10:ローズヒップの理由
「あの」
「はぁい、いらっしゃいませ」
初めて見る女性の客が、あの日から三日後にchlorisを訪れた。
ぱっちりとした瞳が特徴的で、ゆったりとしたワンピースを身に纏っている。
黒曜石のような黒色が杠葉を射抜いた。
「カウンターではなくソファへどうぞ」
「え、いやでも」
「今、お客様は貴女しかいらっしゃいませんから、ね?」
「は、はい!」
窘めるような口調の杠葉に女性は身を固くしてその言葉に従う。
上質な革の一人がけのソファにその身を下ろすと、目の前のテーブルにマグカップが置かれた。
僅かに湯気が立ち上るカップを両手で包んで持ち上げると、ほんのりと温かさが伝わってきた。
ラズベリーの様な鮮やかな赤色の飲み物が入っている。
「これ、紅茶ですか? ちょっと遠慮をしたいんですか……」
「ふふ。ローズヒップティーは免疫力向上、ビタミン補給、ストレス軽減に良く、きちんとお医者様から許可を頂いたものですから大丈夫ですよ」
「そ、そうなんですか?」
「はい。良ければローズヒップの実もどうぞ」
小さな音と共に深めの小皿が置かれる。
真っ赤に完熟した実がてらてらと光り輝いていた。
中に入っているのはヨーグルトのようで、その上にはローズヒップで作られたジャムがかけられているようだ。
何時もなら全く食べたいと思わないのに、何故か今だけはこれを食べてみたいと感じた。
意気込んで一口食べてみると、吐き気も嫌悪感も催すことなく胃へと納めることが出来た。
「美味しい……」
「それはどうも。さて、何かお悩みなのですよね」
「実は少し前から食事をとるのが億劫になってしまっていて、料理を作るのもダメなんです。旦那にも迷惑をかけているのでどうにかしたくて」
「最近食べることの出来るのはフルーツトマトだけですか?」
「はい……あ、先日はあのトマトありがとうございました。とても美味しかったです!」
「いえいえ、構いませんよ」
向かいのソファに座って悩みを聞く。
彼女の名前は遠山 凛、旧姓は穴生と言うらしい。
先日此処を訪れた遠山宏介の妻であった。
前回、遠山が帰る時に手渡した小袋の中には大量のフルーツトマトを入れてあった。
そして一緒に入れてあった手紙にはこう書いてあったのだ。
『もし後日お時間ございましたら、宜しければお話を伺わさせて頂きます』
たったこれだけの文章であったが、杠葉に話せば何か分かるかもしれないと思い、思い切って訪ねて来たのである。
自分の旦那に当たってしまうことも、それをしてしまう自分自身にも憤りを感じていた為か、彼女の言葉は心に溶けていくような温かさを持っている様に感じた。
「んー……最近、何処かの病院に検診へ行かれましたか?」
「いいえ、最近は動くことすら億劫になってしまっていて」
「そうですか。なら今から一緒に行きましょう」
胸の前で両手を合わせてにっこり笑う。
しかしその口から紡がれた言葉は突拍子のないものであった。
放心している凛を放置して、杠葉は店の奥へと入って行くとエプロンから私服姿に着替えた。
店の窓や裏口の戸締りを済ますと凛の元へと戻り、そして外へと移動し始める。
慌てて後を追いかけると、店の扉の前で待っていた。
確かに彼女がこの店の戸締りをしなければ誰もする人が居ないのだから当たり前のことである。
気付いた凛は少し恥ずかしくなって頬を掻く。
「あの、今からどこへ?」
「私の贔屓にしている病院ですよ。すぐ近くなのでご心配なく」
「え!? 私はどこも悪くないですよ!?」
「えぇ、貴女の体が健康体であろうことは知っておりますよ」
杠葉はつい苦笑を零した。
彼女は凛の体の何処かに悪い場所があるとは思っていない。
ただ、今日、彼女が着てきた私服や先程聞いた症状からある推測をしただけである。
向かった先は大きな大学病院。
学生が忙しそうに単語帳を捲っていたり、友達と仲良く話をしていたり、将又美味しそうに食事をしていたりと活気に満ち溢れている。
迷い無く道を突き進んで行く杠葉に置いて行かれないように付いて行く。ら
「凧さん、入りますね」
「え、えぇ、ちょっと! 勝手に入っていいんですか?」
「はいよ」
ノックだけすると、杠葉はドアノブを押して中へと入って行ってしまう。
驚いて止めようとすると、中から許可を出す声が聞こえた。
それは嬉しさ半分、呆れ半分を含んでおり、かなり低めの声であった。
「何や、また来たんか。今度はどうした?」
「今回は私ではなく彼女ですよ。尿検査とエコー、後は問診をお願いしますね」
「は? 一体どういう事や」
「診察代は私が出しますから。ほら、早くして下さい」
「……はいはい」
後頭部を諦めたように掻きながら男性は立ち上がる。
凛の前まで歩いてくると、自分の首から掛っている 名札を目の前に突き出した。
「自分は志麻 凧。此処の大学病院で医者やっとります」
茶髪にピアス、気だるげな態度は一見医者の様には見えなかった。