70.【もしかして……】 改
最後の手紙を返し終わると、私は小さくホッと息を吐いた。
しかしその直後、ここ数日悩んでいたことを整理出来たことで気が緩んだのか、突然私の視界が大きく揺れ、気が付くとノアの身体をクッションにするように、覆いかぶさっていた。どうやら私は、眩暈を起こし倒れたらしい。
指先に触れるノアの少し冷たい鱗の感触が、なんだかとても心地いい。
朦朧とする意識の中で、駆け寄ってきてくれたキャロルさんには、自然と謝罪の言葉が口から零れた。あんなに心配してくれたのに、素直に言うことを聞かなかったことを、本当に申し訳なく思う。
そして私を運ぼうとしてくれたキャロルさんを引き止めて、誰かが私を抱き上げようとする声が聞こえ、反射的にそれを強く拒んだ。レオさん以外の男性に触れられたくないと、こんな時でさえも身体が勝手に拒否をする。
そして微かに聞こえてきたレオさんの声がする方へ、無意識に手を伸ばす。するとそこには、心から安らげる温もりがあった。他の誰でもない。彼だけが与えてくれる、世界で一番安心出来る場所。
自分のものとは思えないほど重たい身体を起こし、彼にギュッとしがみ付くと、その大きな手は私を優しく包み込んでくれた。そして、安心しきった私は、ここで意識を手放した。
現実との境目が分からないふわふわとした意識の中で、私はレオさんの腕に包まれている夢を見ていた。自分より30㎝近く背の高い彼を見上げると、目を細め愛おしそうに私を見つめる深い紫の瞳と目が合い、夢の中の彼に「レオさん、大好き」と声に出し想いを伝えた。
すると彼の顔がゆっくりと近づき、キャロルさんに言われた言葉を思い出した私は、静かにそっと目を閉じた。
夢の中の出来事のはずなのに、唇に感じる熱はやけにリアルで、驚いて目を開けると現実の私は、誰かに初めてのキスを奪われていた。だけど、それを嫌だと思わなかったのは、相手がレオさんだと瞬時に分かったから。
魔道具のランプが一つだけしか点いていない部屋は薄暗く、相手の顔は見えない。しかし、今まで何度も彼に抱きかかえられた私は、彼の醸し出す甘い匂いを覚えていた。
優しく触れていた唇が離され、彼の柔らかな前髪が私の頬をそっと撫でる。
確信を持って彼の名前を呼ぶと、慌てて私から身体を離したレオさん。何故キスをしたのか理由が知りたい私の問いかけに、口ごもる彼。
彼の性格を考えると、理由なく私にキスをするとは思えない。もしかして、彼も私の事を想ってくれている?
微かな期待が首をもたげたが、彼の口から好意を表す言葉は紡がれない。それでも彼の想いが知りたくて、彼の頬に触れようと手を伸ばした時、レオさんが部屋の外に意識を向け、誰かが来たんだと分かった。
部屋のドアを開けて入って来たのは、キャロルさんとノア。私はその時初めて、ノアが側にいなかったことに気が付いた。
考えれば直ぐに分かること。ノアがいれば、私にキスなんて出来るはずがない。ノアが私から離れたということは、何かとんでもないことが起こったということだ。
キャロルさんが持ってきてくれた、クックさんの料理をソファーに座って食べていると、ケリー魔導師統括長さんと、クラウド騎士団統括長さんが隊長さんと一緒に訪れた。
「竜太子様、ユイ様、失礼いたします。倒れたとお聞きしましたが、もうお加減は宜しいのですか?」
開口一番、私の体調を気遣ってくれたのはケリーさん。
「聖魔導師さんに治していただいたみたいで、もうすっかり元気です。この通り食欲だってばっちりです」
私は手にしているエビフライを、一口でほおばって見せた。
「それは何よりですね。コリンズから報告は受けたのですが、やはり心配でしたので」
ケリーさんは銀縁の眼鏡を指でクイッと上げながら、インテリな印象を与えてる黒い瞳を細めてほほ笑んだ。私は手にしていた箸をテーブルに置くと、三人にソファーに座るように促した。
向かいのソファーには、左からケリーさん、クラウドさん、隊長さんが腰をかけ、私の右にはレオさんが座ってくれた。キャロルさんは私の後ろに立ち、ノアはベッドの上で此方の話を伺っている。
「自分の体調管理も出来ず、皆さんにご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした。
ところで、なぜ皆さん集まられたのですか? まさか私が倒れたから、集まった訳じゃないですよね?」
私の問いかけに、部屋の温度が下がったのが分かった。
「ユイさんは、どこまで覚えてる?」
「レオさんに運ばれたところまで......かな!? 次に目が覚めた時には、あんなことになってましたけど」
レオさんの質問に、大きめの棘をつけてお答えしてみた。だけどレオさんは、軽く咳払いをして、何事もなかったように話を進める。今はそれが、すごく悔しい。
『あんなことって何?』
ノアの問いかけには、聞こえないフリをしてみる。
この時、突然ノアの声が聞こえたケリーさんとクラウドさんが目を丸くしていたが、隣にいる隊長さんに説明されて、納得出来たよう。
それから、私が眠っている間に起きた出来事を、ノアとレオさんが一つずつ説明してくれた。
あのフランメルって騎士さんが、私が眠っている間に部屋に入って来たと聞いた時、背中にぞわっと悪寒が走り、私は思わず隣にいるレオさんの腕を掴んでしまった。
もしあのキスがレオさんじゃなかったら。そう思うとどうしようもない程怖くなり、冷たくなって震えだした私の手を、レオさんの大きな手が優しく包み込んでくれた。
「竜太子様が、ユイさんを守ってくれたんだ」
レオさんの言葉でノアの方に顔を向けると『当たり前だろ。あんな奴、ユイに触れさせてたまるか』と、鼻息を荒くしてノアは答えた。もしもあのキスの事をノアが知ってしまたら、レオさんはどうなるのだろうと不安になり、絶対にノアには秘密にしようと心に誓った。
ノアの言葉をどんな気持ちで聞いているのだろうと思い、隣にいる彼の顔を見上げると、レオさんはバツが悪そうに苦笑いをしていた。
そしてその後、ノアが放った威圧というもので、この部屋を中心にした広範囲で恐ろしい程の殺気が満ち、たくさんの人に影響が出たと聞かされた。
レオさん達は最初、この建物と隣の食堂棟くらいの範囲で起きた出来事だと思ったらしい。しかし、王城の執務室にいたケリーさん、クラウドさんも殺気を感じ、急いで駆け付けたという。それを聞いた時は、その範囲の広さにレオさん達も驚いたみたい。
『それに関しては申し訳なかった。冷静な判断が出来るときは、対象者にだけ威圧を向けるけど、あの時は怒りで制御出来なかったんだ。一応確認するけど、亡くなった人とかいないよね?』
そのノアの言葉に驚いたのは、私である。
「ちょっと待って。その威圧ってそんな怖いモノなの? 人が死んだりするの?」
「騎士は訓練を受けている為、一般人より敏感に反応するが、その分多少の威圧には耐えることが出来る。だけど、今回の竜太子様の威圧は桁外れだったんだ。訓練を受けた騎士でさえも、身動きが取れないくらい。
だから、調理人の人達は耐えがたい程の苦痛を感じただろう。意識を失った者もいたからな。
王城で感じた殺気は、強かったですか?」
レオさんの質問に答えてくれたのは、クラウドさん。
「侍女達は気分が悪くなる程度ですんだよ。少し離れていたから助かったんだろうな。もし侍女達が食堂にいたら、どうなっていたかわからんな」
「私も自分の執務室で殺気を感じた時は、驚きました。目の前で殺気を放たれているならわかりますが、離れた宿舎からあれ程の殺気を感じるとなると、現場はどうなってるのか不安になりましたからね」
ケリーさんの言葉に、クラウドさんが大きく頷く。実力がある人は、遠くの気配や殺気にも敏感に反応出来るらしい。
「俺なんて隣の部屋にいたんだぞ。突然、強烈な殺気に襲われてマジで意味がわかんなかったよ。後頭部を掴まれて、机に叩きつけられた気分だったぜ。今日ので絶対に、また髪が抜けたよ」
その時の事を思い出しながら隊長さんは、心配そうに頭を撫でている。
「それ、威圧関係ねぇだろ」
クラウドさんのツッコミに、思わず笑ってしまった。
「でも、その時の副隊長凄かったですよ。私なんて全く動くこと出来なかったのに、副隊長は咄嗟に席を立って、ユイさんの元に駆け出したんですよ。あの場面で、自分の意志で動けたのは副隊長だけです。今回初めて、副隊長をカッコいいと思いましたよ」
私の上から、興奮気味に話すキャロルさん。
「初めてって......。お前何年俺と一緒に戦ってるんだよ」
「副隊長の実力は知ってるつもりでしたし、尊敬もしてました。けど、副隊長の実力甘く見てましたね。
そりゃ、竜太子様が認めた理由が分かりましたよ」
「ノアが認めたの? レオさんの実力を?」
「あっ......うん、実力をね」
なんだかはっきりしないキャロルさんの言葉に首を傾げると『ユイは気にしなくていいの』と、何故かノアが不機嫌になっている。
なんだか最近、私だけが除け者になってる気がするのは気のせいだろうか?
「それで、そのフランメルさんは、なぜそんなことをしたんでしょか?」
私の問いかけに、クラウドさんが答えてくれる。
「まだ詳しいことは聞けてないのですが、まぁクラネルへの嫉妬が理由みたいだな」
「俺へのですか?」
「倒れたユイ様を運ぼうとした時、嫌だと断られたと。それなのにクラネルには、ユイ様自らが手を伸ばされたとか。それが悔しかったらしい。
なぜ自分じゃダメなのかと思って、気が付いたら部屋に行っていたと。決して触れようとか、そんなことを思ってた訳じゃないらしい」
「そんな事どうとでも言える!!」
フランメルさんの事を怒っているレオさんを見て、それレオさんが言うの? そう思うと、笑いが込み上げてきた。そんな私を横目で見て、レオさんが頭をコツンと突いてきて、また笑った。
「えっと......お前達、なにイチャついてんだ」
クラウドさんの言葉には、真顔で首を横に振る。
「それで、ユイ様は処分をお望みですか?」
「私は、もう二度と近づかないと誓ってくれたらいいです。近衛隊の騎士さんということは、優秀な方なんでしょ!?」
「それは、ユイ様が気にする必要はありません」
赤紫の瞳を真っすぐに私に向け「それでは、処分はこちらで決めても宜しいですか?」と再び問うクラウドさん。
「はい。お任せします」
「竜太子様も宜しいでしょうか?」
『もうユイに危害を加えないなら、どうでもいい。ただし次なにかしたら、迷わず殺すけどね』
気安く言ったその言葉を聞いて、私は語気を強めてノアを叱った。
「簡単に殺すとか言わないで!!」
『ユイは僕がどんなに大事に思ってるか、分かってないんだよ』
「ちゃんと分かってるし、感謝もしてるよ」
『全然分かってない!!』
「分かってる!!」
「は~い。親子喧嘩は今しない」
キャロルさんに止めに入られ、私達は顔をそっぽを向いて口を噤んだ。
私はどんな理由があっても、簡単に人を殺すなんて言葉ノアに言って欲しくない。ノアから見れば人間なんて、弱っちい存在なんだと思う。
でもだからこそ、守るべき存在だと思ってもらいたい。自分の感情だけで考え、力でねじ伏せるような、そんな竜王様にはなって欲しくない。
「ユイさん、大丈夫だよ。竜太子様は、ちゃんとユイさんの望むような竜王様になろうとしてるよ。ユイさんのような、人に寄り添える竜王様になるって騎士達に宣言してたよ」
「それ、ホント?」
私は後ろにいるキャロルさんを、振り返って見上げた。彼女は黙って大きく首を縦に振り、ノアは照れくさそうにしながらお尻をこちらに向けてしまった。
私は直ぐに立ち上がり、ベッドの上で休んでいるノアに飛び乗り抱き着いた。
「ノア、怒ってごめんね」
まだ、ちょっと拗ねた顔しながらも『もういいよ』と呟いたノア。
私の想いは、ちゃんと彼に伝わっていた。




