第1話 データアニマル
「通称DA法に基づき、あなたに与えられたデータ消去猶予期間、一週間が過ぎました。直ちに消去を実行してください」
夜の天蓋に穴でも開いたような豪雨だった。
私たちはどこか、海底深くに造られたシェルターの中にいて、この緊張と圧迫はその膨大な海水の抱擁によるものだと錯覚せずにはいられない。
「____俺に、母を殺せというのか」
私は網膜ディスプレイに雨による視界不良の改善を指示した。
視路はすぐに若干の彩度を犠牲にして明瞭になる。
____大型ショッピングモールの駐車場。
完全自律運転の車たちが、飛行機の着陸を待つ滑走路のようにハザードを点滅させ、私たちを囲んでいる。
実体を伴わないセールの幟旗もまた、赤いアラートとなって乱立する。まるでこれから進軍でもする、その旗印のようだった。
その赤やら黄色の光が混合し、地面の水溜まりに反射して、どこか熟した秋の景色を思わせる。その幻視の枯葉の上で、抱き合うような親子がいた。
「殺す?いいえ、あなたの母上の人権を回復しなさい、とそう言っているのです」
ミオカ軍曹が指向性音響銃「Cry-graph」に手を掛ける。
「軍曹!!」
私は咄嗟に叫んでいた。
被疑者が軍曹の動きに触発され、ナイフをその手に握る。
そして、およそ人間とは思えない跳躍力で空中に浮かんだ。まるで夜空に空いた穴に帰って行こうとするような、雨滴に逆らうその飛翔。
だが、被疑者はすぐに重力の手綱に引かれて、軍曹の身体へと飛びかかる。
私もまたクライグラフを構えるが、補助照準が「デンジャークロース」を示してトリガーが引けない。
軍曹と被疑者、二つの影が抱き合うように重なる。
震える手をなんとか抑え、私はクライグラフを構え続ける。
トリガーのロックが外れた時、それは軍曹の死を意味している。
私はその死を、今か今かと待つような残酷な心持ちになっていたときだった。
「落ち着け、ニュイ二等兵。さっさと車を呼べ」
ミオカ軍曹の身体が、雨に溶けていくように小さくなる。
軍曹と一つになっていた被疑者が、ゆっくりと地面に滑り落ちていった。
血が、重く広がっていく。
警告を示す赤いライトの反射に比べれば、輝度が低いその色。だからこそ、それは本物だった。
彼はこの世界の圧迫に負けたのだ。だから、大木から外されたように、ああして地面に横たわることになったのだと、私は彼が届き得なかった空を見上げる。
雨滴は見えないのに、顔は濡れていく。
『コンセントレーション解除。負傷なし。心拍数190を超えています。フレンドリーモードに移行。。。ニュイ、あんた何もしてないのに、なんでそんなぜぇぜぇしてるわけ?』
「初任務なんだから仕方ないでしょ、お姉ちゃん」
『任務って言える?やったの全部、ミオカ軍曹じゃん』
被疑者確保のために投影情報を制限していた網膜ディスプレイが、通常のモードに移行する。
見上げた月の端に、「満月まであと十一日だよ!」と、呑気に解説が付与されていた。
「あ~あ、今日デートだったのに。また化粧しないと」
『またいつもの厚化粧?あれやめたほうがいいよ、能面みたい』
「_____うっさい」
私は遠隔で呼び出した軍の車両が来るまで、ミオカ軍曹のことをじっと見ていた。
____私のバディ。
黒髪はショートカットにして、一切の華美のない、シルクに顔を押し付けて型を取ったような無表情。
私はまだ、彼女のことを何も知らない。
▲▽
「もう無理、別れる」
「なんでそんなこと言うんだよニュイ!俺は何もしてないだろ?」
「何もしてないからでしょ!」
「お前、疲れてんだよ。ただ見逃しただけじゃんか」
「疲れてる?疲れてる私が悪いって言いたいんだ、ごめんね任務終わりで、汚い手で来て、もう帰るから」
「だから、気づかなかったって言ってんじゃん。お前、最近おかしいよ」
「お前って言わないでっ!!」
最悪だ。
任務後の事務作業をして、自宅に戻り、着替え、彼が迎えに来てくれたときはもう二十二時を過ぎていた。
こんなことになるくらいなら、今日はもう休んで、明日の朝に合流すればよかった。
一秒でも長く一緒にいたい、休日は目を覚ましたときから一緒がいい、そんな乙女らしい思いが、この悲劇を招いたのだ。
三百戸以上ある軍専用のマンション、そのロビー。
私は彼の姿を見たとき、嬉しさから駆け付け、その手を握ろうと腕を伸ばした。
だが、彼は____
「よし、食材でも買ってから行こうぜ」
私の伸ばした手を、彼は簡単に無視した。
私だって分かっている。ただ見えなかっただけだと、手を繋いで欲しいといえば、すぐに答えてくれることも。でも、この押しつぶされてしまいそうな孤独感は、彼の背中に感じた哀しみと悔しさは、全て私のせいなのだろうか。全部、私が悪いんだろうか。
____人間は嫌いだ。
私に不快を与えないでいられる人なんてこの世にいない。
それは鍋に入れられた豆腐を、どうやっても崩さないで食べることができないのと一緒だ。だから私は、悪いのは全部、自分よりも固い何かでできている他人ということにせざるを得なかった。
全ての人間がごちゃまぜの、この闇鍋のような世界に、私は耐えられない。
「別れる、、、もう無理だ、疲れた」
「ちょっと待てよ、おい!おまえ勝手すぎんだろ」
「勝手な女なんだから、別れてせいせいするじゃん。ちょっと、離してよ!」
「お前、、、病院行った方がいいよ、おかしくなってる」
「病院?それで私がおかしいって分かれば満足!?生憎、自分の頭がおかしいのなんて、昔から分かってんだよ!てめぇの方が病院に行けよ!この、、、ストーカー!」
「ストーカーって、、、俺、一応彼氏なんだけど、、、」
私は自分の意志を無視して流れる涙を拭いながら、すでにこちらに向かって歩いてきている警備兵に声をかけようとしたときだった。
「痴話喧嘩なら他所でやれ、迷惑だ」
私は最初、その降り始めた雪片のような、小さく脆い声が誰のものか分からなかった。いつからそこに居たのか、その女性は軍服をきちんと着て、まるでこれから任務に赴くかのようだった。
「____ミオカ、、、軍曹?」
「他に何に見える?____そこの男、残念だが場が悪い。ここは軍の敷地だ。この馬鹿女が悪いとしても、ここでは貴様の言い分は通らない。一度帰ることをお勧めする」
ミオカ軍曹は、腕組みをしながら、軽く片方の眉を上げた。
被疑者に応対するのとは違う、どこか親密さを感じさせる所作だった。
無論、その親密さは、私に向けられたものではない。
「、、、ご迷惑をおかけしました。____ニュイ、ごめんな。今度またちゃんと話そう。その時は落ち着いて、な」
「私はいつでも落ち着いてる!あんたがっ!私の心を落ち着かなくさせるんでしょう!?二度と会わない!絶対に!」
上官でありバディでもあるミオカ軍曹がいるにも関わらず、私の心は自分が受けた痛みを人に伝えたくて仕方なかった。
「おい、ニュイ二等兵。お前は黙ってこっちに来い」
ほとんど引きずられるようにしながら、私はエレベーターへと放り投げられた。
▲▽
九月に新卒でオーウ技術連合自治軍に入隊してから、半年。
私の部屋に来たのは、ミオカ軍曹が初めてだった。
他人を自分の領域に入れることには抵抗があったはずなのに、なぜか、軍曹は大丈夫なようだった。
任務のときと違い、どこか存在が希薄なような、そんな気がしていた。
「あの、、、先ほどは、、、」
私はようやく、事態の深刻さ、気恥ずかしさに気付ける程度には冷静になっていた。
そして、まずは謝罪を、と思ったときだった。
「ニュイ二等兵、私に言いたいことがあるだろう」
ミオカ軍曹は本棚の背表紙を眺めながらだった。
その本棚は実際には存在しない。あくまで網膜ディスプレイに映写された、私の電子書籍購入履歴データだ。心理関係の書籍がずらりと並べられている。
漫画なんかは念のためクローズ設定にしていてよかったと、軍曹を部屋に入れたあとに安堵した。
「言いたいこと、ですか?」
「あぁ、そうだ。これからバディを組むにあたって、すり合わせは必要だ。ちなみに残業代は出ない。痴話喧嘩を治めた見返りだ」
任務のときは思わなかったが、ミオカ軍曹は多くの日本人と同様、年齢よりも非常に幼く見えた。まだ二十四、五のはずだが、十代にしか見えない。
比べて私は、父がアメリカ人、母が日本人のダブル、年齢よりも老けて見える。
傍目には階級と見た目がちぐはぐだった。
「残業代はいいですけど、、、あの、、、本当にいいんですか?」
「あぁ、確認は一度以上するな。私が良いと言ったら良いんだ」
「でしたら、、、あの、、、ミオカ軍曹。今日の任務、軍曹のミスだと思います」
「要点を話せ」
私は飲みのもでもお出しすべきかどうか、若干の居心地の悪さを感じながらも、まずは話してしまおうと思った。
「第一に、敵対行動や逃避行動、そのどちらもまだ見られていないのに銃に手をかけたこと。あれは挑発的行為です。そして、軍曹はあえてけしかけ、被疑者に負傷を負わせた、これが二つ目のミスです」
そう。
あれは明らかに軍曹の意図的なミスだった。
報告上は、データ消去を拒んだ被疑者が軍曹を襲ったことにした。
だが、実際に最初に動いたのは軍曹の方だ。
「そうだ。存外冷静だな、二等兵」
「私にも落ち度はあります。心理専門兵として、彼を1週間のうちに説得できなかった。これは未熟ゆえです。ですが、、、あれではあまりにも」
「二等兵は、データアニマルを人間だと思っているのか?」
データアニマル。
通称DA。
AI技術と、生体科学の結晶。
生前の人間そっくりの存在を仮想上に生み出す技術。
購買活動や日々の会話を含め、人間のありとあらゆるデータは保存され、そこに遺伝子情報なども加えて生み出されるデータアニマルは、触覚と嗅覚を除けば与える印象は故人そのものだ。
「はい。私はこの、データアニマルという呼称は、非人権的だと思います。彼らには思考がある。行動もできる。そこに生まれるのは心です」
「だが、彼らは人権を蹂躙した上で成り立っている存在だ」
軍曹の指摘は正しい。
もし仮に、故人が己に関するデータの全ての利用を許諾したとして、その許諾の範囲はどこまで適用されるか、ということが最も大きな問題だった。
これは、故人AIサービスが開始した2010年代から続く論点であり、100年以上経った今でも解決されていない。
「私は、、、データアニマルは、故人とは関係のない、新たな別個体の存在だと、そう思っています」
「親子理論か」
「はい」
親子理論。
それは故人とデータアニマルを親子関係になぞらえる考え方だ。
所与の遺伝子情報、記憶は同一なものの、そこから先は偶然性が絡む。
同じ人間でも、無限の岐路の先では、全くの別人になっている。
どんなに思考パターンをトレースできたとしても、ある日のじゃんけんでグーを出すか、パーを出すかまでは同じ結果にならない。実際には、現在のデータアニマル技術では、じゃんけんの一致率は9割を超えるらしいが、それでも、1割は外れるのだ。その1割が、人生のゴールに近づけば近づくほど、大きな違いになっている可能性は高い。
親が子を自分と同一視しないのと同様、故人とデータアニマルも別個体である。
そう考えるのが、親子理論だ。
「知ってるか?データアニマルのほとんどは、通常、1年も経たない内に作成者の下を離れ、オープンデータとして世界を遊泳し始める。恋人関係も、夫婦関係も、親子関係も、友人関係も、全ては変遷する。逃れられない飽きがくる」
その言葉は、今さっき恥を晒した私には耳に痛い。
「そして、最も問題なのは、多くの場合、作成者はデータアニマルを故人と同一視できなくなる。細かい差異は、親密であればあるほど、大きなものに感じる。あるいは、違いなど全くなくとも、それを勝手に産み出し、痛烈に感じるよう自分に仕向ける。そして、それは作成者を故人への哀悼に向かわせる。結果、データアニマルは寄る辺を失う。これが人権侵害でなくて、なんになる」
ミオカ軍曹からメッセージが届く。
それは次の任務の情報だった。
※
データアニマル名:スズカ
違法作成者:レンマ
宮城県警サイバーエリア特別捜査課より、DAによる売春の可能性ありとの報告。
すでに作成者の身柄は確保。
DAとは1年以上前から連絡を取っていない。
仙台市内を中心に売春行為を行っていると思われる。
※
「このスズカという女性だが、生前は品行方正だったそうだ。故人から見て、今のDAとなった彼女は、自分の人権を蹂躙してると、そう思うんじゃないか?」
「それは____趣味が悪いんじゃないですか、軍曹。この任務ありきで、今の議論をふっかけたんでしょう?」
「趣味が悪いのは、お前の彼氏だ。DAの人権は声高に主張するくせに、彼氏の言葉には耳を貸さない。よくいるインテリ左派連中と同じだ。普遍的な論を展開するくせに、一個人は蔑ろにする」
「なっ!あなたも私の敵なんですね、軍曹」
「バディなんて、味方と思ってるより、敵同士だと思ってる方が、存外上手くいくものだ」
「っの野郎!!!」
「あと下着の趣味も悪いな。なんだこれ、お前の就職先は国分町か?」
網膜ディスプレイに展開された資料を見るのに集中しすぎて、軍曹が私の外泊用バックを漁っていることに気づかなかった。
「あああああああああっ!それは今回こそ処女を捨てるときに着ようと_____なんでもないです」
「は?二等兵、貴様、処女なのか?」
「______黙秘します」
「次の任務、成功する気がしないな」
「なんでですか!経験がなくても共感することはできますから!たとえ経験がなくてもっ!見てください、この少女漫画の蔵書の数々を!!」
私はクローズになっていた漫画の購入履歴を開示する。
その数はゆうに千冊を超えていた。
あの鉄仮面の軍曹が、ちょっとだけよろめくのを見た。
「見てください、例えばこの『心だけは貴方のモノ』!これは名作ですよ!映画化もドラマ化もされました。戦後の貧困で身体を売るしか身を立てる手段がなかった少女が、敵兵の男と恋に落ちるっ!それでも、彼女はその男と結婚する道を捨て、娼婦として登りつめる。これはいいですよ。娼婦だからといって、哀れむのは違うんです。それもまた、自己実現の1つなんですよ!軍曹に友人レンタルしときますね、あ、実写映画版は駄目なんで、ドラマと漫画を」
「お、おぉ」
「次の任務まで見といてくださいね!絶対ですよ!それとも今から一緒に見ます?明日の休み、予定なくなっちゃったんで」
「いや、いい」
軍曹は私の手に、掘り出した派手な下着をそっと手渡して、それから部屋を出て行った。
「絶対見てくださいよ!!」
私は叫ぶように、その背中に言う。
軍曹は答えず、頭を傾げながら、
「、、、面倒くさい奴だな」
と、置き土産のように溢していった。




