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「父上!どういうことです、兄上の探索を一月で打ち切るなど正気ですか!?」
控える兵士を振り切り、玉座の間へ飛び込んだクリスティアーノは悲痛な声で壇上の父を追求した。クリスティアーノは元来、思慮深く冷静な性質である。それをこのように声を張り上げて父に迫るということがいかにこの件が彼の心を揺らしているかを示してみせた。対して、父王の方はといえばクリスティアーノの問いに目を伏せることも眉を釣り上げることもなく、静かに口を開いた。
「岸には船の残骸が打ち上げられるだけ。かろうじて生き残ったものはいるようだが他の生存は絶望的であると報告が上がっている。……聞き分けよ。あの船に乗っていたのは何もセレスティアの民だけではないのだ」
「それは僕とて知っています。けれど、一月で打ち切るなど、王家のものに対する扱いではありません!」
「見つからぬものに割く労力はない、それだけだ」
「……見つけたくない、の間違いではないのですか」
クリスティアーノは父を尊敬している。しかし、その父が兄を自分のように可愛がっていないこともよくわかっていた。幼い頃は気が付かなかったが、長じて兄の置かれている状況を見れば誰でもわかることだ。初めは自分のせいかと思い己を責めたクリスティアーノであったが、どうやら、兄であるジラルディーノが遠巻きにされているのは彼が生まれてからずっとであるらしい。古参であるところの乳母の言うことには、なんと、兄には乳兄弟さえ当てられていなかったという。それを知った時、愕然として、そして悲しくなった。クリスティアーノの周りには常に誰かがいる。使用人だけではなく頼りになる侍従だって。だが、ジラルディーノには何一つない。まだ数多くの王の御子があるというならわかるが、この国の王子は自分と兄の二人だけだ。このような扱いの差があってはならない。もしかすると、父は兄のことを王兄として公爵位を与えることさえ考えていないかもしれないのだ。
クリスティアーノは、兄の顔をしっかりと見られたことがなかった。声をかけようとしても周りの人々がジラルディーノがクリスティアーノを害すのではと思い遠ざけるし、公式行事に出ても席は離せられる。兄、とこうして声に出してはいるが、当人に兄と呼びかけられたことさえ片手で数えられるのだ。だから本来なら留学の見送りがあって然るべきの出立の日、茶会があると言われて首を傾げたし、釈然としない気持ちで出席していた最中に脳裏に酷い光景を見てしまい慌てて飛び出した。
あの船は、難破する。遅すぎる予見に苦い思いをしながら引き止める声を置き去りに馬を走らせた。今更船を出すななどといえなかった、たどり着いてみればタラップが上がるところだったし兄はいつも通り不機嫌そうに周りを責めていたし、こちらの姿を見るや否や逃げ出すように船へ消えていった。それも、いつも通り。あんな風に兄を追い込んだのは自分のせいだと分かっている。だから、父の下した決断を許せなかった。
「……何故です。兄上は、僕と同じ父上の子でしょう…?」
「次代の王はお前だ。クリス。それとも、お前の目にはあれの居場所が見えたか」
「それは……」
自分と同じ赤い目が問いかける。これは先見の力を宿したものだけが知る事だが、何も王族は全てを予見できるわけではなく、国に関わる大事のみを視ることができるのだ。だから、明日の天気などというものはわからないし、今年の豊作は何かということもわからない。ただ、大きな嵐は分かるし、凶作の年はわかるのだ。何もかもを見られるわけではないが、王としてはそれで成り立つ。下々のものには全知の王と思われていればそれでよい。しかし、見たいものを見られないというのはやはり歯痒いし、辛いものだ。この目に映らないということは、ジラルディーノが難破することは立太子には関わりがあるけれど、行方知らずになったことはセレスティアにとって何も問題がないということなのだから。黙り込む息子を一瞥して王はゆっくりと息を吐く。
「話はそれだけか。では、退がりなさい」
「父上!」
すがりついても意味がないことは分かっている。けれど叫ばずにはいられなかった。だがその目が揺らぐことはない、この人にとって子とは自分だけなのだと思い知りクリスティアーノは拳を握りしめる。惜しみなく向けられた愛には感謝している。でも、そのひとかけらでもあの人に向けられるべきだ。しかしその想いは届かず気まずげな衛兵たちに腕を引かれ退出を余儀なくされる。静かに、されど重々しく閉じた扉に力無く俯いた。ああ、結局は届かないのかと。
「どうして……」
溢れた声はあまりに情けない。王子として許されないことだが飲み込むにはあまりに悲しい。要するに、父はこれから兄を死者として扱う事を躊躇わないのだから。血を分けたとは到底思えない。もし兄の目が赤かったらこんなことはなかったのだろうと、退屈なもしもを浮かべてしまうくらいにその断絶が苦しかった。無力さに項垂れていると外で待たせていたカイロスがそっと側へとやってきた。
「殿下。そう気を落とさないでください。私でよければお力になります」
「ありがとう。でも、問題はそこじゃないんだ。父……陛下が兄上の命を惜しまなかったことが、僕は……」
「殿下……」
クリスティアーノの漏らした言葉にカイロスは悲しげに目を伏せる。幼少の時分からの仲であるから、カイロスにはどれだけクリスティアーノがやるせない気持ちを抱えているかがよく分かった。この少年はどこまでも純真で無垢で、大人がいつか放り投げる理想とか正義を裏切らずに持とうとしている。人によっては鬱陶しがるものもいるだろうが、彼は一度としてそれを押し付けることがなかった。そんなクリスティアーノのことをカイロスは好ましいと思っている。しばらく思い悩んで眉を寄せていたクリスティアーノだったが、すっと顔を上げて軽く笑った。
「愚痴を言っても仕方がないか。僕が探すことは禁じられていないし、やれるだけやってみよう」
「隣国だけでなくもっと周辺諸国に範囲を広げてみましょう。もしかすると流れ着いていらっしゃるやもしれません」
「そうだね。君にも苦労をかけるけど、よろしく頼むよ。レオファード」
朗らかな笑顔に頷きかけて、ぴたりと止まりカイロスは主人に怪訝な顔を見せた。
「殿下、あんまりです。名を間違えるなんて」
「ん?間違えてたのは今まででしょう」
当たり前のようにクリスティアーノは言う。鎌をかけているわけではないことはわかっていた。カイロスは、レオファードは内心じわじわと焦りながら最適な答えを探すものの、次の一手にいよいよ黙り込むしかなくなってしまう。
「それともこう呼んだ方が君好みなのかな。大公の矢、サジタリアス卿」
いままで、クリスティアーノのことを好ましいとは思いつつもどこか物語の王子のような足のつかなさを感じていた。汚れのない、誰からも愛される天使のような男。御伽話のような存在は御伽話のようなこの国でだけ生きられるのだと内心侮る気持ちさえあった。だが、今目の前にいる男はどうだ。その浮いた存在のまま、こちらに真っ直ぐと目を向けている。レオファードは初めて、クリスティアーノを見くびってはいけないと感じたのだった。
◆
がたがたと安物の馬車が揺れている。腰が痛むわ酔うわの不快さに当初はひどく苦しんだものだ。だがそれでも平民からすれば歩かなくていいし馬の世話をしなくていいものだからなんだかんだと使ってしまうものなのだろう。そういう仕方なさをしっかり理解できる程度にジラルディーノは世に慣れていた。それに、これでも乗合ではないのだから幾らかばかりマシなはずだ。そんなことを考えながらぼんやりと車窓に目をやっていると、向かいからかかる声がある。
「その眼鏡は外す気ないの?」
「……」
「言い訳をするつもりはないですが、会話に応じるくらいはいいのでは?」
「……」
「もしかして、殿下は沈黙を気にしないタイプ?僕はわりと気まずいんだけど」
「……」
性根の悪さに比例するようにくるくる捻れる癖っ毛は鬱屈とした黒からくすんだ金へ変わっていた。ざっくばらんと切られた前髪は短すぎるわけではないが目はしっかりと見える長さになっている。流石にあのままはあんまりなのでいやいやながら手直しをすると器用ですね、なんて呑気な声をかけられたので全力で無視したのは昨夜の記憶になる。ある程度顔形はわかるようになったものの、鼻にかかる色眼鏡はそのままだった。もともと強い日光には弱い目だから、流石のレオファードもそれを取り上げはしなかったが、室内でくらいいのではという気は感じている。だが、ごめんである。髪とは違い用時に晒せばそれで済むだけの弱点を隠さないわけがないのだ。レオファードの戯けたわざとらしい声を無視していると小さくため息が聞こえた。ため息をつきたいのはこちらの方だ。
「なら、勝手に話すよ。殿下、ことが済めば貴方のことは解放します。あの街に戻りたいなら旅費の支援も。セレスティアに残る事を強制はしません」
「……」
「ねえ。眼鏡かけててもわかるから。今胡散臭いって顔してるよね」
嘘をつけ、という顔で一度だけ向こうを見た。こういう時、感情を出さないような訓練もしたことがあるがジルであることを選んだジラルディーノが持ち続けても意味のないものだ。何故か呆れ顔のレオファードから視線を外し、ジラルディーノは億劫に窓の外を眺めた。どうせ見たいものもないのだけれど。
「当たり前だ、これは殆ど拉致だぞ。ギルドに話をつけていても私の同意はない。お前は私を脅迫してあの国へ連れて行こうと言うわけだからな」
「殿下は人の言うこと聞いてくれないでしょう。現に責任からも逃げていたではないですか」
「得がある話なら聞く。ジルは商人だからな」
「戻りたいですか?ただの、モグラのジルに」
「違う。もうとっくにただのジルだった、それをお前が墓を暴くようなやり方で滅茶苦茶にしたんだ。そも、あの王宮に私の居場所はないぞ」
「そんなことはありません。殿下、クリスティアーノ様のことを甘く見ない方がいいですよ」
聞き捨てならない言葉にレオファードを睨みつける。確かに前半は正論だ。一人きりで生きてこられたわけではなく、王家としての権利でわがままを通してきた。だが、実際ジラルディーノがかけられてきた金をいざ民に還元したとして、劇的に生活が豊かになるわけではない。一人の贅沢は、一人の贅沢でしかなく、その金があれば庶民はだとかなんだと言われたとしてその投資を民一人一人に配ってまわれば銅貨一枚にもならないのだ。そして、数世帯の家族が一生生きながらえようと、そっと息絶えようと国全体として「さしたる価値はない」のだ。人など、金があってもなくても自然と死んでいくのだから。そこをあえてスルーしてジラルディーノに国の革命の一助をさせようというのだから、レオファードの言葉などに耳を傾けてやる義理はないのである。しかし、最後の一言だけは素通りできない。
「馬鹿が。私が、いつ、アレを見縊ったか。あいつは私の手が届かなくて当然。いいか、私が言いたいのはもう王家の人間としての務めが果たせないということだ」
「そうかな。公務はこなせると思うけど。殿下って実際――って、えっ?」
何かに思いを巡らせようとしたレオファードはぴたりと固まる。流石に察しが悪いわけがない。国のために尽くすなど平民でもできることだ。セレスティアの王家として重大なことはたった一つだけ。より優れた時代の王を残すことで。
「私は種無しだ、薬学を齧ったのは生活のため。最初にすることなど決まっているだろう」
「……嘘だ、そこまで?」
レオファードは大きく目を見開いて、やや口端を引き攣らせた。王族としては正解と言えるが、人間としてそこまでするか、と思っているのだろう。だが憧れるほど幸せそうな夫婦というのにジラルディーノは馴染みがなかったし、そこにクリスティアーノがいなくても自分が選ばれるとは思ったことがなかった。だから、自分の生活がおびやかされることを考えたら真っ先にそれを捨てられた。まぁそういう処置のために煎じた薬で高熱にうなされる羽目にはなかったが、逆を言えばあれだけ高い熱が出たのだし成功したのだろう。実践していないので事実はわからないが、少なくともそのような効果のあるものを飲み、それのさようと思われる効果も苦しみながら味わったのだし、ある程度の影響は出ているはずだ。カイロスがやってきた時、大袈裟に無理無理と言ったのにはこういう理由がある。ジラルディーノは薄く笑った、今自分は意地の悪い顔になっているだろうかと思いながら。そんなジラルディーノの顔にレオファードはゆっくりと驚きを鎮め居住まいを正した。
「……もしや、殿下も未来が見えていたのではないですか?」
「迷信は信じないのだろう。答える義理はない」
「なら、見えたと言う体で。どうして好かれるように動かなかったのです?」
いつかポーションのことでも似たようなことを言われたとうんざりした。この男は何もわかっていないのだなと呆れて息を吐く。前回は騒ぎまわった、今回はその反省に静かに平穏に死ねたらと願っている。どうせあの城にいても父には厄介がられ、仕えるものたちにも薄らと侮られる。どうせ淡色だと何をやったとしても評価は下る。幼き日のジラルディーノはクリスティアーノが生まれやにわに変わった城の空気を肌で感じて、死ぬような気持ちであったのだ。だからこそ、馬鹿な悪あがきをした。目が無くても出来ることをといろいろやたらめったらに手を出して、結局、現実に打ち砕かれたのだ。人がいいことなど、あのクリスティアーノの前では何の役にも立ちはしない。
「お前、あれを甘く見ないほうがいいぞ」
本当に馬鹿馬鹿しい。みくびっているのはどちらか。側近の座に在りながら、実際頭の弱い国の王子だからと本気で踏み込んでこなかったことがいっそ露骨に浮かび上がる。視線は窓の外に向けながら、ジラルディーノはそこにはいない弟の顔を思い浮かべていた。
「クリスティアーノ・ルブルム・セレスティアは唯一無二で、完璧な王なのだから」
吐き出した言葉はジラルディーノにとっての呪いの源であったのだ。