スラム崩壊
王都の夜が静寂に包まれるなか、一人の男が重々しい声で命令を下していた。
「……スラムに火を放て」
貴族街の一角にある豪奢な屋敷。
そこに座するのは、この国の有力な大貴族の一人、ヴァルター・フォン・エーベルハルト。
「スラムに逃げ込んだ小娘の始末が目的ですが……」
部下が言いかけたが、ヴァルターはそれを遮るように言った。
「奴はただの小娘ではない。見たものを口外すれば、我が家の立場に関わる」
「ですが、スラム全体を焼くとなると、反発も——」
「ならば、大義を与えてやればいい」
ヴァルターは冷たく笑った。
「スラムは、犯罪と疫病の温床だ。王都の秩序を守るための浄化作戦……そう公表すれば、誰も咎めはせん」
「……承知しました」
ヴァルターは、窓の外に目を向ける。
「これで終わりだ、小娘」
王都の片隅で怯える少女など、貴族にとっては蟻を踏み潰すのと同じだった。
「……リナ、お前、今から男になれ」
「……は?」
リナは困惑した顔でオーウェンを見つめた。
「……ちょっと待って、どういうこと?」
「説明してる時間はねぇ。いいから、これを着ろ」
オーウェンは、リナに古びた男物の服を投げ渡した。
リナは戸惑いながらも、それを受け取る。
「ちょっと待って、私は女——」
「知ってる。だが、お前の顔立ちはまだ中性的だ。短髪にして、汚れた服を着れば、男のガキに見えなくもねぇ」
「……そんな簡単に?」
「スラムで生きてる連中はな、他人の顔なんていちいち覚えちゃいねぇんだよ」
オーウェンはナイフを取り出すと、リナの髪を無造作に切り落とした。
「っ……!」
長年伸ばしていた髪が、床に落ちていく。
(……私は、女でいることすら許されないの?)
だが、リナは何も言わなかった。
このままでは、生き残ることすらできない。
「これでよし……次は顔だ」
オーウェンはスラムの泥を手に取り、それをリナの顔に塗りつけた。
「ちょっ、汚い……!」
「綺麗な顔してたら、すぐにバレる。ガキの浮浪者になりきれ」
リナは唇を噛んだ。
「……わかった」
「よし……これで“リナ”は死んだ」
オーウェンは不敵に笑った。
「今からお前は、リーンって名前の男だ。しばらく、そのつもりでいろ」
「前進! 前進しろ!」
怒号と剣戟の音が響き渡る。
ハロルドは泥まみれになりながら剣を振るっていた。バジルス王国との小競り合いは、想定以上に激化していた。
敵兵が斧を振り下ろしてくる。
(見える……!)
体をひねり、ギリギリで回避する。以前の自分ならまともに受けていたはずだが、今は違う。
剣技Eへと昇格したことで、敵の動きを読む力が向上したのだ。
「はあっ!」
剣を横薙ぎに振るい、敵兵の首元に刃を滑らせる。血が飛び散り、敵が崩れ落ちる。
「ハロルド! 右から来るぞ!」
ロバートの叫びが聞こえる。
即座に防御の構えを取り、迫る槍を弾いた。続けざまに踏み込み、敵兵の胸を貫く。
(今の俺は、確かに戦えている……)
だが、余裕はなかった。剣技Eはまだ凡人の域を出ていない。戦場で生き残るには、さらなる成長が必要だった。
スラムが焼かれていく光景を、リナは無表情で見つめていた。
崩れ落ちる家、逃げ惑う人々、悲鳴と怒号。
地獄のような光景だった。
(ああ、やっぱり……)
胸の奥が、ひどく冷えていく。
あそこは彼女の生まれ育った場所だった。虐待され、飢えに苦しみ、殺しを強要された記憶のある場所。
だが、同時に——
(私を「普通の人間」として扱ってくれた人たちも、少しはいた)
それさえも、今や灰燼に帰そうとしている。
「……行くわよ、オーウェン」
「……リナ、大丈夫か?」
「大丈夫」
そう答えたが、自分でも何が「大丈夫」なのか分からなかった。
(ただ……怒りだけは、まだ抑えられる)
リナは即座に行動に移った。
彼女はまだ中性的な顔立ちをしている。それを利用して、男の子のように変装した。
オーウェンはそれを見て、驚いた表情を浮かべたが、何も言わなかった。
「これなら、不審に思われにくいでしょ?」
「ああ……だが、慎重になれ」
二人は人混みに紛れながら、市場を抜け、城門へと向かう。
貴族の兵士たちは、スラムの焼き討ちに集中しているため、城門の警備が手薄になっているはずだった。
(……この隙に、抜け出す)
だが、リナは気づいていた。
(貴族の奴らは、私みたいな”出来損ない”のことなんて気にも留めていない)
それが、無性に腹立たしかった。
そう思いながらも、リナは冷静に歩みを進めた——。