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スラムの少女


 

 バルドとの修練を終え、ハロルドは王都ゲルマニアの街へと足を運んだ。

 

 太陽が西へと傾き始め、石畳の通りには長い影が伸びている。戦場とは違い、この街には血も泥もない。だが、それは単に見えないだけであって、ここにも別の形の戦いがあるのだろう。

 

 **「赤熊亭」**の重い木製の扉を押し開けると、中はすでに賑わっていた。

 

 兵士、商人、労働者たちが一堂に会し、酒を酌み交わしている。笑い声が飛び交い、誰かが吟遊詩人に小銭を渡していた。詩人は琵琶を爪弾きながら、古の英雄の物語を歌っている。

 

(英雄か……)

 

 ハロルドはカウンターに座り、酒を注文した。

 

 「ハロルド! 今日も稽古か?」

 

 馴染みの酒場の主、グスタフが笑いながら酒瓶を置く。壮年の彼は元兵士で、今はこうして戦場帰りの兵士たちの憩いの場を守っている。

 

 「ああ……やらなきゃ、すぐに鈍るからな」

 

 ハロルドは苦笑しながら杯を傾けた。酒は喉を焼くように熱いが、それが戦場の緊張を和らげてくれる。

 

 「で、何か面白い話は?」

 

 グスタフは腕を組んでニヤリと笑う。

 

 「そうだな……バルドにしごかれた話を聞きたいか?」

 

 「お前がしごかれるなんて珍しいな」

 

 「やつの剣は、重いんだよ」

 

 ハロルドは肩をすくめながら、バルドとの訓練を思い出した。

 

 (強くなりたい……そう思うのは当然だが、俺は決して英雄になれるわけじゃない)

 

 バルドやエリックといった優れた兵士がいて、そして何より、この世界には本物の英雄がいる。

 

 そのことを考えるたび、自分の限界を意識せざるを得なかった。

 

 「……なあ、グスタフ。戦争はいつ終わると思う?」

 

 酒を飲み干した後、ハロルドはぽつりと呟いた。

 

 グスタフは黙ってしばらく考え、そして短く答えた。

 

 「兵士がいる限り、戦争は終わらねえよ」

 

 それは、あまりにも現実的な言葉だった。

 

 ハロルドは苦笑しながら、もう一杯を注文した。

 

 戦場では兵士、街ではただの男。

 

 それが、凡人ハロルドの生きる道だった。

 

 

 

 

 

 赤熊亭を出ると、夜の冷たい空気が肌を刺した。

 

 王都ゲルマニアの華やかな街並みも、裏通りへと進めば様相が一変する。

 

 人々が行き交う石畳の大通りを抜け、暗くじめじめとした路地に入る。そこは王都の影とも言える場所——スラム街だった。

 

 貴族や商人たちが見向きもしない場所。物乞いと浮浪者、無法者がひしめく闇の街。

 

 ハロルドは別にスラムに用があったわけではない。ただ、酔いを冷ますために街をぶらついていただけだった。

 

 だが——

 

 「……ッ、う……」

 

 微かな呻き声が聞こえた。

 

 足を止め、路地の奥へと目を向ける。そこには、瓦礫の間に倒れた小さな影があった。

 

 ハロルドは警戒しながら近づいた。

 

 少女だった。

 

 年の頃は十歳前後か。薄汚れたボロ布のような服をまとい、全身には無数の傷があった。顔の左側には醜く腫れ上がった痣があり、片目がうまく開かない。血の気の引いた唇が震え、弱々しく呼吸をしている。

 

(これは……酷いな)

 

 殴られたのか、蹴られたのか。それとも、もっと酷い目に遭わされたのか。

 

 ハロルドは膝をつき、少女の様子を確認した。

 

 「おい、大丈夫か?」

 

 少女は反応しない。かすかに息をしているが、意識はほとんどないようだった。

 

 (放っておけば死ぬな……)

 

 王都のスラムでは、こうした光景は珍しくない。弱者は蹂躙され、価値のない命は容易く捨てられる。それがこの世界の現実だ。

 

 だが——

 

 「……クソ」

 

 ハロルドは少女を抱え上げた。

 

 

 

 

 ハロルドの部屋は、王都の外れにある古びた宿屋の一室だった。兵士の給金では贅沢な暮らしはできない。

 

 少女をベッドに寝かせ、手早く水と薬草を用意する。戦場では傷の手当ては日常茶飯事だ。兵士としての経験が、こういう場面で役に立つとは思わなかったが。

 

 「痛いかもしれんが、我慢しろよ」

 

 軽く濡らした布で、少女の顔の傷を拭う。すると、ピクリと細い指が動いた。

 

 「……ぅ……」

 

 少女がかすかに目を開けた。

 

 「目が覚めたか」

 

 ハロルドが声をかけると、少女は怯えたように身を縮めた。

 

 「お前をどうこうするつもりはない。ただ、お前は死にかけてた。それだけだ」

 

 そう言って、包帯を巻きながら様子をうかがう。

 

 少女はじっとハロルドを見つめた後、小さく呟いた。

 

 「……なんで、助けたの……?」

 

 ハロルドは言葉に詰まった。

 

 なぜ——か。

 

 それは自分でも分からなかった。ただ、戦場で何度も死を見てきた。無残に倒れる仲間たちを、幾度となく目にしてきた。

 

 (せめて目の前の一人くらい、救ってもいいだろう)

 

 それだけのことだった。

 

 「……そんなもん、気まぐれだよ」

 

 少女はしばらくハロルドを見つめていたが、やがて目を閉じた。

 

 傷ついた体が疲れ果て、再び眠りに落ちる。

 

 ハロルドはため息をつき、椅子に座った。

 

 明日になれば、少女の体調も少しは回復するだろう。その時になったら、名前くらいは聞いてみるか——

 

 そう思いながら、ハロルドはランプの灯を落とした。

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