11:甘くて溶けてしまうような蜂蜜を
「遠山凛と言います」
「はい、ほなよろしゅう。そんで何を見ればええんや? ゆず」
「先程言ったでしょう?」
「自分の名前をさん付けして呼んでることに気い取られて聞いとらんだわ。ほれ、自分の名前は何て呼ぶんやった?」
「痛い、痛いです! 分かりましたよ! ちょ、離して下さい凧!」
餅の様に杠葉の頬っぺを両側に引っ張る。
"ゆず"と"凧"とお互いを呼び合うような親密な関係であることが発覚した。
彼女は基本名字か名前にさん付けをして呼ぶことが常なのだから、余程仲が良いと伺えた。
ぽかーんと放心している凛を放置してしまっている凧を杠葉が強制的に働かせる。
背中を押して二人を診察室へと移動させ始めた。
「さて、どうでしたか?」
「ゆずは逆によう分かったな。当たりや」
「え? え、あの?」
「遠山さん、あんたは妊娠しとります。きちんと検査で反応しとるし……ゆずから事前に聞いた話もそれで説明がつくわ」
「……え?」
ゆったりとしたワンピースを着ていたのは、無意識にお腹周りを締め付けないようにする為。
偏食が酷くなったり、食事の時に吐き気を催したのは妊婦の特徴でもある。
遠山宏介の話と、凛の話、そして今日会ってみた感じで杠葉はこれを推測したのだ。
妊娠中はお腹が大きくなるイメージがあるのかもしれないが、これには個人差があり、凛の場合はあまり目立たないのであろう。
しかしこの事によって彼女自身も妊娠に気が付かなかった訳だが。
「私のお腹の中に赤ちゃんが?」
「おん。今までに妊娠の経験はありますか?」
「一応二回。でも、どちらも流産してしまって」
「流産か……何回もそれが起こると遠山さんの身体にも負担がかかってしまう。どうしますか」
凧の真っ直ぐな瞳に射抜かれ凛は少し萎縮する。
本当は産みたい、けれど簡単に自分の思いだけで決めることの出来る問題でもない。
過去に流産を経験していることも相まって彼女は臆病になっていたのだ。
俯き加減で考え込む姿に杠葉は助言を出した。
「取り敢えず遠山さんにお話しましょう? 彼も心配していらっしゃいましたし」
「……はい」
「ゆず、自分もゆずの店行きたいわ」
「勿論。一緒に行きましょう」
凧は白衣を脱いで私服へと着替える。
僅か十分程で準備は全て終わり、さっさと自分の部屋の扉に鍵を掛けると杠葉の元へと向かった。
たわいのない話をしながら三人でchlorisへと足を進める。
葉桜が青々と輝いていた。
カフェの鍵を開けると木の柔らかい香りが鼻を掠める。
慣れたように中へと入った凧はキッチンへと移動し、勝手にマグカップやティースプーンを取り出して何かを作り始めてしまう。
杠葉も照明や換気の為に動き回っている為、一人だけ凛は置いてけぼりにされてしまっていた。
「凧〜! ホットミルク作って下さい!」
「はいよ」
二階へと通じる階段からひょっこりと顔を覗かせた杠葉は凧へとそう伝える。
妊婦には一日九百グラムのカルシウムが必要だとされており、凛には丁度いいだろう。
それに初夏じみてきたとは言っても夕方は未だに肌寒い。
現在時刻は夕方の五時前、先程カフェへと帰ってくるだけの時間であっても多少手先は冷たくなってしまっている。
ゆっくりと温めた牛乳をマグカップに移すと蜂蜜を加えてティースプーンで掻き混ぜた。
ほのかに甘さのある良い匂いがした。
「まぁ飲み? まだ決めれやんくても、どっちにしろストレス溜めるんわ良くないわ」
「ありがとうございます」
「ゆず〜!あんたも降りおいでや」
「すぐ行きますね」
杠葉は蜂蜜がたっぷり入ったホットミルクが手渡される。
その後、三人でゆったりとした時間を過ごし、凛は夕食の準備があるからと一時間後には帰って行った。
その空間に残されたのは凧と杠葉の二人のみ。
穏やかな雰囲気を楽しんでいたが、彼の言葉によってそれは一変した。
「ゆず、最近どうや」
「体ですか? 最近はあまり目立ったことはありませんよ」
「それもあるけどな、あいつら二人のことや」
「……さぁ。私は彼らに興味の欠片もありませんから」
「そんなん知っとるわ。まぁ何かあったら自分のとこか、優のとこに逃げ込めよ」
「……うん、ありがとう凧」
儚げに彼女は微笑んだ。