1.【異世界転移】 改
私は今、何故こんな見渡す限り何もない、緑鮮やかな大草原の中にいるのだろう。いくら考えても分からない。覚えているのは、幼馴染の有希と一緒に歩道橋の階段を登っていた時に、足を滑らせて落ちたことだけ。
深い深い暗闇の中に落ちていくような感覚の後、鼻を擽る青い草と土の匂い、全身で感じるふわふわとした感触、それから瞼を閉じていても感じる強い光を浴びて、私は目を覚ました。
見上げた先に広がるのは、雲ひとつない突き抜けるような青空。朦朧とした意識のまま、私は緩やかに身体を起こした。
「......ここ、どこ?」
どこをどう見ても壮大な草原の中に身を置く自分。はっきりと感じる草の匂いと、風が頬を撫でていく感触が、これが夢ではないと教えてくれる。
──── パシッ!
念の為に自分の頬を叩いてみたが、やっぱり痛い。
さっきまで有希と一緒に歩道橋を上っていたはずなのに、どうして?
「ゆうき......有希はどこ?」
少しけだるい身体で立ち上がり、もう一度周りを見回してみる。前方には遥か遠くに見える山。振り返れば100m程離れたところに森との境界線のように草木が多い茂る茂みがあった。
「ゆうき~!!」
返事はないと分かっていながら、それでも彼女の名前を思い切り叫んだ。喉が裂けて、この声を失ってしまうのではと思うほど、何度も何度も。
しかし、聞こえてくるのは有希からの返事ではなく、草木が風で揺れるサワサワという音だけ。私は、その場に座り込み途方に暮れた。何も考えられないまま、時間だけが過ぎていく。
どれくらいの時間、考えることを止めていたのだろう。森との境界線の辺りの茂みがガサガサと音を立て、ハッとして振り返った私が目にしたのは、見たこともない気持ち悪い生き物数匹だった。
全身は緑色で、その目は顔の半分はあるのではないのかと言うほど大きく、薄気味悪い笑顔を見せながらこちらに走り寄ってきた、人間と似て非なる生き物。
殺される!
とっさにそう思った。あれが何なのかわからないけれど、血の気が引き、体中の細胞が逃げろと言ってる気がする。咄嗟に立ち上がり走り出したが、思うように足が動かない。合コンに行くために、お洒落なサンダルを履いていたことを思い出し、すぐに脱ぎ捨てる。
「なにあれ! なんなの!......助けて、誰か助けて。死にたくない。まだ死にたくない」
変な緑の生き物は既にすぐ側まで迫ってきているというのに、走っても走っても走っても、全然前に進んでいる気がしない。
「いやぁぁぁぁ!!!!!!!」
叫ぶのと同時に、腕を捕まれ引きずり倒された。もう、殺されると思った。食べられると思った。
だけど緑色の生き物の目的は、殺すことでも食べることでもなかったようで、涎をたらし覆いかぶさってきた一匹に「じゅるりっ」と音を立てて首筋から頬を舌でねっとりと舐め上げられた。
ザラザラとした舌の感触と、ねっとりとした粘性の強い唾液に鳥肌が立つ。それと一緒に、吐き気までもが込み上げてきた。抵抗しようにも手と足は、その他の緑の生き物に抑えつけられ、全く動かすことが出来ない。
こんな事なら、死んだ方がまだマシだ。すぐにあの場所を離れなかった後悔と悔しさで唇を噛み締めたとき、自分の上に覆いかぶさっている緑色の生き物の首が、スパンッいう音が聞こえそうな勢いで飛んでいった。首をなくした緑色の身体は私の上に力なく倒れこみ、生温い鮮血を胸元にドクドクと垂れ流した。
しかしその直後、緑色の身体は黒い霞みとなって跡形もなく消え去り、私から離れていく数匹の緑色の生き物達の首が切り落とされ消えていくのに、それ程時間は掛からなかった。
状況が理解できず身動き出来ない私に近づき跪いた影に目を向けると「大丈夫か?」と心配そうに声を掛けられた。助かったのだと安堵した瞬間、私は意識を手放した。
次に私が目を覚ましたのは、なんと馬の背中の上。余りの出来事に驚いて身体を仰け反らせると、私は知らない男性に身体を支えられていることに気が付いた。
その瞬間、今までの出来事を思い出し、私の事を支えてくれている男性の胸に顔を埋めて、嗚咽が出るほど泣きまくった。
こんな経験は初めてだった。人前で嗚咽が出るほど泣いたのも、男性に抱きしめられるのも。
母が亡くなった時でさえ、私は歯を食いしばって泣くことを我慢することが出来たのにだ。でも私の背中を擦ってくれるその人の手は暖かく、私の不安を少しずつ和らげてくれた。
泣きまくったせいで上手く話せない私の言葉を聞き「大丈夫だ。もう安心しろ」と言ってくれた男性。
ここがどこなのか、彼が誰かなんて全然わからないけれど、今は彼に縋る以外に選択肢はない。彼の身体にしがみ付きながら、私はこんな状況になる前の出来事を思い出し始めた。
小学校からの幼馴染の有希に誘われて参加した合コン。
当たり前のようにお持ち帰りされることなく、月明かりの下居酒屋から最寄り駅までの歩道を、幼馴染の有希と一緒に程よく酔っている足で歩いて帰る。隣にいる私を見て、これ見よがしに大きなため息をつく有希。
「結、あんた本気で彼氏欲しいって思ってんの? 今日だって結局、盛り上げ役に徹しちゃってさぁ。あれじゃ男の子達他の娘にもっていかれちゃうよ」
「だって参加してるの可愛い娘ばっかりで、あたし引き立て役だなぁって思っちゃったんだもん」
参加する前はちょっとは期待してたんだけどな。お気に入りのワンピースを着ていくくらいには。
「そんなことないよ。結の前に座ってた高橋君、結のこと気に入ってそうだったじゃん」
「そうなのかなぁ? そんな感じしなかったな。それに、ちょっと大人し過ぎる感じ」
有希の眉間に深い皺が出来た。
「なによ。言いたいことあるなら言ってよ」
「結局、結は理想が高いんだよ。白馬に乗った王子様なんていないからね。現実見なさいよ」
現実を見ろと言われたら返す言葉がない。春には短大を卒業するというのに、未だに『彼氏いない暦=年齢』の私。でもあたしの理想はたったひとつ。
胸が苦しくなるくらい好きになった人と、一生に一度の恋がしたい。ただそれだけなんだ。今までに告白をされたこともあるけれど、付き合いたいと思う人がいなかっただけ。
「有希はいいなぁ。健太ともうずっとラブラブじゃん」
健太というのは有希と私の小学校からの幼馴染で、二人は高校の時から付き合っている。大切な有希を任せられる世界でたった一人の存在だ。
「まぁね。あいつが私に惚れてるからね」
口元を緩ませながら毎度の惚気をかましてくる有希。ホント羨ましい。
「白馬の王子様とまでは言わなくても、あたしを守ってくれる騎士くらい現れてもよくない?
この世界にはいないのかな? どこに行ったら会えるのよ。神様~あたしの運命の相手に早く会わせろ~!! 世界のどこまででも会いに行ってやるぞ!」
もうすぐ日付が変わろうとする時間。大きな声で叫ぶあたしを、すれ違いざまに何人かの人が見ていく。
「あんた酔ってんでしょ? 恥ずかしいからやめて」
「あれくらいで酔うわけないでしょ。神様に聞こえるように言ってみたの~」
慌てる有希が面白くて私は笑い声を上げながら、駅への道を歩いた。
ごめ~ん、本当はちょっとだけ酔ってる。
私はケラケラと笑い声を上げながら、駅に繋がる歩道橋の階段を上った。後ろをゆっくりと付いて来る有希の「結の運命の相手が現れるの、あたしも待ってるよ」の言葉に返事をしようと振り向いたとき、私は履きなれないサンダルの踵を踏み外した。
「わっ、わっ、おち、る...きゃぁぁぁ~!!」
「あっ、ちょっ...ゆい」
私を助けようと差し出された有希の手は空を切り、私は暗闇に包まれるような吸い込まれるような感覚に襲われた。
あたし死んじゃうのかも。そう思った瞬間にギュッと目を瞑り手のひらを強く握り締めた私は、遠のいていく意識の中で何度も彼女に謝った。
有希、迷惑かけてごめん。悲しませてごめん。
そして次に目を覚ました時、目の前に広がっていたのは何もない大草原だった。
イラストを一茜様に描いていただきました。
ありがとうございます。