シェイクスピアの物語の作り方
シェイクスピアの物語の作り方は、古代ギリシャの劇から影響を受けたのだろうと思う。この時、重要なのは運命と自由意志の葛藤の仕方であるように思われる。
横光利一は純文学と通俗文学との折衷を説き、実践したが、うまくいかなかった。最近だと、村上春樹がそれに近い事をしている。しかし、村上春樹も、彼が念頭に置いているようなドストエフスキーの「総合小説」のようなものは作れないだろう。何故ならば、ドストエフスキーの物語性、作品の構成は、生そのもの、あるいは現実そのものに対する認識から発生しているのに対し、村上春樹はドストエフスキーを形式的にのみ見ているからだ。村上春樹が自分について語る文章を読めば、それがよくわかる。彼には世界理解がないままに、ドストエフスキーを模倣しようとしているから、そこには欠損ができる。
シェイクスピアもまた、独特の世界理解を持つ人物だったが、それだけでは、認識であり、作品とはならない。では、その認識はどのように作品に生かされているのか。
「マクベス」「ハムレット」という作品では、それぞれ、亡霊や魔女が作品の最初に出てくる。これは、他の批評家の言葉を読んで納得できたが、主人公の無意識が実体化したものと見る事ができる。マクベスの隠された欲望は具現化し魔女となり、彼に囁きかける。同様に、ハムレットの内心の疑念と宿命感が亡霊となって彼に囁きかける。
普通の物語の作り方、一般的によく使われている物語の構成の仕方というものに自分は長い間、不満を感じていた。だが、その不満がどこに由来し、どう解決すればいいのか、まるでわからなかった。シェイクスピアにおいてはそうした不満を感じない。それはどうしてなのか、と考えてみると、シェイクスピアの場合、物語そのものは、主人公の隠された内的意識が表に現れてくる過程と見る事ができる。真実は最初の時点で埋蔵されていたのだが、それが具現化するという風に作品は構成されているように見える。
亡霊も魔女も出ない「リア王」でも、スタート地点から、リア王の暗い運命はしばしば暗示されている。「自分を愛している証拠を見せよ」というのは、愛そのものが形ではない為に、そんな事は不可能なのだが、不可能が最初に提示される事は、その矛盾から物語全体が暗いものになる事が予感されている。
通常の物語では、偶然性が重要となってくる。いきなり異世界に飛ばされて、神様から特殊な能力を与えられるのは全て偶然だ。起こる出来事も偶然に寄る所が多い。わかりやすい物語では、偶然の連鎖で話が進んでいく。
シェイクスピアの作品では、偶然はただの偶然ではない。外的な出来事の連続は実は、主人物の内面を映し出す鏡に過ぎない。自分の中に疑念があるから、亡霊が現れる。亡霊は囁きかける。父の復讐をしろ、と。だが、父の復讐を望んでいたのは、ハムレット自身だったはずだ。この時、私というものが、私ではないものと関連があるという事が示される。
「マクベス」という作品は構成的にはほぼ完璧に見えるが、この作品の完璧さを作り出しているのは、主人公マクベスが、自分自身を知っていく過程が、他者との関わりであるという、見事な一致にあるように思われる。マクベスは魔女の言葉に操られ、それに支配され、そのまま敗北し、死に至るが、読者は魔女を、マクベスとは関係ない他者とは感じない。魔女の言葉はマクベス自身の一部であるように思われるし、ただ暗殺と権謀でのし上がった人間が他者からの信頼を失い、ついに非業の最期を遂げるのは人間という生命にとって必然的な事に思われる。ここでは、偶然と見える事は偶然ではない。しかし、マクベスにとって魔女が現れる事は偶然だ。この関係の中に、シェイクスピアという作家の力量がある。
普通の物語では主人公が何かの事柄に巻き込まれるが、その事柄のみに焦点が注がれる。その事柄は恋愛であったり犯罪であったりするわけだが、恋愛や犯罪は主人公にとって外的に感じられているだけではなく、作者にとっても外的なものに感じられている。だから、そうした物語を読んでも、作者の世界認識を感じる事ができない。作者は、ニュースの殺人事件を見て「狂人のする事はわからん」と呟く一般人と、異なる認識を持っているわけではない。作者は世界を作らない。ただ、時系列に沿ってうまく主人公を誘導していくにすぎない。
運命というものは、個人を導いていくが、それは個人の奥底にあるものだった。ソポクレスでは、神託とか予言とかいうものが重要となってくるが、シェイクスピアでは亡霊や魔女に変わる。ドストエフスキーに至ると、主人公の無意識となってくる。そうした変化はあるものの、そこでは常に、個人が自分自身を知っていくという過程が、そのまま他者との関わりとして描かれていた。ソポクレス、シェイクスピア、ドストエフスキーの作品にはっきりした物語性があるにも関わらず、通俗さを感じなくて済むのは、そこで起こる出来事というのが、(主に)主人公自身が自分自身の内部にありつつも、察知していない事柄であるからだ。その具現化としての外的現象だからだ。そんな風に考えたい。
脳科学的にもそうなっているはずだが、人間というのは意識を持って、「私」と規定する以上に非常に沢山の情報を外界から得ている。また、内面でも非常に沢山の事を考えている。世の中にある、単純かつ正しそうな意見、一見誰もが一応はうなずけそうな意見というのがよく考えればくだらないのは、意識下における情報を全然探る事ができていないというの由来するように思われる。そうした意見は、我々が自分を単純に感じ、考えている点において「正しい」と感じるが、そう感じる個人は当人が思っているよりも遥かに多くの情報を埋蔵している。だから、世の中にはつまらない人間は一人もいない、と言い切る事もできよう。しかし、世の中にはつまらない事を言う人間は無数にいる。
この点から、絵画の印象派が、目に見えるもの以上を描こうとしたのが正当であるとか、プルーストの試みが正当だったとか、そういう色々な事も言えるだろう。文学という領域では、ドストエフスキーにしろシェイクスピアにしろ、個人の意識の下にあるものをよく知っていた。だから、それが外的な劇となっても、あくまでも作者の精神の統御物であると感じられる。結局、シェイクスピアの偉大さとは、彼の知性が人間の有様を統御する事によって、世界全体を手の平の上に置いているような感覚に由来する。彼は深く人間を認識していた。悪人にしろ善人にしろ、彼の認識から逃れられない。無知な人間は知らなければならない。知るのが人生だ。何故なら、無知な人間、無知でかまわないとうそぶく人間もまた、自分自身の無知の底に照明されない沢山の情報が埋蔵されていて、それを無意識的に感じざるを得ないからだ。だからこそ、偉大な作品はというのは面白かろうと面白くなかろうと、歴史的に語り、読み継がれていく。というのは、それは歴史の奥底を低く、流れている川のようなものだから。
現在では、角田光代がプルーストを訳し、源氏物語を訳し、またドストエフスキーはストーリーを中心に翻訳され、「罪と罰を読まない」という本が出版され、このようにして、人間の複雑さを単純化しようとし、深いものを浅くして、「なあんだ、大したものと言われているのもこんなものじゃないか。簡単じゃないか」という楽観に集約しようとする動きも激しいようだが、そうした人々の奥底にあるものも何らかの形で、外的なものとして現れてくる。
外的にあらわれてくる事柄を単に外的な事柄と見る事に、知性の鈍りがあるが、近代にできた文学観は文章をカメラのようなものに変えたため、作家はひたすら説明するだけになった。作者並びに読者にとって面白かったり、都合の良い事実を並べればとりあえず一定の評価はされる。そこでは、物語というのは、主人公が横切る事実の連鎖でしかない。シェイクスピアにおいては、事実の連鎖は運命の現れだった。そこには、ひたすらに世界を自らの知性の中に組み入れようとする絶えざる努力があった。シェイクスピアの作品内において登場人物は完全に統御されている。それにも関わらず、シェイクスピアの登場人物に僕らが自由を感じるのは、彼の知性が大きい為に他ならない。おそらく、作家というのは本来的には、世界に起こる悪も善も、全て自分の知性に組み入れようと飽くなき努力を続けるような者の事だろう。現在では、文学は事実や現実と簡単に馴れ合うか、または形式的にのみ「文学っぽさ」で成り立つものとなっているので、そうした事は期待できない。文学の本質について考える時、自分はもう一度、古代ギリシャやシェイクスピアに還る必要性を感じる。