5
強い陽の光はジラルディーノの目にはやや毒だった。だから「前回」だって「今回」だって彼は室内にいることを選ぶほかない、けれどどうしても外にいなくてはいけない時もあるものなのだ。
ガラス張りの東屋に相応しくない毒薬学の本を読んでいると、ふっと白いページに影がさした。それにジラルディーノは顔を上げることなく白銀製のブックマーカーを挟み込み本をテーブルの端に置く。
「…来たのか」
「殿下の御招きですもの」
「あぁ、断れないだろうな、お前は」
澄んだ声音は美しく、それだけで少女の器量良しを理解できるものであったが、彼はうんざりと伸びた前髪をかきあげて完璧なカーテシーを熟す姿を眺めた。これもまた、手放すもの、あるいは最初から自分のものではなかったもの。自分の性別が分かった段階で決められた婚約者、当然のように情はなく惜しむつもりもない。感情のない顔に鼻で笑って行儀悪く肘をつく、いくら義務上の会談といってもエスコートもしなければ立ち上がりもしない。誰が見ても眉を潜める非礼を前に何処までも彼女の表情は凪いでいた。
「義務など面倒だろう。何なら今からでも別の男の屋敷に行っても構わないぞ」
「…殿下、御言葉ですが、それは不貞をしろと仰っていますの?」
「ン?まさか相手がいないのか?はぁ、女とは悲しい生き物だな、貞淑さなど金にもならないだろうに」
顔を歪めて嘲笑ってもその女は眉一つ動かさなかった、それにやや調子を狂わせながらジラルディーノは大袈裟なほどに顔を逸らす。得てして貴族の女は感情を隠すのが上手いものだがそれでも嫌われているという確証がほしい、周りの好感度は低ければ低いほどいいのだし。
「取り繕うな。どうせお前も私より第二王子の婚約者になりたかったと思っているのだろう」
「…私は」
やや無理のある話の振り方だったが、短慮な男と思ってもらえればそれでいい。女の唇がゆっくりと開くのを無視して、なお硝子の壁の奥を眺めているとこちらに近寄る影があった。
「…!」
使用人ならいい、だがあの姿を間違えるはずもない。日に照らされて黄金の如く輝く髪、すらりとしながらも鍛えられていることがわかる四肢、遠目からでも分かる整った顔と、赤い、目。
普通婚約者同士の会談には誰も割り込まないのが筋だ、それが分からないクリスティアーノのはずはない。だからジラルディーノのような浅はかさでこの東屋に近付いているのではないだろう、外でもないジラルディーノの家族として、いずれ義理の姉になる女へ挨拶をしようとやってきているのだ。それならば無礼ではない、クリスティアーノのことだから自分の兄の許嫁に横恋慕などしないだろうし純粋な好意でここにくる、そうしたらこの女はどうするだろうか。座って話でもしようと促すのではないだろうか、その想像が脳裏を掠めた瞬間ざぁっと血の気が引いた。
置いた本を手に取って慌ただしく立ち上がる、視線はすでに城の中。向かうは自室だ、あの弟と会話をするなんてそんなおぞましいことができようものか。
「…気分が悪い、自室に戻る」
「逃げるのですか」
「何だと…?」
「そのような分かり切った嘘を私が信じるとでも?殿下はクリスティアーノ殿下が恐ろしいのでしょう」
「黙れ!」
本心からの苛立ちに声を荒げると、女は軽く肩を揺らして押し黙った。
その通りだ、ジラルディーノはクリスティアーノが恐ろしくてたまらない、何をされたのでもなく何をされるでもなくてもその存在があることで自分が陰日向の者だと突きつけられるのが恐くて堪らないのだ。嫌われたい、そしてこの城から出てもう帰らないでいい身になりたい。そう願っても心の底では追いやられる境遇にどうしてと叫んでしまう、他ならぬ自分が悪いことを理解していても受けいられるものではない。だって、生まれてきてしまったことに罪があるなら、何をどうやってやりなおしたらいいのだろう?
競り上がる苦い気持ちを飲み干して、ジラルディーノは婚約者からまた顔を逸らした。
「…退がれ、不愉快だ」
「…かしこまりました」
それからは後ろを振り返らずに真っ直ぐ走って自室に戻った。彼を追いかける足音は幸運なことに聞こえてはこなかった。
◇
「はぁ、ついてない」
「もとより一月の旅程です、少し早い休憩と思えば」
「でもこんなに陽が高いんですよ、まだ全然いけました!」
「そ、それは、まぁ…」
ジルがずびし、と頭上に輝く太陽を指差すと、カイロスはかなり気まずげに目を逸らした。馬車のトラブルがあったせいで2人の旅は仕方なく小休止を挟むことになったのだ、この町で新しく御者を雇うつもりだったのだが生憎出払っていて戻るのは今日の夜になるという。夜から馬車を走らせてもいいとジルは主張したのだが、カイロスの御者とジルの負担になるという説得でなかなか引き下がるしかなかったのである。ジルは不満を顔に出したままやれやれと頭を振った。
「ふぅ…過ぎたことを言ってもしょうがないですね。とりあえず宿を取って酒場にでも行ってきます」
「お供いたします」
「アナタサマのようないかにもお坊ちゃんって感じの方が酒場に入っていいわけないでしょうが、確かに腕っ節はないですけど逃げるくらいは出来ます」
「しかし、殿…ジルさんを1人にするわけには…酒なら店で買ってきましょう」
「あのねぇ、情報収集に決まってるでしょう」
「は…」
ジルが呆れながらに睨むと、カイロスはぱちりと眼を瞬かせ慌てて頭を下げた。
「あ、し、失礼しました!その…」
「オレにそんな知恵があるとは思わなかったですか?」
「違います!あの…その、国の事を考えてくださったことが嬉しくて…」
「違いますからね!とっとと自分の家に帰りたいだけですから。カイロス様が片付けたら絶対帰してくださいよ」
「…はい」
声を荒げて念押しすると、ジルの睨みにカイロスは淡く笑って頷いた。何をしても好意的に解釈されているような気がして座りが悪い。まるであの弟の様な男だとジルは思った、だからこそ従僕が務まったのかもしれないが。鬱陶しい髪をかき回し、ジルはカイロスとそのまま別れることにした。
ささくれだった重い木の扉を押し開けると、まだ日没だというのにジョッキを煽る人々が見えた。バーカウンターに立つ強面の男はジルをチラリとみると適当に座れというように顎をしゃくった。愛想も品もないがそんなものはとうに慣れっこだ、軽く肩を竦めてカウンター席に座る。
「エール1つ」
「…ほらよ」
空のジョッキに乱雑にエールが注がれて、これまた無愛想に突き出される。それを一度ちろりと舐めてジルはにっこりと少しばかり胡散臭い笑みを店主に浮かべた。すると面倒そうに目を眇めて、店主は腕を組む。
「…旅人か?」
「商売さ。買い付けがある、国境まで行きたいんだが」
「やめときな、知らねえのか?セレスティアの話」
「あぁ、なんか好色な王が好き放題ってやつ?今時御伽噺でもなし」
「そうだったらよかったんだがな、西は難民で溢れてやがる」
「そんなひどいのか」
「傭兵が食うに困らんくらいにはな」
ふぅん、と気のなさそうな相槌を打つ。まぁ国民がさっさと見切りをつけているのはいい、判断が鈍いのは生き物として欠陥品だ。とはいえ不正入国に追われる国境の役人も、あっちそっちと護衛を頼み込まれる傭兵もそこそこに困るだろう。
「…しかし、噂が立ってまだ少しじゃなかったか?それですぐ流れてくるもんかな」
「警告がなかったそうだ」
「…警告?」
「隣の国はけったいな王を立てる、それで水害だの飢饉だの対策を立てられていたんだが、それがなかったとさ」
「はぁ、そいつはまた甘ったれた国民だな、お上のお助けがなきゃ何も出来んような輩が流れて来られても困るだろう」
「まぁな、自立してほしいもんさ」
確かに、あの国はそうして成り立っていた。侵略を企てる他国、天災、あるいは凶作。そういったものを王家の赤い目は予知しそれを避けて安穏とした歴史を続けていた。だから常に国民は平和ボケをしている、上に任せておけば万事上手くいくと明日が当たり前に来るのだと笑っていた。それが間違いだと突きつけられたのはどれほどの衝撃だったろうか、まるで神のような王族達は馬鹿らしくも女の取り合いをして下々の暮らしを守りもしなくなったのだ。
鼻で笑ってやりたかったが、ジルはどうしても違和感を拭えなかった。あの完璧に満たされていたはずのクリスティアーノがそんな過ちを犯すだろうか。たかが、肉欲ごときで全てを捨てる男だったのだろうか。
「ところで兄ちゃん、あんた薬師か」
「…え、何で?」
「爪だよ、薬草に触り続けてるやつはそうやって薄く黒ずむし、どうしたって手も荒れる」
「ハハ、よっ!名探偵!…どれくらいほしいんだ?言っとくが難しいのは困る」
「ポーションを頼む、あとは熱冷ましでもありゃあいい」
「…なるほど、傭兵は休む暇なしと」
考え込んでいたところに話しかけられジルは首を傾げる。その間抜け面に店主は目線だけでジルの爪の先を指した、確かにやや荒れているがよほど人を見てきたのだろう。苦笑して降参とばかりに頭を振る、やたらと情報をくれたのもそういう事情らしい。
「えっ、と、ジルさん?」
「高い代金をふっかけられたもので」
宿に戻ったジルが部屋に入ってくるなり鞄を開けて薬を調合しだしたために、カイロスは目を丸くした。作業の手を止めずにジルは淡々と口を開く。
「カイロス様はご存知かと思いますが、難民が出ているそうですね」
「…はい、道すがらお話はしようと思っておりました」
「はぁ、無駄働きしてる……」
「それでも薬をお作りになるのですね」
情報料と納得して軽く頷くと、カイロスが少しだけ悪戯に微笑みかける。それを視界の端に捉えながら、ジルは少し苛立った声を上げた。
「何を思っているかは知りませんが、オレは傷付いた傭兵どもなんてどうでもいいんですよ、ただ世の中対価は必要だからやっているだけです」
「対価、ですか」
「やったこともやらなかったことも自分の身に返ってくるだけです。ここでオレがトンズラしたらば悪評が流れるでしょう、商人は信用が第一なんです」
まぁ、確かにこの程度の情報をわざわざ集める理由はなかっただろう。カイロスに尋ねれば詳細までも語ってくれたに違いないが与えられた情報と自分で得た情報は真偽を問わず天と地ほどの違いがある。何故ならジルはセレスティアの内情を何も知らないのだ、だから全てを素直に受け止めることは危険が大きい、偽の情報であったとしてもそういう噂が流れる何かがあるとの推察は出来るのだし。
そもそも、カイロスを信用などしていない。クリスティアーノの侍従というならそれはすなわちジラルディーノの脅威だ、向こうは何も思っていなくても王家に繋がるものはなんだって恐ろしい。離れていれば殺されることはないが、近づけばよくて追放だろう。自分をいらない人間だと理解はしても、わざわざ突きつけられたくもない。
出来上がったポーションの一本目を陽にかざす。不純物はあまりない、中の上、あるいは上の下。こんな風に評価できるものであれば救われただろうに。
「まー適当な量作ったらそれで終いにはしますけどね、薬草だって大量に取れば園藝師の領分を侵すことになる」
「…なるほど。ところで殿下、そのポーションをどなたかに贈ったりはなさらなかったのですか?」
先程の言葉を聞いていなかったのか、ポーション作りはジルの好意や優しさによるものと勘違いしているらしいカイロスが小首を傾げる。なんだかんだといいながら見捨てられない、そんな真っ当な善性を期待する目の前の青年に視界が一瞬赤くなった気がした。
「…オレは殿下じゃありませんけど、何ですかそれ、薬草王子?ポーションなんてモノ、王宮にいらっしゃる医療に困らん輩に渡してどうなるんです、あら優しくて素敵ね〜って持ち上げてもらえるんですか?」
「あ、いえ、その…」
「そういう、昔から優しくしておけばよかったんだって言い方癪に障ります、クリスティアーノ殿下が慈愛の方ならアナタサマもそうなんですね」
「そんなつもりは」
「なら黙ってください。中途半端に憐まれるならどうとも思われない方がずっといい」
優しかったら、恵んでいれば何か変わっていたというのだろうか。そんなことをしたところでクリスティアーノが1番に望まれる未来は変わらない。出来の悪い二番手、特別目を見張るわけでもなく愛されるわけでもない。恵まれたものは知らないのだ、当たり前に思う才覚の一片さえ凡人がどうあがいても掴めないものということに。
視線を落としたまま吐き捨てた言葉が部屋に落ちて数秒しん、と静かになる。ジルが気がついたときにはすでに空気は冷え固まっていた。カイロスは両手を握りしめ顔を硬らせたままに頭を下げる。
「…申し訳、ありません」
「……いーえ、オレも自分のことでもないのに熱くなりすぎました。どうぞ、お湯でもいただいてください」
「そんな、ジルさんは」
「水浴びだけで十分です、平民育ちなものですから」
流石に気まずい。ジルは体よくカイロスを追い払おうと軽い調子で扉の外を指さす、顔は相変わらず背けたままに。しかしカイロスが動き出す気配も無いので恐る恐る視線を動かすと、なんだか釈然としないような表情でジルを見つめていた。
「……」
「…何か?」
「あ!い、いえ、なんでも。しかしその…水浴びというのはどうかと」
「いいんですって。私生活に口出さないでもらえます?」
「は、はぁ…では、その、お言葉に甘えて…」
気後れした様子を隠さずにカイロスはゆっくりとドアノブに手を掛ける。このままでは押し問答と分かってくれたか、ジルは心の中でそっと安堵のため息をついた。自分の器は全く大きいわけではない、特にジラルディーノのらことになれば尚更だ。だから頭を冷やすためにも一度時間を置きたかった。
それに、カイロスは珍しくも風呂付きの宿を取ってくれていたがそれを利用できない理由もある。一度首を回してジルはポーション作りを続けるべく手を動かした。
ぱたん、と静かに閉じたドアの向こうでカイロスは顎を撫でる。その表情は、ジルにいつも見せる人好きのする善良な青年とは少し色が違っていた。
「…髪、か」