戦場へ
夜風が冷たく肌を刺した。
リナとオーウェンは王都を離れ、戦場へ向かう道を急いでいた。
背後では、燃え盛るスラムの残骸がまだ煙を上げている。
(燃えて当然……)
リナは自分にそう言い聞かせた。
あの場所には何の未練もない。自分を苦しめた連中がいたし、生きるために殺しを強要された場所でもあった。
それなのに——
(どうして、こんなに心がざわつくの?)
リナは無意識に拳を握りしめた。
スラムの炎を見た瞬間、あの男の顔が脳裏に蘇った。
——「仕事」だ、やれ。
——失敗したら、お前が死ぬんだぞ。
かつてリナを「使っていた」大人たちの声が、耳の奥で響く。
目を閉じると、血の匂い、短剣の冷たさ、小さな体で大人を仕留める感触が蘇ってくる。
彼女は、ただの被害者ではなかった。
スラムで生きるために、他人を殺すことを強いられていた——
「……リナ?」
オーウェンが不安そうに顔を覗き込んだ。
「何でもないわ」
リナは感情を押し殺し、歩みを進める。
(戦場なら、私の居場所がある……)
戦うことに迷いはない。
戦えない者は死ぬ、それがリナの生きてきた世界だった。
戦場は、ひとまずの静寂を迎えていた。
ゲルマニア軍は布陣を立て直し、敵の反撃に備えている。
ハロルドは剣を研ぎながら、次の戦闘に備えていた。
(剣技E……確かに強くなった)
それでも、上には上がいる。
Cランク以上の騎士たちにはまだ歯が立たない。
自分はまだ、凡人の域を出ていないのだ。
「ハロルド!」
ロバートが駆け寄ってきた。
「王都から避難民が流れてくるらしい」
「……王都?」
「ああ。スラムが焼き払われたそうだ」
ハロルドの眉が動いた。
(スラムが……?)
ハロルドの脳裏に、王都で別れたリナの姿が浮かぶ。
「……リナが」
彼女は無事なのか。
ハロルドは胸の奥に妙な不安を覚えた。
(まさか、戦場に向かっている……?)
嫌な予感がした。
戦場にいる限り、人は必ず戦いに巻き込まれる。
——リナが戦場に来れば、彼女もまた、戦うことになる。
(リナ、お前は……)
ハロルドは剣を握りしめた。
(本当に、それを選ぶのか?)
リナとオーウェンは、戦場へと続く街道を歩き続けていた。
夜が明け、東の空に赤みが差し始める。だが、その景色を楽しむ余裕はない。
「はぁ……はぁ……。リナ、ちょっと休まないか?」
オーウェンが息を切らしながら言った。
「休んでる暇はないわ」
リナは足を止めることなく進み続ける。
スラムでの生存経験があるとはいえ、長距離の移動はオーウェンにとって辛かった。
「そ、そもそも、どうして戦場に行くんだよ……!? 王都に留まる方が安全だったんじゃ……」
オーウェンは必死にリナを説得しようとしたが、彼女は首を横に振った。
「安全? あの場所が?」
スラムが燃やされ、貴族が気まぐれに人を殺す場所を、“安全”とは言えない。
「私は戦える。だから、戦場に行くのよ」
リナは静かに言った。
「でも……!」
「ついてこられないなら、ここで別れる?」
冷たい口調に、オーウェンは息を呑んだ。
リナの目は、ただ前を見据えている。
(……この子、本当に戦うつもりなのか?)
オーウェンは無言でうなずき、彼女の後を追った。
「敵軍が動いたぞ!」
兵士たちの怒号が響く。
バジルス軍の部隊が、ゲルマニア軍の陣地へ向かって進軍を開始した。
ハロルドは剣を手に取り、陣地の前線へと向かう。
「ロバート、敵の規模は?」
「前哨部隊だ。だが、油断するな」
ハロルドはうなずいた。
剣技Eを手に入れた今、自分がどこまで通用するのか試すには十分な相手だった。
「各隊、迎撃準備!」
軍号が響き、ゲルマニア兵が陣を組む。
そして——
「……ん?」
戦場の入り口、街道の先に、人影が見えた。
ボロボロの外套を羽織り、剣を腰に差した小柄な影。
「まさか……」
ハロルドは目を見開いた。
リナだった。
「おい、あれ……女の子か?」
「なぜ、こんな場所に……?」
兵士たちがざわめく中、リナは迷うことなく歩みを進め、ゲルマニア軍の前に立った。
「——ハロルド」
リナの目は、迷いのない戦士のそれだった。
(……本当に戦うつもりなのか)
ハロルドは剣を握る手に、わずかに力を込めた。