13
物心ついた時から、周りにいる人はみんな優しかった。少し肩を縮こませるだけで上着を羽織らせてくれたし、完食した皿を見つめているとおかわりはいるかと聞いてくれた。知りたいことがあると聞けば、翌日には専門家を手配までしてくれた。いくら幼くとも、そうして丁寧に育てられれば気にもなりクリスティアーノはある日、優しく髪を漉く乳母に問いかけた。
「ねえ、どうしてみんなは、ぼくにやさしいのかな」
「まあ」
その問いに一度瞬きをしてからふんわりと乳母は目を細めた。利発であるといってもまだまだ幼いクリスティアーノが少し困ったように見上げて尋ねるのはとても微笑ましく、つい我が子にするようにそっと滑らかな金糸を撫でてしまう。
「そんなの決まっています。皆王子殿下が大好きで大切だからですわ」
「じゃああにうえは?なんでみんなやさしくしないの?」
「それは」
クリスティアーノは乳母が浮かべた微笑みがぎこちなく歪むのを見て、眉を寄せた。聞きたかった答えではないが、こう言うのだろうなという予想はしていた。自分は多くの人々に愛してもらえている。それは照れ臭くもありがたいし、向けてもらえる好意には誠意をもって応えたいと思っている。けれど、クリスティアーノは、自身に向けられている好意が居心地の良いものではないことも齢5つにして勘づいていた。乳母の目が辿々しく動き、先程とは違う硬い笑みに変わることにまたひとつ悲しい気持ちが積み上がる。
「ジラルディーノ王子殿下は気難しいお方なのです。一人を好む方で、我々のことは……」
「おかしいよ。あにうえがそういっても、おうぞくをひとりにしていいの?」
「あ、ええと……」
例えば。当代の王が相当の好きもので子が二桁もいるのであれば放っておかれる兄弟もあるだろう。けれどクリスティアーノは侯爵家出身の正妃に対し、伯爵家の出の側妃から生まれた第二王子。長幼の序でいっても、国内の影響力でいっても本来であれば、ジラルディーノに及ぶ身の上ではない。それを易々と飛び越えてしまえているのは、ひとえにクリスティアーノの持つ異能ゆえだ。それだけでこのようなら待遇であることを、聡明なクリスティアーノはただしく理解していた。クリスティアーノの疑問に、乳母を含めた部屋にいる家臣たちすべてが目を逸らした。それをしっかりと視界に収めて、そっとひとつため息をつく。やはり、その目が赤いだけで自分は愛というものを受け取ってしまっているのだ。
「もう、いいよ。こまらせてごめんね」
苦く笑って会話を打ち切ると、ほっとしたような空気に部屋が緩んだ。それにまた悲しみを覚えながらそっと瞼を閉じる。物心がついてから一度も言葉を交わしたことのない兄。式典を体調不良で休むのは仮病だとそろそろわかってきた。自身の誕生日パーティーでさえ、最低限の顔見せが済めばすぐに下がってしまう。ひとこと祝いの言葉をかけたいだけなのに、本人のそういった行動と周りがそれとなく引き留めてくるために、一度も接触が叶わずにいた。わかっている、自分は兄に疎まれている。当然だ、本来彼が受け取るべきものだったものを、自分だけが独占している。怒りをぶつけられたとしても理解できる、そこを関わらないという選択をしているぶん理性的だ。
(……ううん。ちがう。きっと、はなしたくないほど、あにうえはぼくがきらいなんだ)
視界にさえ入れたくないほど、嫌われている。それをしっかりと認識していてもクリスティアーノは己の兄を同じように嫌うことはできなかった。そもそもとして、嫌うような理由がないし、嫌えるほど彼のことを知らない。それに、ジラルディーノは「本来あるべきだった自分」だ。他国であればきっと彼が王太子であっただろう、クリスティアーノも対抗派の貴族に持ち上げられて王位継承権のいざこざがあったかもしれないが、それでも今よりはずっとまともであったろう。だから兄を嫌うことも、蔑むことも出来はしない。本当なら憐れみさえ向けてはならない。けれど、それでもやはり想うことをやめることはできそうになかった。それが兄の心をまた追い詰めることになると理解していてもどうにかあの孤独を救えないものかと考え続けた。そんな日々を積み重ねてはや幾年。兄との溝は一方的に深まるばかりであった。聞けた言葉の中で一番長いのは「気分が悪いから退がる」である。
「悲しいなぁ…」
「また、第一王子殿下のことですか?」
しみじみと口に出してティーカップを口に運ぶと、対面に座っていたカイロスが苦く笑いながら首を傾げた。彼との付き合いも随分長い。気心の知れた仲、と言うには色々問題があるが、クリスティアーノの方はカイロスの方に全幅の信頼を置いている。丁寧に淹れられた紅茶を静かに味わい、ほっとひと息をつく。音の立たないようテーブルにカップを戻しつつ、クリスティアーノは小さく首肯した。
「それ以外で悲しいこと、あまりないから」
「そう、なのですか?」
「民の苦しみのことを聞きたいなら、それは辛いこと、だよ。万人が幸福である国なんて実在すると思うかい」
「それは……しかし、殿下であれば」
「どこまで行っても最小の幸福だよ。だから常に努力を求められるし、それに応える義務がある。夢は叶わないから夢、なんじゃない。叶わない夢は至れずとも諦めてはいけない目標であるべきなんだ」
誰もが笑顔で暮らせる国などありえない。万人を救う天国はなく、万人を苦しめる地獄はない。ただ、大半がそう思うものはある。為政者として「最低限」目指さなくてはいけないものはそこである。そして、国難を予見できる異能があるのならば尚更善政を敷かなくてはならない。予見を伏せて私欲に耽れば無能な王と引き下ろされ、予見自体ができなければ王として立てられることもない。セレスティアが長く平和であるのは王に余分が許されないからだ。しかしそれでも完璧に回すのは難しい。どうしても国の片隅には今日の食事に困り腹をすかせる貧しい子がいるし、医者にかかれず命を落とすものもいる。クリスティアーノにできるのは予知だけだ。よく学び、経済の素晴らしい仕組みを作っても金は無限にあるものではない。人間が社会を作る以上、下級層は必ず生まれてしまう。それを全て救うことは不可能だった。クリスティアーノは生まれゆく弱者を心の底から助けたいと思いながら、0にはできないと諦めてもいた。許されないことだが、消すことはできない。だから、辛いこと。ひとつまたため息をついて足を組み直すと、惚けたようにこちらを見るカイロスと目が合った。
「つまらない話だったね」
「そのようなことは。殿下のお心は素晴らしいものだと思います」
「君に言われると、困るなあ」
「? 何故です?」
「ううん。なんでもないよ」
苦笑して、窓の外へと目を向ける。カイロスの言葉は嘘ではないのだろう。だが真実のものでもない。彼の本当の主人は自分ではないのだと、クリスティアーノは既に見て、知っていた。パニジアの密偵。今のところセレスティアを乗っ取る気はないようだが、太公がどう出るかで今後の動きが変わってくる。けれど、彼自身にその気がなかったとしても、いつかその時は訪れる。彼はいつかこの城に不穏分子を招くのだろう。その日は刻一刻と近づいている。その予知を脳裏に浮かべながらクリスティアーノはきつく両手を握りしめた。
――クリスは自分のために生きたっていいの。
とある少女はそう言った。その時の衝撃をクリスティアーノはいまだに忘れられないでいる。この身体もこの力も全ては国のために捧げられるものだ。自分のために生きる、なんてこと考えたこともない。だが、だが、もしそれが許されるのなら。
(兄上)
いつかの未来でカイロスの側にいたのは自分の兄だった。それがどんな意味を持つのかはまだクリスティアーノにはわからない。けれど、それを変えられるのならば、自分は――
◆
正門前、足を踏み出すと不審な顔をした門兵に当然のように槍で遮られる。きちんと仕事をする人物らしい。王家への不信が強まっているとはいえ、このようにまともな人間はまだ存在するらしい。そのことに少し安堵を感じながらジラルディーノはぼんやりとこちらに敵意を向ける男を眺めていた。
「待て、隣の男は誰だ」
「私の客人です、通してほしい」
「ならん、素性のわからぬものを城に入れられん。カイロス、お前ならばわかるだろう。今は……」
「だからこそです。それに素性というのなら明らかだ。私が保証する」
「なんだと?一体…」
胡乱な眼差しで問われたカイロスがジラルディーノに目配せする。それに嫌々ながら深く被ったフードを下した。髪は元に戻されてしまったし、前髪を切られてしまったせいで隠したい目の色は一目瞭然。ここに来るまでおよそ十年以上ぶりに色眼鏡を外していたわけだから、日の光が眩しくて仕方がなかった。あらゆる不満を思い出しながら門兵を八つ当たり気味に睨みつける。それに向こうも力を入れたようだったが、ほんの一瞬戸惑うように眉を上げた。どうやらあの時に言われた言葉は真実であったらしい。ジラルディーノとクリスティアーノはどうあっても異母兄弟、確かに似ている面影はあるのだと。
「ジラルディーノ第一王子殿下です」
「……な、まさか、生きて……」
カイロスの補足に男はいよいよ狼狽えた。ほぼ、王家から名を抹消されたといっても過言ではないジラルディーノであったが、クリスティアーノの才能を謳う折、こき下ろされるように添えられたその存在はまだ残っていたのだ。薄桃の眼の、偏屈で狭量な、出来損ないの兄王子。男はジラルディーノの姿を足元から瞳まで見直して、一度唾を飲むと強い眼差しで遮るだけだった槍を明確な殺意と共に構えた。
「何を!」
「であれば、尚のことならん!今この時、その方が姿を現すなど出来過ぎている!」
「違う!聞いてくれ!殿下は弟君であるクリスティアーノ様の乱心を説くために……!」
「馬鹿げたことを!どうせ殿下を消し、成り代わらんとする腹に――、ぐ」
必死に言い募るカイロスに男は首を振って否定する。その見解は正しい。この門番は本当に真っ当な人物らしい。ジラルディーノはどこか他所ごとの心地で感心していると、傍の男が突如駆け出し門兵の槍を潜り抜けて胸元に一撃を入れる。男はそれに一番の動揺を見せた。カイロス、というのは無害で純朴なキャラというのを馬車の中でベラベラと喋っていたのを聞き流した記憶があるが、嘘ではなかったらしい。どちらかといえば性格が悪いところばかりを見ていたので半信半疑だったのだがちゃんと特大の猫をかぶっていたようだ、とジラルディーノは自分を棚に上げながらその流れるような動きを見ていた。
「カイ、ロス……?」
「許してくれ」
心の底から辛そうに意識を失う兵に声をかける。この男の本性を知らなければ心に迫るものがあるのだろうが。
「……気持ちが悪いな、台本合わせでもしていたのか?」
「まさかァ、今日が初めてですよ?」
「フン、よく出来た茶番もあったものだな」
「いやはや。僕もこんなにいい感じに返してもらえるとは思いませんでした。あとでちゃんと礼をしないと」
けらけらと、笑うカイロス改めレオファード。台無しだなと冷めた気持ちで眺めるもののここで立ち往生もしていられない。怪しさを演出させるためだけに着ていたローブを脱ぎ捨て足を忍ばせながら人気の少ない道を選んで先へ進む。
「あとは隠密行動になりますが、殿下、王の間につながる隠し通路とかわかりますか?」
「……中庭のサンルームだな、だが、あの隠し扉を開けるには鍵が、おそらくは代々王に継がれる指輪が必要なんだろう。私では開けられなかった」
「残念。では普通に賊の真似をしましょう」
肩をすくめて苦笑するレオファードを見るに予想していた答えだったのだろう。予定調和なら聞かなければいいのにと内心苛立ちながら、勝手知ったる城の中を行く。少し内装が変わったところもあるが、10年ぶりの城の中は記憶からさほど変わらなかった。懐かしさなどない、自分の居場所のなかった冷たい城。久々に踏み入れたとしても感慨などない、むしろ奥へと進むほど息苦しくなっていくよう。帰りたい、ボロの小屋を脳裏に浮かべながら進んでいると、突然レオファードが抑えた声ながらも楽しげに問いかけてきた。
「ところで殿下、聞いておきたいことありますか?」
「隠密と言ったのはお前だぞ」
「まあまあ。気になることあるでしょう」
面白がるように細められた目に小さく舌打ちをしながら10分程度の無言。確かにひっかかっていたことはある、ただ聞いておかなくても良かったから素通りしていただけなのだが。ジラルディーノは諦念と共に息を吐き少し下唇を舐めてからそっと口を開く。
「……二人でカサンドラとかいう女を取り合っているという話は本当なのか」
「概ね正しいです。そこではしゃいでいるのはあの女だけですが。だって、陛下は子を作りたいだけです。そこに色恋の情などないのにあの女だけがなんか妙な勘違いしているんですよ、阿婆擦れっていうのはああいうののことなんでしょうね〜」
「……子を?」
「証明したいのでしょう、クリスティアーノ殿下があれば十分だとは思うのですけどね」
真っ当に予言を為せる子を作りたい、その血の証明をしたい。事情を知らぬものからすればジラルディーノという汚点をたまたまであったと払拭したいという風に見られるのかもしれない。思想としてはみっともないが、それが男としての矜持であるのなら納得するものもいるのだろう。しかし、ジラルディーノはその真意がどこにあるのかを知っていた。
あの父は、自分を産んだことで不幸になってしまった母を深く愛していたのだ。クリスティアーノこそは完成された王だが、ジラルディーノの父も為政者としては優れた男だった。その隙が、王妃を追いやることで出来てしまったというのなら。
(失望だけで済んでいた方がましだったのかもな)
二度目の誕生の時、絶望したかのような両親の顔を見た。そこで心が砕けたジラルディーノは今度の生では父と母には関わらないようにしていた。それで自らの心にさらなる傷を作らないよう。そうすればさらに疎まれることはないだろうと。だが、それは思い間違いだったのだろう。ここまでかと冷えた心で目を閉じた。そのまま足を止めたジラルディーノにレオファードは訝しげに振り返る。
「殿下?」
「私の部屋はそのままか」
「え、ええ。クリスティアーノ殿下のご意向です」
「そうか」
そのまま先行していたレオファードに背を向ける形で行く先を変える。背後からは戸惑いながらも引き止めようとするレオファードの気配があったが人気の少ない道を選んだおかげで元のルートに戻されることもなかった。ジラルディーノの部屋に近付くにつれさらに人の気配は減っていく。もう既にいない第一王子の居室が近いから?いや違う。ここまでくればその真意は明らかだ。いくら不信が高まっているといってもいやに王城の警備が薄い理由、そんなものただひとつ。目的の自室の前に辿り着いて大きく息を吐き出した。ノブを取る手は震えている。指先は冷え切っている。だが、ここに入らなければ進まないのだろう。乾き切った喉で唾を飲み込んで恐る恐る戸を開く。ここまでこのドアを重いと思ったことなど一度もなかったのに。
「よかった。最初にこちらに立ち寄ってくれて」
「……お前に見えないはずがないからな」
果たして、部屋の中には予想通りの相手が立っていた。輝く金糸の髪、スラリと伸びた背、鍛えられたとわかるしまった身体、そして澄み切った真紅の瞳。男はジラルディーノの姿を認めると嬉しそうに破顔し、殊更丁寧に頭を下げた。
「お待ち申し上げておりました。また会えましたね、ジラルディーノ兄上」




