7:天下無敵の桃の花
春政は昨日の事で頭が一杯であった。
杠葉のあの悲しそうな見たことのない表情も、雨が降ると予測出来たことも、彼にとっては全てが不思議だった。
それを考え始めれば、最も不思議なのは杠葉本人であろう。
家族構成は?
出身県は?
卒業した学校は?
そして、政春が昨日の内で一番気になったのは
「――何で、あんな表情をしていたんだろうな」
「黒木!」
「お疲れ。今日の授業はどうだった?」
「予習様々って感じかな。黒木は?」
「俺もだよ」
後ろから肩に手を置かれ、己の内心を悟っていたかの様に言葉を続けられた。
確かに瞬が問いかけた内容は昨日で一番気になっていたことである。
今日はお互い取っていた授業が違ったようで一度も会うことはなかった。
たわいもない会話をしながら廊下を歩いていると、後ろから大きな足音が響いてきた。
この廊下には彼ら二人しか居ない。
何かしらの理由で急いでいるのだろう、と考えて廊下の端へと寄った。
「見つけた……瞬!」
「はっ!? 待て、ちょ、止まれ馬鹿!!」
勢い良く瞬は前へと押おされた。
斜め方向から力が加わった為、彼は強かに頭を壁にぶつける。
鈍く、とても痛そうな音を聞いて、政春は頬を引き攣らせながら顔を青くした。
瞬はぶつけた頭の左側を擦りながら立ち上がった。
その瞳は鋭くその張本人を睨んでいる。
そして彼も、相手の頭に持っていた分厚いファイルを振り下ろした。
「痛い!」
「それは俺の台詞だ阿呆! 何を考えて、あんなに勢い良くぶつかって来たんだ!」
「だって、目の前に瞬が歩いているのを見かけたんだもの!」
「……お前は闘牛か、猪なのか」
「女子に向かって何てこと言うのよ!」
叩かれた頭頂部を抑えながらしゃがみこみ、怒っている瞬を見上げる彼女。
どうやら親しい仲のようである。
置いてけぼりにされている政春はポカーンと、二人の遣り取りを眺めていた。
ずれた眼鏡を直し、瞬は政春に向き直った。
「はぁ……紹介する、俺の双子の妹だ」
「瞬の双子の妹の、黒木 桃花 です。貴方は?」
「僕は梶 政春。黒木は妹が居たんだね」
「あぁ、似ても似つかないけどな」
「確かに顔は似てないわね。それに得意な分野も逆だしね」
瞬は京学院大学の理学部、桃花は文学部に在籍している。
二卵性双生児であるからか、顔の造りもそこまで似ていない。
強いて言えば目元や髪色が似ている位である。
性格も瞬は冷静沈着な方だが、桃花は少し気の強い活発な女性の様だ。
そう言えば、今日はchlorisに行くのだろうか。
政春はそれについて聞き忘れていることに気が付いた。
「あのさ、黒木」
「何だ?」 「なぁに?」
「明らかにお前じゃないだろうが」
「何よ、私も黒木だもの」
「梶、俺のことを名前で呼んでくれ。それが嫌なら桃花でも良い」
「あっ、えっと……なら、瞬」
「何だ?政春」
名前で呼ぶと、瞬からもサラリと名前で呼ばれた。
お互いを下の名前で呼び合う様な友達が出来たのは何時ぶりだろうか。
政春は嬉しさと気恥しさで頬を紅潮させる。
ニマニマと笑っている桃花はこの際無視だ。
彼に今日は行くのかと聞くと、そのつもりだ、と返事が返ってきた。
瞬が大学の出口に向けて歩き始めたので政春も自然と横に並んで歩き始める。
すると桃花も二人の横に並んで歩いていた。
「何でお前も来るんだ」
「だって面白そうだもの。最近、瞬が少し遅く帰ってきているのはそこに行っているからなのでしょ?」
「だから何だ」
「逆にどうして私が一緒に行ったらダメなのよ」
「……お前のせいで、あの静かで居心地が良く、尚且つ勉強の捗る空間が壊されてしまうと考えると心底嫌だ」
眉を顰め、本当に嫌そうな表情をしている。
流石にカフェに行って騒ぐことは無いだろう、と政春が彼を宥めた。
同行を許可された桃花はご機嫌だ。
昨日で杠葉の言動には未だ謎が残っている。
しかし事を急いても、杠葉がそう簡単に曝け出すとは考えにくいのも事実。
ならば流れに身を任せよう、二人はそう考えた。
からんころん
「いらっしゃいませ。あら、梶さんに黒木さん」
「昨日ぶりです。おかげで雨に降られる前に家に着くことが出来ました」
「あ、ありがとうございました!」
「ふふ、それなら良かったです」
「わ〜! 綺麗な人!」
ふんわりと微笑んだ杠葉に出迎えられる。
昨日のお礼を言うと胸の前で手を横に振って否定の意を示した。
すると桃花が彼女を視界に入れると同時に駆け寄り、そしてその両手を握った。
瞳をきらきらと輝かせて話しかける桃花は宛ら忠犬のようである。
勢いに押されたようだが、杠葉も気を取り直して対応を始めた。
「あらあら、では黒木さんは黒木くんの妹さんなのですね」
「はい! あ、杠葉さん、私のこと名前で呼んで貰えませんか?」
「えっと、では、桃花さんで」
「止めろ馬鹿、杠葉さんが困ってるだろうが……すみません」
「いえいえ」
すると、からんころんと木製の鈴が鳴り響く。
入口の扉が開いて男性が一人入って来た。