

 優しくオレに……そう言ってくれた。

「恵介くんは、とっても良い子なんだから、きっとお祖父様たちも判って下さるわよっ!」

 オレの知らない……オレの祖父母。

 いや……オレの祖父母ではない。血は繋がっているとしても他人だ。オレとは、関係のない人たちだ。

 オレが生まれてから十五年、一度も会ったことのない人たちなんだから……。

「だから……とにかく、この携帯電話は、あなたのお祖父様からのプレゼントだと思って受け取って!もし何かあったら、お姉ちゃんが全て責任を取るから……ね?」

 そう言って、三善さんは……メタリック・ブルーの携帯電話をオレに差し出す。

「……いや、でも」

 オレは、こんな形で知らない人の持ち物を預かるというのは……あんまり気が進まない。

「これって……三善さんのお祖父さんが、三善さんにプレゼントした携帯電話機をオレに『又貸し』してもらうことになるじゃないですか」

「恵介くんからだと、そういう見方もできるかもしれないけれど……」

 いや、思いっきり、そういう見方しかできないじゃないですか!

「勝手にそういうことをするのは……やっぱり、よくないことですよ」

 オレが、強くそう答えると三善さんは、キッとした表情でオレを睨むッ……!

「もおっ!……いいから黙って、受け取りなさいっ!」

 うへぇっ……三善さん?ここで、キレるの?!

「携帯電話は、現代では生活必需品なのよっ!だって、電話がないと……お姉ちゃん、恵介くんと連絡が取れないじゃないのっ!」

 強いテンションで……押し切ろうとする、三善さん。

 三善さんも……これが、『悪いこと』だっていうことは、よく判っているんだ。

 そしてこれが、お祖父さんの信頼に対する『裏切りの行為』だということを理解した上で……それでも、オレにに携帯電話を持たせようとしてくれている。

「……受け取ってよ!恵介くんっ!」

 それはつまり。結局のところ、オレが彼女との連絡手段を何一つ、持っていないからで……ああ、どうしよう?!

 オレが自分で携帯電話を買えば、全て丸く収まるんだろうけれど……今のオレには、そんな金はないし。だいたい、保護者無しで中三のオレに携帯電話の契約は可能なんだろうか?無理だろうな。それくらいことは、オレにも想像できる。

「お姉ちゃんの一生のお願いっ!」

 そう言って、三善さんは……オレに、頭を下げてくれた。

 オレみたいな人間に……三善さんみたいな、『お嬢様』が……。

「……わ、判りましたから……あ、頭を上げて下さい……!」

 オレには……そう答えることしかできなかった。

 三善さんが、こうまでしてくれたんだ……オレも、腹をくくろう。

 この電話は、三善さんとの通話だけに使うことにすればいい。どうせ、オレの方から三善さんに電話を掛けることは無いだろうし。

 オレには……他に電話する相手もいないんだし。

「ホントっ!……いいのねっ!ありがとうっ!」

 三善さんの笑顔は……麗しい。

 綺麗+可愛い+美しい+上品……とにかく、素晴らしい。

 オレは、何だか、とっても恥ずかしくなって……三善さんの顔を見ていられなくなる。

 だから、青い携帯電話に視線を落とした。

「判りましたから。この電話機は、オレがお預かりします」

 そうだ……預かるだけだ。貰うんじゃない。オレの物ではないんだから。

 オレの答えに、ホッとした様子の三善さん。改めて、ニッコリと小さく微笑んでくれる。

「恵介くん。使い方、判る?」

「いいえ」

 今まで一度も使ったことないんだから、そんなの判るわけがない。

「もう、しょうがないわねっ!」

 すると、三善さんは、何だかすごく嬉しそうな顔をして……。

 オレに、携帯電話の使い方とメールの送り方を一通り教えてくれる。

「ええっとね。まず、ここをボタンを押したらね!」

 座布団から腰を上げて……。

 三善さんのプロポーションの良い身体が、ずりずりとオレに近寄ってくる!

 わわわ……近い!近すぎるよっ!!

 三善さんの芳しい吐息が、オレの顔に直接掛かるような、超近距離に最接近する!

 三善さんは、甘い匂いがする。

「ほら、恵介くん、自分で操作してみて……!」

 オレに携帯を持たせて……そのオレの手の上に、三善さんの綺麗な手が。手と手を重ねて、操作の仕方を教えてくれる……!

「……そうそう、そのボタンよ!」

 オレ……小学校のフォークダンス以来だな。女の子と……こうして、手が触れるのは。

 いや、こんなに綺麗な人と触れ合うのは……おそらく、これが最初で最後だろう。一生の思い出だ。っていうか、オレ……五秒後に死んでも、後悔しないと思う。

 バァちゃん!……オレ、生まれてきて良かったよ。もう思い残すことはない。

「ね……判った?」

「あ……だいたい」

 夢のような時間が……夢のように終わる。三善さんは、自分の座布団に戻った。

「お姉ちゃんの携帯は、もう登録してあるからね!」

 どうして、この人は……こんなに無防備に『知らない男』に近寄って来られたんだろう?こんなにも綺麗な『お嬢様』が。

 オレを、自分の『弟』だと信じているから?『血族』だと、信じているから?

 それとも……年下の『子供』だとしか、思っていないからか?

 オレは、いつも小学生に間違われるくらい……背が低い。やせっぽちだ。貧弱な肉体をしている。この大人っぽい高校生のお姉さんから見たら、子供なんだろう。

 だけど……オレの眼から見た、三善さんは……。

 綺麗すぎる一人の『異性』としか……思えない。

「まあ、使ってるうちに段々判ってくると思うから……そうそう、忘れてたわ!」

 再び三善さんは、自分の通学カバンの中をゴソゴソする……。

「ストラップ、付けとくねっ!」

 あの、三善さん?その小さな『クマさん』は、何なのですか?

「可愛いでしょう?これ、あたしのとお揃いなのよ」

 と……彼女は、自分のワインレッドの携帯電話を取り出す。

 確かに、赤い携帯電話機のストラップの先に……同じクマさんが、ぷらんぷらんと吊り下がっている!

「やっぱり姉弟なんだから、同じのを付けないとねっ!」

 え、え、え?!

 世の中の『姉弟』は、みんなお揃いのストラップを、付けているものなのか?!

「なあに?恵介くん……嫌なの??」

 えーと……どうせ、オレが抗議しても付けるんでしょう、それ。

 段々、三善さんの性格が判ってきた。この人は、絶対に自分の意見を押し通す……!

「ほらほら、おんなじよ!見ても見て!」

 ああ……二つの熊さんが、並んで揺れている……。

「ところでさ……恵介くんは、普段は夜、何時頃にお布団に入るの?」

 ストラップの紐を青い方の携帯の穴に通しながら……三善さんが、そんなことを聞いてきた。

「えっと……だいたい、十一時くらいです」

 オレは……正直に答えた。

「ふーん。割と早いんだね。恵介くんは、夜更かししたりしないのね」

 オレは……祭壇のバァちゃんの遺影を見る。

「死んだバァちゃんが働いていた青果市場は、朝早くから『競り』があるから。毎日、五時起きだったんです。だから……うちは夜は早く寝る習慣がついてて……」

 冬の朝早く……布団をたたむ、バァちゃんの小さな後ろ姿を思い出す……。

「じゃあ……恵介くんも、朝はお祖母様と同じで五時に起きるのね?」

「いえ……それは、バァちゃんが倒れる前までのことで……」

 バァちゃんが倒れて入院したのが、二週間前……。

「最近は……大体六時半ぐらいに起きています」

 すっかり、生活のペースが変わってしまったな。

「ああ、じゃあ、大体あたしと一緒ね……良かった!」

 三善さんが、また意味深なことを言い出す。

「あの、何がです?」

 オレは……恐る恐る、聞いてみた。

 すると、三善さんは「ヘヘヘン!」と、可愛く微笑み……。

 ああ。何か……嫌な予感がする。

「ほら……お姉ちゃん、明日からは、毎朝、恵介くんを起こしてあげないといけないでしょ?だから、その目安になる時間を知りたかったのよ!」

 は、はいぃぃ???!

 なんですとぉぉぉぉぉッッ!!!

「これからは毎朝、お姉ちゃんが恵介くんにモーニング・コールしてあげるからねっ!」

 ……ま、待てぇぇぇぇい!!!

「いや……オレ、そんなことをしてもらわなくても、ちゃんと朝は起きられますからッ!」

 そんなこと、やられたら!!!

「あれれ……恵介くんは、お目覚めにあたしの声を聞くのは嫌なのぉ?」

 三善さんの強い視線が、オレの心にズブリと突き刺さる!

「いや、そういうことじゃなくって……そんな、お気遣いしていただかなくても、オレは大丈夫ですからッ!!!」

 もう、頭が動転して、何をどう話せば良いのか判らない!!!

「気遣いなんかじゃないわよ!あたし、いつもやっていることだし」

 え……いつも???!

 三善さんは……毎朝、モーニング・コールをしている???!だ、誰に??!

 ま、まさか……すでに『彼氏さん』とか、いらっしゃるのかぁぁっ???!!!

「うん、お祖父様にね!」

 お……お祖父さん??

「うちのお祖父様は、お仕事で地方へ行かれることがとても多いの。だから、ホテルにお泊まりになった時は、毎朝、あたしがモーニング・コールすることになっているのっ!」

 あ……そうなんだ。

「あたしが電話で起こして差し上げるのを、いつもお祖父様、とても喜んで下さって……だから、恵介くんにも同じことをしてあげたいのよっ!」

 そ、そういうことか……しかし!

「いや、お気持ちは、大変ありがたいのですが……」

 毎朝、三善さんから電話掛かってくるなんて……逆に気になって眠れないよ。不眠症になる!毎晩、朝まで電話の前で正座して待つことになるぅぅぅ……!!!

「何が嫌なのっ?!」

「いや、あの、何て言うのか……女の人から毎朝、電話が掛かってくるっていうのは……」

「恵介くん、もしかして恥ずかしいの?」

「はい……ちょっと」

 ホントは……『ちょっと』どころではなく恥ずかしい。顔から火が出て、その炎がここから半径1キロメートルの市街地を全て焼き尽くすぐらい気恥ずかしい。小っ恥ずかしい。

「そう。じゃ、直接電話するより、メールの方がいいのかな?」

 ああ。何という強固な意志!

 この人は自分のやりたいことは、何としても押し通す!全面的に諦めて、方針転換っていう考えは皆無なのですね……。

「で、できれば、メールの方でお願いしますッ!」

 オレは……まだ、ダメージの少ない方をお願いすることにした。

「判ったわ。じゃあ、最初はメールからってことにしましょうねっ!」

 ……『最初は』って。

 ほら、絶対に退かない。退かない人なんだなあ、三善さんて。

「では……ここで今日の本題に入りますっ!」

 と、唐突に、三善さんが明るく高らかに宣言するっ!

 ま、まだ何かあるのですかっ?!

「ふんふんふふん、ふーん!」

 と、鼻歌を歌いながら……三善さんは、またスクールバッグの中をまさぐっている?!

「お姉ちゃんね、今日は、お友達にこういう物を借りて来ましたっ!」

 そうして、カバンから出てきたものは……。

 黒革のケースに入った……大きなハサミ……!

「お姉ちゃんの学校のお友達にね……おうちが美容室をやっている真代さんて子がいるのよ。その子にお願いして借りてきたの。これ、本物の美容師さんのハサミなのよ!」

 三善さんは……革のケースから、ズシャツとハサミを取りだした。何か全体的に「シャキーンッ!」としたシルエットをしている。ちょっと、カッコイイかも。

「……さ、恵介くん、こっちにいらっしゃい」

 三善さんは「ニッ」と笑って、ハサミをカチカチやる。

「あの……どういうことです?」

 いや……多分、大体想像はできるけれど……。オレの予想、外れてくれいっ!

「今日は、お姉ちゃんが恵介くんの髪を散髪してあげますっ!」

 ああ、やっぱり……そうなのかぁっ!!!





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