第一章 拡声器
・性描写は一切ありませんが、それを示すような表現があります
・女性同士の恋愛描写があります
漫画や小説から想像する性行為と、実際に体感する性行為との間には大きな落差がある。そんなことはわかっていた。
そもそも、私は性に関して完全に無知だったというわけではなかったのだ。コンドームやピルの存在を知っていた。中絶手術がどんなものか、話で聞いて知っていた。無理に膜を突き破らないようにするための道具のことも知っていた。処女の穴は狭くて滑りが悪いから、ローションも用意したほうがいいことを知っていた。
薄暗いホテルの一室で、私ははじめて彼に犯された。コンドームはなかったし、ピルなんて恥ずかしくてもらいに行けなかったから、私のほうからの避妊はなにもしていなかった。おまけに、ナマでも全然気持ちよくなかった。しかも彼は短小包茎。ローションなんてもちろんなかった。
怖かった。痛かった。へんな臭いがした。
でも、しあわせだった。
死んでもいいと思った。
第一章 拡声器
人間は基本的に自分の話を聞いてもらいたい生き物なのだそうだ。その欲望は年を重ねるにつれて強さを増していくが、年を重ねるにつれてその人の話を聞いてくれる人の数も減っていく。
「それで、隣んちの娘さんがね、離婚するかもしれないんだってよ」
それを踏まえたうえでも、祖母は話すことがとりわけ大好きな老人だった。誰か人を見つけては世間話を始め、主に「あそこんちはどうするんかねえ」「うちの倅はどうしようもない」など、他人を心配するような話題を提供する。本当に心配している気持ちもあるのだろうが、そういった深刻な話題のほうが他人の注意をひきつけることを、彼女はもともと知っているのだろう。
祖母は祖父と仲が悪い。とにかく夫と顔を合わせたくないらしく、隣にある我が家まで足を運んでは、私や母を相手に夜な夜な世間話をすることが日課になっていた。彼女にとってここは恰好の「しゃべり場」なのだ。
「そうなんですか」
「全く困ったもんだよねえ。これで離婚したら二回目だろ?」
「そうですね」
テレビに夢中になったふりをする私の代わりに、洗い物をしながら母が相槌を打つ。水音にかき消されてほとんど祖母の話など聞こえていなさそうなのだが、うちの祖母はあいにく声がよく通る。何を言っているかがわからなくても、話の切れ目くらいはわかるのだろう。
「円佳、お風呂入ってきなさい」
「はーい」
母に声を掛けられてしぶしぶ重い腰を上げる。立ち上がりざま、携帯電話が大きく震えてメール受信を報せた。牧野だ。
気にしていない素振りで立ち上がり、お風呂へ向かった。
私は昔から、自分の身の上を長々語ったり、逆に他人の身の上を延々聞かされたりすることが苦手だった。女子がよくやる井戸端会議や噂話を「くだらない」と一蹴するタイプの人間だった、と思う。自分のことを語りたがらなかったのは、無意識のうちに周囲を見下して、「あんたたちなんかにわからないわよ」と構えていたから。他人の話を聞きたくなかったのは、そんなものに価値があると思わなかったからだ。当時はそんなふうには思わなかったけれど、振り返ってみればそう思う。
ならば、今の私はその姿勢から成長しただろうか。今の私は自分を特殊で複雑な存在と思いこんではいないだろうか。他人を見下してはいないだろうか。答えはノーだ。
浴槽に浸かって天井を見上げていると、頭がぼうっとして、色々なことがどうでもよくなってくる。けれど、お風呂から上がったら牧野に返信しなければいけない。
お風呂からあがると、祖母はもういなかった。母も洗い物を終え、テレビの前で横になっている。
「お父さんは?」
「遅くなるって。今メールが来た」
時計を見るともう十時だった。母はすっかりくたびれた様子で欠伸などしている。私は机の上に放り出された携帯電話を手に取り、すぐさま新着メールを確認した。牧野からのメールには「何かあったの?」と一言だけ記されていた。
「全くあんたは、いっつも携帯なんだから」
「しょうがないでしょ。メール来てるんだもん」
母の視界に入らない位置で返信内容を考える。それなりに彼女の期待に応じ、それなりに彼女を満足させ、それなりに苛立たせるような内容を考えなければならない。それも数行で、だ。これはなかなか難しい。
テレビから好きな芸能人の声がして一瞬気をとられる。でもだめだ、返信しなければ。考えた末に私は、
「もしかしてブログ見たの? 心配させちゃってごめんね。もう大丈夫だよ」
とだけ返信した。無事メールを送信できたのを確認してから、テレビ画面に視線を戻す。テレビの中の世界は明るくて楽しくて、見ているだけでおかしかった。
昔から、自分に多くのコンプレックスを抱えていた。物心ついた頃には太っていて、鬼ごっこのような遊びをしていると私はすぐに負けた。物覚えが悪くて何度も母親に叱られた。手先が不器用で折り紙の鶴もまともに折れなかった。歌や絵は大好きだったが、私より上手くやれる人間はたくさんいた。劣等生である自分は当然、周囲から見下されていた。
私のコンプレックスに拍車を掛けたのは、両親の存在だ。父は学業も運動も優秀だった、とおしゃべりな祖母から何度も聞かされた。母はアイドルのように美人で、ユーモアのセンスがあった。親戚は軽い口調で「どうして両親に似なかったんだろう」「この子は誰に似たのかね」とよく言った。
幼い頃ぼんやりと感じていたものは、大人になり、社会と関わっていく中で体積を増し、その輪郭をあらわにする。
私はこの両親の間に生まれたくて生まれたわけじゃない。才能や容姿を自分の意思で受け継げるなら受け継ぎたかった。なのにどうして私はこんなみじめな思いをしなければならないのだろう。
――くだらない。
「話すこと」に対する欲望から私を遠ざけたもの――他者を見下そうとする思想は、徹底的に自分を卑下するところから始まった。
そしてその思想は、機会と手段を与えられなければ、一生私の中でだけ渦巻いていただろう。
携帯電話がけたたましい音を立てて、机の上で振動する。牧野からの着信だ。固定電話の番号から掛かっているから、また今月も携帯代がやばいんだろうな。アイドル顔の母は気の抜けた表情でテレビを見ている。こんなときだけ、私は優越感に浸ることができる。
予想していたような、していなかったような展開にため息をついて、私は携帯を片手に二階の自分の部屋へ向かった。
*
まどかが自分から私に電話を掛けてくることはめったにない。余程ケチなのか、恥ずかしがりなのか、電話が苦手なのか――たぶんそのどれもが当てはまるのだろうが、とにかく彼女は私に電話をしない。そのせいで私の電話代は毎月毎月とんでもない額になっている、らしい。呼び出し音を聞きながら困った父や母の顔が思い浮かび、今回こそは三十分で電話を切ろう、とか思うのだけど、いつもだらだらと三時間くらい電話してしまう。
『もしもし』
受話器の向こうからまどかの気だるい声がした。
「もしもし、まどか?」
『うん。何?』
「何、じゃないよ! 心配してるんだよ!」
『え? ……別にいいよ、勝手に書いただけだから。気にしないで』
いかにも適当な、どうでもいい感じが受話器を通してでも伝わってくる。
今井まどかはこういう奴だ。心配してほしくてたまらないくせに、いざ心配されるとどうしたらいいかわからないという顔をして、自分と他人の間に壁を作ろうとする。そういう不可解な今井の姿勢を理解できている人間は――たぶんいないと思うけど、私はその不憫な欲望を満たしてあげたくていちいち電話をしている。我ながら馬鹿だとは思うけど、電話はもともと好きだし、通話料は親のカネだし、いいかな、とも思ってしまうのだ。
「あんなこと書いて気にしないでなんて言うほうがおかしいでしょ。愚痴くらい聞くよ」
『いいって言ってるでしょ』
「人が君のためを思って電話してやってるのにそういうこと言うの。いいよ、どうせ私になんか話したくないんでしょ」
『ま、待って、違う違う』
他人との間に壁を作るくらいなので、まどかは人から「何を考えているかわからない」と言われるタイプの人間だ。まず表情がない。話し方は常に気だるい。他人を必要以上に持ち上げたかと思えば、普通では有り得ない行動や言動で相手を突き落とすこともある。問題なのは、本人がそれを自覚してやっているのかいないのかが、外側からではわからないことだ。
実際私も、まどかが何を考えているのかよくわからない。ただひとつわかっているのは、彼女は自分を卑下することには何のためらいもないくせに、他人が自分のせいで落ちこんだり自信をなくしたりすることを極端に嫌がることだけだ。
「じゃあ、言ってよ」
『うん……わかった、あのさ』
一回話し始めると、まどかはいつも、案外すらすらと事の次第を話し始める。時系列が前後したり、主語を省いたりする話し方は正直わかりにくいけど、何も話してもらえないよりはマシだ。
*
自分に自信のない人間は、周囲とは違う派手なものや特殊なもので、周囲と自分の戦うフィールドを変えようとする。私もそうだ。
私は胸に大きなクマのバッジを付けていた。ピンク色のクマは愛くるしい表情をしていて、クラスメイトたちには好評だった。クマのバッジは、自分に似合うと思ってつけたわけではない。まして自分を可愛いと思うからつけたわけではもちろんない。
ただ単に、周囲と少しだけ違っていることで、自分の劣等感を少しでも薄めようと思っただけだった。
授業の合間の短い休み時間。
「大して可愛くもないくせに調子に乗ってるよね」
「つーか、キモい」
廊下で、知らない女子の集団にすれ違いざま言われた。彼女たちの長くて茶色い髪の毛や、よく似合うピンク色の持ち物や、ミニスカート、長い足、きれいな睫毛、女の子らしい可愛い声、すべてが最高に憎らしくて羨ましくて沸騰しそうだ。生まれたときから既に私は彼女たちに敗北しているのに、貪欲な彼女たちはそれだけでは満足しない。
集団の中に、同じ中学校だった女の子がいるのを見た。ばっちりマスカラをして、眉毛を抜いてしまった彼女は、一見すると知らない子みたいだった。
「あのバッジ、無いわぁ」
「あたしがあの子なら付けられない」
「ユカだったら絶対似合うよね、ああいうの」
「わかるー! ユカって超可愛いよね!」
女の子たちの談笑する声がだんだん遠くなる。呆然としていて、気づいたら、私はその場から歩けなくなっていた。休み時間は残り二分しかない。慌てて歩き出そうとして、転びそうになった。
――歩けない。
授業の開始を知らせるチャイムが鳴り響く。先生たちが慌ただしい足取りでそれぞれの教室へ入っていく。不審な動きをする私を横目で見ながらも、彼らは自分の職務を全うすることに一生懸命だ。
嘘だ。歩けない。歩けない。歩けない。
自分の思うように動かない足を引きずって、息を切らしながら教室移動をしようとした。教科書を落とした。拾おうとしゃがむとそのまま前のめりに転び、立ち上がれなくなった。廊下の上で芋虫のように這いつくばる自分の姿は、さぞ滑稽だろう。
こういうとき、妄想をすると止まらなくなる。
私の顔が可愛かったら、先生たちは私を助けてくれただろうか。
私の足が長くて細かったら、友達は私に手を差し伸べただろうか。
私のコミュニケーション能力がもっと高かったら、あからさまな悪口に対抗することができただろうか。
自分に自信のない人間、とくに女の子は、ほんの些細なことでどこまでも突き落とされる。
やっとの思いで立ち上がった私が向かった先は、トイレ。転んだときにブレザーのポケットから滑り落ちた携帯電話をしっかり右手に握りしめていた。
*
DQNってほんとどうしようもないですよね(笑)
自分のことしか考えてなさすぎ。あの下品な笑い方も悪趣味な持ち物も全部嫌い。
さっき、どっかのクラスのDQN集団に超低レベルな悪口言われました。相手にしちゃう自分もバカみたいなんだけど、すごく傷つきました。私もまだまだだなぁ。
勉強は私よりできるかもしれないけど、人間としてああいうふうにはなりたくない。
あーあ、死にたい。
どうしていつも私はこうなんだろう。神様は不公平すぎる。氏ね。
今、この記事打ちながら、涙がとまりません。一生トイレにいたい。こんなゴミみたいな顔の私にはその程度がお似合いだと思う。
どうせ私みたいなやつは、誰からも愛されないで、誰からも見下されて、笑われて生きていくんだ。
2008/06/03 11:43
*
今井のブログは、多いときでは一日に五、六回更新される。そのせいもあって、今井を知る人間は今井のブログをよくチェックしているのだが、本人はその自覚があまりないらしい。
自殺未遂を示唆するようなネガティブな記事を書いた翌日でも、平然として学校に現れる。「誰も信じられない」とブログに書くくせに、周囲の人間と普通に会話したり、遊ぶ約束をしたりしている。よって、本当に落ちこんでいるのかどうか見極めるのは難しいが、今日の記事は具体的な出来事が書かれているので本当にショックだったのだろう。
心配は心配だが、どうせ今頃、牧野が電話でもしているはずだ。
俺は自分のサイト内で「アキ」と名乗っている。男か女か、わかりにくいような名前。俺はこの名前を気に入っている。友人の間でもこの名前がすっかりなじんでしまい、「アキくん」「アキさん」と呼ばれることが多い。自分の本名は嫌いではないが、女らしすぎて少し抵抗がある。
ブログの画面を閉じ、課題を始めようと筆箱に手をのばしたとき、携帯のランプが青く光った。着信だ。
おそるおそる携帯を開く。やっぱり鈴本からだ。
*
今日の出来事を一通り話し終える頃、まどかは泣いているばかりでほとんどまともに言葉を発さなかった。聞かされた出来事自体は全然大したことじゃないのに、こんなにも大泣きされると、彼女は今日、今世紀最大の悲劇に出会ったのではないかと思ってしまう。同時に、顔もわからない「DQN集団」にやり場のない怒りがこみ上げた。
「まどか、もう大丈夫?」
『うん』
「もう泣くなよ? 君を抱きしめることができなくて悔しいから」
『ふざけんな』
ブログでは饒舌なくせに、まどかは感情的になると短い単語、それも攻撃的な言葉しか発さない。いつも私に文章力がないとか、辞書を引けとかさんざんなことを言うくせに、だ。こういうときは私のほうが強い。
「どう? おさまった?」
『うん。ごめん、ありがとう、こんな遅くまで』
「それは全然構わないよ」
『時間、平気? 親とか』
「あー……うん、大丈夫」
通話時間、ざっと見積もって二時間。さっき、まどかの話を遮ってまで親が私を注意しに来たけど、まあいい。まだ六月始まったばっかだし、大丈夫大丈夫。
『あのね、人間って、自分の話を、聞いてもらいたい生き物なんだって』
「そうだね」
『私、あんまり、話とかするの好きじゃなくて、人の話とか聞くのも、苦手で』
まだ涙がとまらないらしく、ところどころ鼻をすすり上げながら話している。そこまでして今言わなければならないことなのだろうか。
『だけど、なんか、ブログだといっぱい、色んなこと書いちゃうの。超無責任なこととか、ひどいこととか、平気で書けちゃう』
「そうなんだ」
私にその気持ちはわからない。私も一応ブログを持ってはいるけど、ブログは人に見られていると思うと恥ずかしくて愚痴なんてとても書けない。せいぜい、携帯の中に未送信の状態で溜めておくぐらいだ。それすら恥ずかしい。だから、まどかみたいにブログにガンガン愚痴を書ける人の心理がどうしてもわからない。ドMなの?
『自慢するつもりじゃないけど、私のブログ、一日百アクセスくらいはあるのね』
「へえ」
自慢じゃねーか。
『私、それをわかってて、ああいう記事書いてる。でも、心配して電話してくれるの、牧野しかいないの』
「え、あ、そうなんだ?」
反応に困る。まあ、まどかの人付き合いを見てると、それも当然な気がするけど。
『でも、私、電話されたくてブログ更新するんじゃなくて――見てくれるだけで、いいんだ』
「はあ? じゃあブログで公開しなくていいじゃん。反応欲しいから公開するんじゃないの?」
『違う。聞いてほしいんだよ。私は人一倍、話を聞いてほしい、っていう欲望が強いんだと思う』
持論を展開し始めると、まどかは絶対に止まらない。私は意見せずに、ひたすら相槌に徹することにした。
『ブログってさ、そうだなあ、拡声器みたいなもんなんだよ』
「はぁ? 飛びすぎて全然わかんないんだけど」
『だから、たとえば――今、私が牧野と二人で向き合って話してるとして、私が拡声器使って話したら、牧野はうるさいと思うよね』
「そうだね」
『でも、人ごみの中で牧野を呼ばなきゃならなかったら、私は拡声器を使うかもしれない』
「電話使えばいいじゃん」
『そうじゃない。だから、牧野じゃなくてもいいの』
――こういうところ。嘘は吐いていないんだろうけど、まどかはこういう言動が相手を傷つけるということをわかっていないのだ。
私じゃなくてもいい? 私以外に、アンタのために二時間分も通話料払う友達なんていないでしょ。親のカネだけど。
『私は、誰かを呼びたいだけなんだよ。呼びたいどころか、私のところに来てほしいと思ってもいないの。聞いてほしいんだよ』
他人の感情の機微に鈍感なまどかは滔々と続ける。
『今日こんなことがあった、それでこういうことを考えて、こう思った、って誰かに言いたいだけ。それで誰かの感情を動かそうと思ってやってるわけじゃない』
すっかり涙は止まったようだ。通話時間、二時間半。日付が完全に変わってしまった。明日のためにも、そろそろ電話を切りたい。
*
牧野と夜遅くまで電話して、そのまま自分の部屋で眠りこけていた私を起こしたのは、一階から聞こえる祖母の大声だった。朝っぱらから元気な老人だなあと思いながら身を起こす。もう七時だ。
「隣んちの奥さん、いつ離婚するかねえ? あたしは心配だよ」
おばあちゃん、その話は昨日も聞いたよ。でも彼女の中で、今一番聞いてほしい話がそれなのだから仕方がない。母親は忙しく私の弁当でも作りながら、そうですか、大変ですね、とか、また適当に相槌を打っているのだろう。
拡声器を持たず、聴衆も持たない祖母のよく通る声が今朝は悲しく聞こえて、私は大きな欠伸をした。
(つづく)
久しぶりに小説を書いているので、つたない点も多いと思います。意図的に読みにくくしている部分もありますが(話し言葉など)そのせいで話の流れがわからないようなことがあれば教えていただけると助かります。
まったりと更新予定です。辛口のご意見お待ちしています。