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ジラルディーノはテーブルに出されたティーカップに露骨に顔を歪め、じろりと背後を睨め付ける。元々人相の悪い彼の視線は威圧しようと思えばその通りの効果を示し、使用人の肩を大袈裟に竦ませた。
「…ほう。最近の城中は冷めた茶を出す流行でもあるのか?」
「も、申し訳ございません」
ティーカップから湯気は立ち上っていなかった。仮にも第一王子に対して職務怠慢であることは否めないが、この紅茶はジラルディーノが急にもってこいと言い出したもので湯を沸かす余裕もなかったのだ。沸かしてから持ってきたとしても遅いと癇癪を起こしていたに違いない。それに、この城に第一王子のために湯を沸かすものはきっと殆どいなかった。もうここにいるほとんどの人間は、クリスティアーノのための命なのだから。
それを知っているジラルディーノはこれ以上なく柔らかに目元を緩ませて微笑む。
「良い、良い。私は寛容だ、お前にも思い悩むことはあろう…優しい第一王子の専属になれたらいいのに、とかな」
「それは…っ」
「うん?どうした、そのように顔を青くして…あぁ、なるほど。病があるのか、それで城に仕えるのは辛かろう、職を辞して養生に努めてはどうか」
「め、滅相もございません!」
これ以上なく顔を青くした使用人にジラルディーノの哄笑が降りかかる。これはセレスティアの城のいつもの日常だ。ジラルディーノはいつも引きこもっているくせたまにふらっと外へ出てきてはストレス発散がてらに周りに当たり散らす。幼少の頃は正妃の発狂のこともあって大目に見られていたが、今となっては彼自身への嫌悪感の方が強いことは明白であった。
それでいい。ジラルディーノは冷えた心でそう呟いた。
嫌えよ、もっと。笑顔さえ貼り付けることも出来ないのなら、薄っぺらい哀れみしか与えてくれないのなら憎んでこの命などなければよかったのにといつか忘れきってくれ。そうすれば、いつかきっと、自分が王子だったことを忘れられる日がくるのだから。
「失礼します、ジラルディーノ殿下」
「何だ、私は機嫌が悪い。あぁ、お前でもいい。さっさとこの給仕を叩き出せ」
「……国王陛下がお呼びでございます」
「…は?陛下が?」
急にやってきた何代目かの執事は冷たい声でジラルディーノに告げた。思っても見なかった呼び出しについ、ぽかんと口が開く。父王からの呼び出しなぞ一度もなかったのに、そう言いかけて口を噤んだ。そうだ、もうリミットはすぐそこに迫っていたのだ。
「ジラルディーノ・セレスティアが参りました」
「許す、入れ」
その声に情のようなものは感じられない。当たり前のことなのにまだ期待する自分がいて嫌になる。開かれた扉の奥、謁見の間の玉座には赤々とした目の国王がこちらを睥睨していた。それを見たジラルディーノが前へ進み重々しく膝を突く。こういった礼儀は流石に崩せない。
「…国王陛下におかれましては大変ご機嫌麗しく。ご壮健のこと謹んでお喜び申し上げます」
「口上はよい、面をあげよ」
「………いえ、恩赦に及びません。拝謁の栄に与り陛下のお言葉をも賜りましてこれ以上は我が身に余ります」
その言葉に周りの空気がどよめいたように感じた。当然だ、顔を上げてもいい、と言う許しではなく命令なのだから。それを拒んだということで動揺があるのは普通のこと。むしろ無礼を働いたジラルディーノに非があるのだ。
(顔を上げてまであの冷めた目を見ろというか。御免被るな)
けれども、それを拒否したのは己の心を守らんがため。顔を上げてもそこにあるのは民を見るよりも冷たい眼差しなのだから。
思えば、父と呼ぶことを許されたことなど「前」も「今」も一度も無かった。全く滑稽だ、それなのに全てクリスティアーノが奪ったなんて勘違いをして。最初から何も持っていなかっただけなのに。砕けきったはずの心がじくりと痛んだ心地がした。奥歯をきつく噛み締めると国王の声が耳に届いてきた。
「…ならば、よい。ジラルディーノ、お前も17になる、見聞を広げるために留学をするつもりはないか?」
そうだ、これを伝えるためだけに国王はジラルディーノを呼び寄せた。その程度のこと、執事から伝達させればいいのにわざと伝えたのはジラルディーノ不在の間にクリスティアーノに王太子の儀をさせるためだろう。その時に騒ぎ立てるかもしれない第一王子を厄介払いしたかった。だというのに、前回のジラルディーノは期待をかけられているのだと舞い上がったりなんかして、本当に愚かだ。
「はっ…勿体なきお話にて。陛下が私にと慮ってくださったことであれば是非に」
「そうか…そうか。では一年後にどうだ、少し性急な話ではあるがな」
「謹んでお受けいたします」
性急さの理由はもう問うたりしなかった、ジラルディーノは顔を伏せたままゆっくりと口角をあげる。笑おう、こうして答え合わせをしていくのは辛くはあるがやっと自由の日がここに迫ってきていたのだから。
「…よし。となればいよいよ最終準備だな」
自室に戻ったジラルディーノは窮屈な礼服を脱ぎ捨てて城下用のラフなシャツに袖を通した。もっとも素材は最高級品で、見る人間が見れば高位の人間であることはわかる。それでも正体が知られなければどうでもいい、なにせ国民さえジラルディーノのことなど興味を持たないのだ。わざと伸ばした前髪を下ろして目元を隠す。念のためにキャスケットを被り、鏡を見つめる。
金髪など特段珍しくはないが、徹底するなら染めるのを考えるべきかもしれない。そう考えて部屋を出ると、ばったりと使用人に出くわしてしまった。
「…で、殿下?!どちらに行かれるおつもりで…」
「あぁ、今日も予定はないからな。市街に降りる、護衛は不要だ」
「な、なりません!殿下!」
引きつった表情の男に冷ややかに返してジラルディーノは先を急ぐ。構っていられる余裕などもはや無い。
(追ってこないくせに。三文芝居め)
実の所、成長してからは城下に降りることは少なくなかった。今後の目標は市井に下りて違和感なく庶民に溶け込んで商人としてして暮らすことだ、前回の記憶があるとしても難破時になんとか持っていた身銭を切り崩し適当な人間に命令をして暮らしていたくらいなので真っ当な暮らし方などろくすっぽ知らないのだ。
その為の事前学習ではあったが、一度として誰かが付いてくることは無かった。仮にも王族であるというのに。
「…と、言うわけで頑丈で軽く、衝撃を受けても中の物が壊れない、そうだな…あまり大きくない鞄を作ってもらいたい」
「はぁ…」
「納期は一年。この硝子道具が割れないことが必須だ、出来るな」
「申し訳ございませんが、お客様。それはかなりの手間がかかるか…金額が抑えられなくなるかと」
「値段など知らん、これで間に合わせろ」
「はぁ……ひっ!?」
無茶な注文に眉を顰め、店主は注文を断ろうとした。だが、貴族風の男が首から引きちぎりってよこしたそこに輝くのは人の目ほどのブラックダイヤモンド。大粒で希少価値の高いそれがどれほどの価値を持つものか、ともすれば一生を生きても余るかもしれない。よく見ればほつれたペンダントチェーンも質の高いものだ、これひとつあっただけで暮らしは文字通りに変わってしまう。
店主は思わず唾を飲み込んだ、それは目の前の巨万の富ゆえではなく、これは命令よりも上の脅迫ということを理解してしまったからだ。
「どうした、それでも出来ないと?」
「そ、そんな!それに、こんな高価なもの…!」
「あぁ、勿論釣りは不要だ。ただし…それがどういうことかわからんわけではあるまいな?」
「は、はい……!確かに!確かに承りましてございます……!」
◆
レトルトをしまってぱたんと鞄を閉じる。やっとこさポーションを作り終えたが、これは銀貨をもらって当然の仕事をしてしまったように思う。実の所へそくりは唸るほどあるので生活には困らないのだが、溜まった疲労を考えると無賃労働にため息をつきたくなった。肩を回していると、湯から戻ったカイロスがジルに淡い苦笑を向ける。
「ジルさんの道具箱は本当に良いものですね」
「でしょう、父親の形見なんですよ」
「…へ、へぇ…ジルさんには父君がいらっしゃるのですね…」
「いますよ、なんせ人間ですもの」
しれっとした顔で躱すジルを曖昧に見やり、カイロスはそっと口を開いた。
「…家族といえば、イグレーン・セッツァいう女性を覚えていらっしゃいませんか?」
「え?………えーと、どこかで」
「…ン、ンンッ」
「…………………………あぁ!婚約者!…ジラルディーノ殿下とやらの」
「長すぎませんか、間が」
「他人ですし。で?そのイグレーン様がどうしたと」
「私の義姉です」
「ぶっ」
思いもよらなかった言葉に噎せ返るジルにカイロスは慌てて背をさする。だが仕方あるまい、たかが弟の側近の1人くらいにしか思っていなかった相手がかつての婚約者の義弟とあっては。まぁほとんど会話をしてこなかったから情報がなくて当然ではあるのだけど。落ち着いたジルは背後を振り返ってたまらずくってかかった。
「あ、あの…大丈夫ですか?」
「ゲッホゲホ、だ、大丈夫なわけないでしょ!オレがカイロス様を覚えてるかどうかよりそこ最初に言うべきだったと思いますけどね?!」
「そ、その…そんなに認識されていなかったとは思わなかったので…」
「…ジラルディーノ殿下は残念だってご存知ないんですね」
弱ったカイロスから視線を外して、ジルはがしがしと頭をかいた。今更婚約者の話が出てくるとは思わなかったが、国の状況を受けて面倒な状態になっているだろうとは流石にわかる。対して情もない相手だが念のために聞いておくことにする。
「えーと、イグレーン様を持ち出したってことは…その方が怒り心頭とかそういう…」
「いえ、その、確認というか…殿下は本当にセレスティアに欠片も未練がないのですか」
「…無い。私が愛などの為に故国を救えるような真っ当な人間だと思うのか」
「私は…殿下に土を持ってほしいと思うのです」
そういうことか、とジルは落胆から溜息を吐く。イグレーンを愛しているならこちらを動かしやすいとでも思ったのか。ろくな交流をしてこなかったことは義姉から聞いていてもよさそうなものだが。下らないと吐き捨てて再び振り返ると、カイロスの真摯な眼差しが体を貫いた。
「貴方は根無草だ。あの国で商人をしていても本質ではどの輪の中にもいなかった、違いますか」
真っ直ぐな声と指摘にジルの瞳が揺れた。カイロスはたった数日の間にジル、いや、ジラルディーノの虚構を見抜いていたのだ。
どれだけギルドの人々と軽口を叩いても、懐いてくる少女の頭を撫でてやっても、ジルの振る舞いにはおよそ芯というものがなかった。自分を偽っているせいではない、かつての城を忘れられない怯えゆえの曖昧さだ。都合よくあろうとするのは、都合が良い限り見捨てられないから、優しくするのは、追いやられないために。ジルという青年は人の輪の中にあるようで、その実一歩後ろでそっと声を上げるだけの存在に過ぎない。ここで生きていこうとする覚悟と熱意がまるでないのだ。そうやって距離を置くことで与えられるかもしれない痛みから逃げ続けているに過ぎないのだと、カイロスははっきり口にした。
「……それの、何が悪い」
「え」
対するジラルディーノの口から零れ落ちたのはあまりにも暗い声であった。目を見開いたカイロスが見たのは、長い前髪の隙間からこちらを睨みつけるあまりに鋭い眼光。
「拒み続けることの、何が罪悪だという、土を持てだと?笑わせるな、よもや雑草の類を抜いたことがないと?あぁ、そうだろうな!あらゆるものを持ち続けるお前達は!」
「殿下」
「…なるほど、イグレーンの義弟か。あれは私に逃げているといった、そしてお前も。半端な憐みを寄越すなと言った筈だが、憐みしかない頭ならそれも遂げられまいな」
「違います、殿下…!」
「黙れ!!何が違う!!」
怒鳴り声が部屋の壁を叩いた。怒りに握揺れた肩はこれ以上ないほどにカイロスの指摘が正しいことを示した。そして、踏み入るべきではなかったジラルディーノの心に踏み入ってしまったことまでも。
「…やっと、はっきり分かった。私は、お前が嫌いだ」
そう吐き捨てて、ジラルディーノは部屋を飛び出したのだった。
ジラルディーノの本来の一人称は私でジルを作っている時だけオレになります。私の方が素、ワタクシはいわずもがなふざけているだけです。