狙われたリナ
リナは走っていた。
追われている。
それは、本能が告げる確信だった。
市場の雑踏をかき分け、人々の間をすり抜ける。だが、背後の黒ずくめの男たちもまた、慣れた動きで彼女を追っていた。
(くそっ……!)
王都の市場は広い。逃げ道はいくつもある——だが、それは追う側にとっても同じだ。
リナは知っていた。
この手の連中は、しつこい。
一度目をつけられたら、最後まで追ってくる。
「そっちへ行ったぞ!」
男の怒声が響く。
人々がざわめき、リナを一瞬だけ注視するが、すぐに無関心に戻る。
王都に住む者たちは、**「余計なことに関わらない」**という鉄則を知っていた。
リナは歯を食いしばった。
(スラムへ……スラムに戻れば、道を知ってる)
王都の衛兵はスラムには踏み込まない。犯罪が日常であり、**「王都のゴミ溜め」**として放置されている場所だからだ。
追手が平民の身分なら、スラムに入るのは躊躇するはず。
リナは路地へと飛び込み、建物の間を駆け抜けた。
だが——
「……ちっ、知ってやがるな」
背後から冷たい声がした。
(なっ……!?)
リナは背筋が凍った。
男たちは追ってこない——代わりに、別の者たちが動き始めた。
スラムには、こういう「役割」の連中がいる。
「おい、お嬢ちゃん」
目の前に立ちはだかったのは、スラムの住人ではない。
貴族の紋章をつけた黒衣の男だった。
(貴族……!? どうして……?)
その疑問は、すぐに解けた。
「王都の平民が、貴族様の仕事を邪魔するとはな……」
男が一歩近づく。
「お前のような小娘でも、消しておかねばならん時がある」
リナの足が、すくんだ。
これは、スラムのチンピラやならず者とは違う。
目の前の男は——
**「殺すことに慣れた者」**だった。
リナは息を呑んだ。
王都の貴族たちは、表向きは気品を纏った者たちだ。
だが、その裏側では、ありとあらゆる非合法な取引が行われている。
・奴隷売買
・密輸
・毒薬の取引
・違法な実験
リナが目撃したのは、単なる「市場の闇取引」ではなかった。
これは——**「貴族そのものの暗部」**だ。
だからこそ、彼らは「目撃者」を見逃さない。
「……どうする?」
男が問いかける。
まるで、リナ自身に「死に方を選ばせる」ような口調だった。
リナの喉が、乾く。
(こんなの……助からない……)
スラムの住人が何人消えようが、誰も気にしない。
ましてや、貴族が関わる問題ならば、王都の衛兵ですら手を出さない。
(そんな……こんなの……)
——その時だった。
「へぇ、貴族様がこんなところで遊んでるのか?」
低く、乾いた声が響いた。
リナは驚き、男たちが振り向く。
そこに立っていたのは、一人の男。
スラムでは有名な存在——
**「オーウェン」**だった。
オーウェン。
彼はスラムに根を張る“情報屋”であり、時には傭兵、時には暗殺者、時には裏商人としても動く。
権力は持たない。だが、スラムにおいては、彼の知らぬ情報はないと言われるほどの存在だった。
「ほう……?」
貴族の男は、わずかに目を細める。
「スラムのゴミが、貴族に口を出すのか?」
「さぁな」
オーウェンは肩をすくめる。
「ただ、このガキは“借り”があってな。勝手に消されると困るんだよ」
リナは混乱した。
(借り……?)
オーウェンと面識はない。だが、彼はまるで当然のように、彼女を庇っている。
「……ふざけるな」
貴族の男は舌打ちし、鋭い視線をオーウェンに向けた。
「お前ごときが、この件に口を挟むな」
「お前ごとき、か」
オーウェンはポケットから短剣を取り出し、軽く回した。
「ま、確かに。俺は貴族様とは違って、何の地位もない男だ」
だが、と彼は不敵に笑う。
「ここはスラムだぜ?」
「……」
「お前ら貴族様が、ここで何をしようが構わねぇ。だがな——スラムに住む連中が、どう動くかは別の話だ」
彼が指を鳴らす。
すると、路地の陰から複数の男たちが現れた。
皆、一様に無言だったが、その視線は鋭い。
「……ちっ」
貴族の男は舌打ちした。
スラムの住人たちは、普段は貴族に従わない。だが、それでも「暗殺の標的」となることを恐れていた。
だが、オーウェンは違う。
彼は「スラムの秩序を司る影」として、貴族ですら迂闊には手を出せない存在だった。
「……面倒なことになったな」
貴族の男は肩をすくめ、リナを一瞥した。
「……ガキ一人に手間をかけるほど暇ではない」
男は踵を返し、仲間を連れて消えた。
リナは崩れ落ちるように、その場に座り込んだ。
「……助かった……?」
オーウェンは短剣をしまい、ふっと笑った。
「まぁな。だが——」
彼はリナの顔を覗き込む。
「お前、随分とヤバいもんを見たな」
「……」
「このままだと、また狙われるぜ?」
リナは、息を呑んだ。
貴族の男が言った言葉——
「お前のような小娘でも、消しておかねばならん時がある」
あれは、「一度きりの警告」ではなかった。
——リナは、このままでは殺される。