76.【まだ早い?】 改
宿舎に戻ったのは五の刻半近くで、辞書を部屋に置くと、私達はそのまま隊長さんの部屋のドアを叩いた。手を繋いで部屋に入ってきた私達を見て、驚いた表情を見せる隊長さんに、王城での出来事を話すとポカンとした顔をされた。
「婚約?」
「はい。正式にはまだですが、陛下の耳には今日中に届くかと」
「昨日は付き合ってないと言ってたよな。それが何故そうなった」
隊長さんはまだ、信じられない様子。私だってまだ夢を見てるような感じなのだから、そう思われても仕方ない。
「竜太子様のお許しが貰えたのが、大きかったです」
レオさんの言葉で、私の膝の上のノアがドヤ顔をしている。
「そうか、レオも結婚するのか。お母さん安心させてやれるな。きっと隊長も向こうで喜んでるよ」
疑問符が浮かんだ私に「父は、ルーカス隊長が若かった時、討伐部隊の隊長だったんだ」と説明してくれた。
それから亡くなったレオさんのお父さんの話や、小さいころのレオさんの話をたくさん聞かせてもらい、気が付けば一刻も話をしていた。
「隊長さん、まだお仕事中だったのにごめんなさい」
「いや、嬉しい知らせは大歓迎だ。ユイさん、こいつの事をよろしく頼む。ちょっと言葉が足らない所もあるが、根は優しい奴なんだ」
「はい、充分わかってます」
「そっか、そうだな。俺の心配はいらないな」
隊長さんは本当のお父さんのように、強面の表情を崩して嬉しそうに笑った。私の知らない父親の愛情を、隊長さんがレオさんに向けている。
それから直ぐに食堂に向かうと、ドアを開けた途端にウイルさんに大きな声を掛けられ、私達は焦った。
「レオ、ユイさん、お前達婚約したって本当か?」
「なんでもう知ってんだよ」
呆れるレオさんの言葉に、食堂内が騒然とした雰囲気に包まれる。
「近衛隊の奴が話してた」
「あの文官か」
もしかしたら、会う人会う人全員に触れ回っているのではないかと思う程の速さで、噂は広まっている。別に隠すつもりはないけれど、自分が実感していない為か、不思議な気持ちになる。
そこへ噂を聞きつけたキャロルさんが食堂に飛び込んできて、開口一番私の名前を叫びながら抱きついてきた。
「ユイさん、良かったね。良かったね」
「キャロルさん、そんな泣かないでよ」
食堂に入って来た時には、既に涙で頬を濡らしていたキャロルさん。
「だって、だって嬉しくて......。副隊長、ユイさん幸せにしなかったら、私が許しませんよ」
「大丈夫だ。約束する」
宰相さんの部屋でも聞いたはずなのに、レオさんの言ったその言葉にまた涙が込み上げてきた。
「ユイ、さん。おめ、おめで、とう」
グズグズと鼻をすすりながら調理場から出てきたのはクックさんで、こちらも既に泣いている。
「うちの人、ホント泣き虫で嫌になるわ。ユイさん、おめでとう。クラネル副隊長、男はこれからが大変だよ。しっかりしなよ」
キャシーさんはレオさんの背中を、喝を入れるように思いきり引っ叩いた。
『あ~ぁ、直ぐには部屋に戻れそうにないね』
ノアが言ったその言葉は見事に的中し、食堂が閉められる八の刻ギリギリまで、私達は部屋に帰らせてもらえなかった。
宿舎の三階へ上がる階段手前で、ウイルさんとおやすみの挨拶を交わす。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「二人ともおやすみ。レオ、早速防音の魔道具使うんじゃねぇぞ」
「お前は何を言ってんだ」
呆れたように、溜息交じりに文句を口にするレオさん。
「そんな秘密にする話あったっけ?」
隣にいるレオさんの顔を見上げると、彼は返事に困っていた。
「......まぁ、気長に行けよ」
ウイルさんから、嘆き悲しむような目を向けられる彼。私に「レオのこと頼むな」とぽつりと口にして、ウイルさんは部屋に向かい廊下を歩いて行った。
「ウイルさんて、レオさんの事好きですよね」
「俺にそんな趣味はないぞ」
「そういう意味じゃありません」
二人で笑みを漏らせ、私の手を引くようにして階段を上がるレオさん。彼の背中を見ながら、本当はまだ夢をみているんじゃないかと、疑う自分がいる。
私の部屋の前、まだ一緒にいたいと思う気持ちを堪え、寂しい気持ちを隠して「おやすみなさい」と声に出すと、レオさんの手が私の頬に触れた。
「寂しそうな顔してる」と呟くレオさん。
「違うな。そう思ってるのは俺か」
胸の奥が愛おしさで、ぎゅ~っと痛くなる。
『ユイ、早くドアを開けて』
ノアにそう言われて、私は離れがたい気持ちを抑えて、部屋のドアを開けた。
すると......。
『二人は、もっと話すべきことがあるでしょ!? 僕の魔力が増えたから、この三階くらいなら離れてても、竜王の結界は機能する。だから、ユイはレオの所に泊ればいい』
突然そう言われて、ノアに部屋のドアを閉められた。
「ちょ、待ってノア。そんな事急に言われても」
正直頭の中はパニック状態。泊まるってなに。いやいやいや......そんなの無理だし。
焦りすぎて思考が止まりそうな私に「泊まる泊まらないは後にして、とりあえずもう少し話さないか!?」レオさんにそう言われ私は頷き答えると、手を引かれるまま彼の執務室に一緒に入った。
彼の後をついて歩き、魔道具のランプと暖房をつけると、二人でそのままソファーに腰を下ろした。
今日は予想外の出来事が起こりすぎて、既に私の頭はオーバーヒート状態。緊張で無口になってしまった私に、レオさんが眉を下げ「疲れたか?」と心配そうに顔を覗き込んできた。
「朝から色々ありすぎて、まだ信じられない感じ」
「確かにそうだな。だけど、宰相の前で言ったことは嘘じゃない。ユイさんの事を幸せにしたいって思ってる」
深い紫の瞳に見つめられ、私は静かに頷いた。
レオさんはゆっくりと私を抱き寄せ、私の肩に顎を乗せるようにしながら「ユイ」私の名前を呼んだ。
その瞬間、全身がゾワゾワとくすぐったいような、恥ずかしいような感覚に包まれた。身体の中から沸き起こる感じたことのない熱に戸惑い、私は彼の身体に回した腕に力を入れた。
「誰とも付き合わないって言ってたから、レオさんは私の事なんて、なんとも思ってないと思ってた」
「それ誤解だから。俺は『他の人とは付き合わないし、結婚もしない』って言ったんだ。ユイさん以外の人とはしない、そう伝えたかったんだ」
驚いて彼から身体を離すと「だけど、ちゃんと訂正出来なかった」とレオさんは睫毛に影を落とした。
「ノアに止められてるから?」
また私は引き寄せられた。
「ユイさんが俺の事を好きだと言うまで、俺からは何もするなと言われた。だから、ずっと我慢してたんだが、あの時は自分の気持ちを抑えられなかった」
「キスした時?」
「あぁ。......ユイさんの気持ちが俺にあるかわからないのに、酷いよな」
「酷いよ。だって私初めてだったんだよ」
「すまない」
「それなのに、あんまり覚えてないって、ショックなんですけど。するなら、ちゃんとして欲しかったな」
耳元で音にならない笑いが聞こえ「それは、ちゃんと口づけしてって意味だよな」って囁かれた。今まで聞いた事のない、甘い吐息のような囁きに、またあのゾワゾワした感覚が蘇る。
身体を離され深い紫の瞳と目が合うと、私はゆっくりと瞼を閉じた。今度こそ、間違えてないはず。
触れるだけのキスが何度か繰り返され、息をするタイミングが分からず固まる私に「ちゃんと、息して」と彼は言う。
キスってこんな長いものなの? 戸惑う私を見てクスッと笑みを漏らし、また耳元にキスを落とされた。
「これくらいで固まるなよ」
彼の意地悪な声に、心臓の音が益々酷くなる。触れるだけのキスは、お互いの想いを確かめるような甘いキスへと変わっていく。
「レオ、さん......まって、くるしぃ」
「ユイが、息しないからだろ。ほら、少し開いて」
そう言って唇に触れられ、私は意味を理解しないまま素直にそれに従った。薄く開いた唇に触れる彼の舌の柔らかさに驚き、身体を離そうとしたが、彼の腕の中から逃げることが出来ない。
差し込まれた熱い舌に戸惑い、どうしたらいいのかわからないまま、あのゾワゾワした感覚は更に強さを増し、私は考えるのをやめにした。頭の中がフワフワするような感覚が気持ちいい。
彼に身を任せぽわんとしていると「ユイ、大丈夫?」彼にそう聞かれ、私はハッとしてレオさんの顔を見た。
「ちょっと意地悪するだけのつもりだったのに、ごめんな」
私のおでこに優しいキスが落とされる。
「なんか、大人のキスって気持ちいい」
思わず本音が漏れてしまった。
「おまえ、そんな事いうなよ。やっぱり、今日は自分の部屋に帰った方がいい」
「泊まっちゃダメなの?」
「......口づけ以上の事するよ。防音の魔道具使う気?」
レオさんがまた、意地悪く笑う。
「あっ......帰ります」
防音の魔道具、ウイルさんの言った意味がやっと分かった。
レオさんは残念そうにも、ホッとしたようにも取れる表情を見せ、もう一度だけ唇に優しくキスをしてくれた。
そして私が部屋に戻るとノアが『何で戻って来たの!?』と本気で驚いたあと、呆れたように『折角僕が寂しいの我慢してあげたのに、なにやってんだよ』と文句を口にした。
「やっぱりノア寂しかったんだ。レオさんの所にお泊りするのは、私にはまだ早いみたい。ノアと一緒に寝るのが、今の私には丁度いいのかな」
ノアはまだブツブツ言っているが、本気で文句を言っている訳ではなさそう。だって文句言ってる声は、ちょっと嬉しそうなんだもん。




