修練
王都ゲルマニアの朝は、冷たい空気に満ちていた。石畳の通りには、まだ夜明けの名残が残り、露店の商人たちが忙しなく準備を進めている。焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、広場では吟遊詩人が竪琴を奏でながら人々を楽しませていた。
この都市の人々にとって、戦争は遠いものだった。
ハロルドは、それが不思議でならなかった。
彼はこれまで、数え切れないほどの戦場を経験してきた。矢が飛び交い、剣が肉を裂き、泥にまみれて生死を賭けて戦う日々。戦友が倒れ、血が大地を染め、腐臭が鼻をつく。だが、ここにはそんな死の気配はどこにもない。
(この街の連中は、戦場の現実なんて知らないんだろうな……)
華やかな衣装をまとった貴族たちが優雅に馬車へ乗り込み、平民たちは戦争のことなど考えずに今日の生計を立てている。彼らにとって、戦争は遠い異国の出来事であり、戦場で死んでいった兵士たちのことなど、何の関係もない。
だが、自分は違う。
昨夜の酒場で聞いた「黒騎士」の話が頭を離れなかった。
(あんな化け物と戦場で出会ったら、俺なんか一瞬で死ぬ——)
何度も死線を越えてきた。だが、それはただ運が良かっただけかもしれない。自分の剣は、あくまで「生き延びるため」のものであって、敵を圧倒する力ではなかった。
そんな考えが、頭の片隅にこびりついて離れない。
(俺が今まで生き残れたのは、剣を振るう技術があったからだ……だが、それだけでこの先も生き延びられる保証はない)
「生きるため」ではなく、「死なないため」に戦ってきた。
だが、それでいいのか?
戦場では「死なない」ことだけを考えればいいかもしれない。しかし、戦争が続く限り、戦いは終わらない。逃げ続けるだけでは、いずれ限界が来る。
(なら、どうする——)
「……強くなるしかない」
ハロルドは呟き、決意を胸に訓練場へ向かった。
ゲルマニア王国の訓練場は、城壁に囲まれた広大な敷地にあった。石造りの門をくぐると、そこには大小さまざまな訓練用の演習場が広がっている。剣士のための模擬戦場、槍兵の演習場、弓兵の射撃場、さらには騎士たちが馬を走らせる練習場まで備えられていた。
周囲の壁には、過去の戦功を讃えられた騎士たちの名が刻まれている。この場所は、王国の戦士たちが己を磨くための聖地のようなものだった。
すでに多くの兵士や剣士見習いが訓練に励んでいた。木剣を交えながら技を磨く若者、黙々と斬撃を繰り返す熟練の兵士、そして戦場帰りの歴戦の猛者たち——それぞれが己の目的を持ち、この場で鍛錬を積んでいた。
ハロルドは場内を見回し、訓練用の木剣を手に取った。
(俺には、剣技スキルがある……だが、それだけじゃ不十分だ)
戦場で生き延びるためには、スキルだけではなく、地力を鍛えなければならない。
「おい、そこのお前」
突然、背後から野太い声が響いた。振り向くと、鍛え上げられた体躯をした中年の剣士が立っていた。
「お前、新入りか?」
「いや、ただの兵士だ」
「ほう、じゃあ何しに来た? ここは剣を学ぶ場所だが……」
その男はハロルドの全身をじろりと見た。
「お前、剣技スキルを持っているな?」
ハロルドはわずかに目を細めた。
(……ランクまでは見破られていないか)
剣技スキルを持っているかどうかは、動きや立ち居振る舞いを見ればある程度わかるものだ。しかし、スキルのランクまでは、実際に戦ってみなければ判断できない。
「……まあな」
「ふん、戦場帰りの兵士が、剣の腕を鍛えたところでどうなる?」
その言葉に、ハロルドは少し考えた後、答えた。
「俺は今まで、『死なないため』に剣を振るってきた。だが、それだけじゃダメかもしれないと思い始めたんだ」
中年の剣士は一瞬驚いたようだったが、すぐにニヤリと笑った。
「ほう……面白いことを言うじゃねえか。だったら、少し手合わせしてみるか?」
「……頼む」
演習場の一角で、ハロルドとその剣士は木剣を構え、向かい合った。
周囲には他の兵士や訓練生たちが集まり、興味深そうに見守っている。
「俺の名はバルド。元々は王国騎士団にいたが、今はこうして訓練場で剣を教えている」
「ハロルドだ。ただの兵士だ」
「いいだろう。手加減はしねえぞ」
バルドは構えを取ると、次の瞬間——
「!」
ハロルドは驚いた。バルドの動きが、思ったよりも速い。
「くっ!」
咄嗟に木剣を構え、バルドの斬撃を受け止めたが、重い衝撃が腕に走る。
(こいつ……強い!)
自分は何度も戦場を生き抜いてきた。それなりに剣は振れる自負がある。しかし、目の前の男は、その経験を軽く凌駕していた。
「どうした? もっと来いよ!」
ハロルドは歯を食いしばりながら、反撃に出る。
スキルを意識しながら、斬撃を繰り出す。しかし——
「甘い!」
バルドはあっさりと受け流し、ハロルドの腹に木剣を叩きつけた。
「ぐっ……!」
ハロルドは膝をつく。
「どうする? このまま帰るか?」
ハロルドはゆっくりと立ち上がり、木剣を構え直した。
「……もう一度、頼む」
バルドは満足そうに笑い、再び構えを取る。
「いいぜ。お前が倒れるまで、何度でも付き合ってやるよ」