ぬくもりこどう
「じゃあ気をつけてね。」
「それはヒナよ。もし痴漢とかされたら大声上げるんだよ。わかった?」
「心配しなくてもいいよ。それよりも早く帰らないと道場に遅れちゃうよ。また明日ね。」
花梨ちゃんと改札口で別れて階段を昇る。
ケータイにイヤホンを挿してお気に入りのJ-POPを流す。
去年の秋に映画の主題歌としてリリースされた曲で、歯痒い女の子の心情を歌った歌で今のお気に入り。
理由は言わずもがな。
二回目のイントロが流れ始めたところで、遠くからベルが聞こえてきた。
ボリュームを少し下げてカバンを持ち直した時、ゆっくりと電車が駅に入ってきた。
そして入口で止まった電車の中を見て、早くも私は花梨ちゃんと一緒に行動しなかったことを後悔した。
電車の中は既に人がたくさん乗っていて、多少この駅で降りる人がいるとしても乗車率が高くなることが見えていた。
後ろにも人がいるし、時間帯を考えれば、次の電車を待っても結果は目に見えていた。
私はため息を飲み込んで、人波に身を任せて電車に乗り込む。
そして再び後悔した。
電車の中は外から見るよりも混雑していてあっという間に反対側のドアまで飛ばされてしまった。
思わずため息をついたとき、シトラスが香り、胸が高鳴った。
紺色の生地に浮かぶ金色の装飾ボタン。
ドキドキを抑えて上を盗み見ると、気だるそうに閉じられた双眸。
あっ、男の人なのにまつ毛ながいなぁ……
まつ毛が長いということを発見したり、垂れ落ちた前髪を鬱陶しそうにかきあげたり、小さな発見でさっきまで感じていた億劫が霧散してしまった。
現金だと思いながらも、私は小さな幸せで、人混みから解放されてしまった。
時間を忘れていると汽笛がなり、ドアがゆっくりと締まり、ホームがスライドしていく。
電車はすぐにホームを置き去りにして、線路を走り抜ける。けれど私は喧騒から世界を切り取って、幸せを噛み締める。
静かに上下する制服を見て、私の胸は早歩きしてしまう。
シトラスの香りが心に染み込んでいく。
もう、私の体はシトラスを幸せ味として染み込んでいる。
唯一の心配は、私の胸の高鳴りが伝わってしまうかもしれないということだけ。
伝わって欲しくない。
けれど、伝わった時の顔が見てみたい。
もしかしたら迷惑そうな顔をされるかもしれない。
もしかしたら気味の悪いものを見るような顔をされるかもしれない。
でも、もしかしたら……
時間の感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
一秒かもしれないし、一分かもしれない。
一秒と一分の違いがわからない。
そんな夢のようで、星のような時間を過ごす私を現実に突き落としたのは、電車のアナウンスでもなく、ケータイの着信音でもなく、私の想像しないものだった。
「………………いやっ」
後ろからスカートを撫でられる感触で私は身体を固めてしまった。
頭の底から湧き上がるような嫌悪感と考えたこともないような感触で、自分の身体が人形になってしまったような気がする。
ゴソゴソ、と聞こえるはずのない布切れ音が身体中に巻き付いてくる。
後ろの上から聞こえる呼吸音が気持ち悪い。
指先が肌に押し込まれる感触が身体を見えない何かで縛り付けてくる。
言葉にできない寒気が身体を凍らせる気がする。
呼吸音と押し込まれる感触が私から自由を奪って、地獄に突き落としていく。
意味のわからない涙が溢れて、身体が無意識に震えだした。
「おっさん、何をしてるのかな。いい年なんだから痴漢なんてするなよ。駅員のところまで一緒に行ってもらうから。文句はないよな」
「君、もう安心していいから。もう駅に着くから心配しなくていいよ。」
何が起こったのか、わからなかった。
でも頭に乗せられた暖かなぬくもりが凍り付いた身体を溶かして、ゆっくりと力が入りだした。
そして自然と視線は上に向いて行って、カレを捉えた。




