32.【私だけが呼べる名前】 改
今日は梅雨を思い出させるような雨が、朝から降っている。窓に打ち付けられる雨の音が響く部屋の中は、昼間だと言うのに少し薄暗く、朝からずっと魔道具のランプを一つ点けている。
「こんな雨でも、討伐部隊は森に行くのかな。きっと天気なんて関係ないよね」
独り言を呟きながら、黒い雲に覆われた空の下の宿舎を、窓際から見つめた。
レオさんとキャロルさんが、訪ねて来てくれた日から一週間。そろそろ卵が孵化する頃。
「ねぇノア、もうそろそろ出てきても、いいんじゃないの?」
ふふふっ、竜王様を勝手にノアって呼んでるけど怒られちゃうかな?
高校生のとき、有希と一緒に将来子供に付ける名前を考えた時のことを思い出した私。優しい響きが好きで、男の子でも女の子でも『ノア』と付けたいなと思ったっけ。
「そう言えば、竜王様の本当の名前ってなんだろう。ずっと竜王様って呼ぶのかな?」
ふとそんな事が頭を過ぎり、卵が孵ったら国王陛下に確認してみようと思った。
レオさんとキャロルさんが部屋に来たとき以来、時々ノアに聴かせるように歌を歌っている。歌を歌った時は必ずと言っていい程、ノアは卵の中で動いてくれるのだ。きっとノアも喜んでくれているに違いない。
「今日はなんの歌がいい? いつも喜んで(動いて)くれる歌でいいかな?」
今じゃ本当に、妊婦さんになったような気持ちでいる自分が可笑しくて、ちょっと笑える。
私には贅沢すぎる高価なピアノの椅子に座り、ゆっくりと指を躍らせる。木の温もりを感じる優しい音色が心地いい。
ノアが喜んでくれるのは、先日レオさんとキャロルさんが居る時に歌った、お母さんに感謝を伝える歌。
いつも側で見守ってくれてありがとう。
そんな意味が込められた歌を、何故ノアは気に入ったのだろう。意味なんて伝わってないのに。
「全然意味が分からなくても、関係なく気にいる洋楽はあるから、それと同じなのかもしれないなぁ」
『だってユイは僕のお母さんだから』
突然頭の中に聞こえてきた小さな男の子の声に、私は驚いてピアノを弾く指を止めた。
「誰?」
『もうすぐ会えるよ、ユイ』
「もしかして、ノア?」
すぐ近く、ベッドの上にある卵に目をやると、コツコツと音を立てながら、右に左に大きく揺れ始めた。
ピキッピキッという音と共に2~3cmの亀裂が入り、私は慌てて扉の外にいる近衛隊の騎士さんに声を掛けた。
「卵が孵りそうです。国王陛下に伝えてください」
私の言葉に驚きと共に興奮した様子の騎士さんは、逸る気持ちを抑えるようにしながら、早足で廊下を歩いていった。
だから、こんな時くらい走ってもよくない? 騎士さんの後ろ姿を見送りながら、呆れにも似た溜息が出た。
ベッドに戻ると卵の亀裂は益々大きくなり、少しずつ少しずつ放射線状に広がっていく。卵の殻を剥がしたい気持ちを抑え、ベッドの脇に膝を立てて座り込んだ。上から覗き込み、ただ黙ってノアが出てくるのを待った。
雨が窓を叩きつける音だけが聞こえる薄暗い部屋で、ただ一点をだけを見つめる。ドクドクと脈打つ自分の心臓の音がうるさい。
あっ、ノアが出てきた時にこれじゃ、暗すぎる。
私は慌てて立ち上がり、魔道具のランプを手にして戻ってきた。焦る気持ちが空回りして、いつもなら簡単に明かりが灯るはずのランプが、今はなかなか灯せない。何度も摘みを捻りやっと明かりが灯った時にはホッとした。
「よし、これで大丈夫」
一つはピアノの上、もう一つはサイドテーブルに置き、ノアが出てくる準備を整える。更に亀裂が広がり、卵の中からノアが鼻先で押しているのが分かった。
「ノア、がんばって」
『うん、がんばる』
少し高い可愛い声が、また聞こえた。
私はノアに声援を送ることしか出来ず、苛立ちさえ感じ始めていた。
『僕は大丈夫だよ』
そうだ、私が落ち着かなくてどうする。
卵の周りの殻が剥がれ、少しずつ穴が大きくなっていく。そこへ複数の足音がバタバタと、走ってくるのが聞こえてきた。
あっ、やっぱり走ってきてる。
国王陛下が走っている姿を想像して、一人クスクスと笑いが込み上げてきた。ノックされた扉が開くと、少し息の上がった国王陛下と宰相さんと、その他複数の男性が部屋に入ってきた。
「た、卵は孵ったのですか?」
エイベル宰相さんが、額に汗を滲ませながら問いかけてきた。
「まだです。もうすぐ生まれます」
私の言葉を聞いて全員がベッドに駆け寄り、卵を覗き込む。
「ユイ嬢、竜王様が生まれる瞬間に立ち会わせてくれたこと、感謝する」
頭を下げ感謝の言葉を口にする国王陛下に驚き、私はひっくり返りそうになった。
「と、とんでもないことです。お知らせするのは当たり前じゃありませんか」
顔は引き攣り、心臓は壊れそうな程バクバクしている。
「ぴぃ~」
卵の中からノアの鳴き声が聞こえ、男性陣から「おぉ~!」と声が上がる。卵の殻がポロッと大きく剥がれ、中から黒い小さな竜が顔を出し私の顔を見上げた。
『ユイ、やっと会えたね』
「がんばったね、ノ......竜王様」
私は卵の穴に指を入れ、大きく崩すと卵から出たノアを両手で優しく抱き上げた。
『どうしてノアって、呼んでくれないの?』
ノアが首を傾げて話しかけてくる。
「竜王様、御誕生おめでとうございます」
「「「おめでとうございます」」」
国王陛下のお祝いの言葉を聞き、ノアを抱いて振り向くと、国王陛下を始めとする全員が跪き頭を下げていた。言葉にならない驚きと共に後ずさる。
「竜王様にお会いできたこと感謝いたします。オリバー・バネットブルクと申します。以後お見知りおきを」
跪く国王陛下を前にどうしていいか分からず、おたおたする私に「ユイ嬢は竜母様じゃ。そのままでよい」と......。
そのままで良いと言われても「はいそうですか」とは中々言えない。そうか、私はあれだ。竜王様が座る玉座になったと思えばいいんだ。よし、そうしよう! そう無理やり自分を納得させることにした。
『どうしてノアって、呼んでくれないの?』
国王陛下を無視して、またノアが話しかけてくる。
「国王陛下、竜王様に正式な名前はありますか?」
「いや、竜王様に名前はない。我々も竜王様としかお呼びすることはない。それがどうしたのじゃ?」
「竜王様が私に名前で呼べと」
「竜王様の言葉が既にわかるのか?」
「はい。頭の中に浮かんできます」
「さすがは竜母様じゃの。竜王様の名前は竜母様のみが命名することができ、口にすることを許されるのじゃ」
「私だけが呼べる名前?」
腕の中にいるノアを見ると、私の顔を見上げ『そうだよ』と微笑んできた。いや、実際には仔竜の表情なんて分からないはずだ。だけど私には微笑んでいるように見えたのだ。
「わかった。ノア、これからよろしくね」
「それが竜王様のお名前なのじゃな。優しい響きじゃの」
『そうでしょ。僕も気に入ってるよ』
「ノアが、国王陛下に『そうでしょ。僕も気に入ってるよ』って言っています」
国王陛下が、柔らかい笑を浮かべる。
『ユイ、バネットブルグに伝えて欲しい事がある』
国王陛下を呼び捨てって......さすが竜王様。私の頬が引き攣り、額に冷たい汗が浮かんだ。
「ノアが、国王陛下に伝えて欲しいことがあるそうです」
私の言葉にその場にいる全員が、息を飲んだ。




