慙愧
刀を持って母屋の奥へ行くと、そこには十時がお茶菓子をほおばって待っていた。
「ほんっと甘いもの好きね。」
「饅頭屋の子だから。」
十時はほんのり笑って、茶をすすった。しかし、その眼だけは油断なく紅里の手元を見ている。
「刀か・・・そういうのは土屋の方が得意だろ?何で俺?」
「しょっぱなから土屋さんじゃ、澪里ちゃんがビビっちゃうよ。」
紅里がそう耳打ちして、刀を渡した。受けとった十時は、驚いて刀を握ったままそれを上げ下げした。
「なんか・・・軽くねえか?」
十時も、刀の柄に手をかけて抜こうとしたがやはり抜けない。
「なあ紅里、あれ持ってきてんだろ。」
十時が差し出した手に、紅里はラベルの無い無個性な小瓶と、霧吹きの上部分だけのものを渡した。
小瓶の中身は少し白く濁った半透明の液体で、十時はその小瓶のふたを開け、霧吹きと合わせた。時計回りに回すとぴったりと合って、一つの物になった。
それをそっと、刀にふりかけた。
霧と化した半透明の液体は、しかし決して空中にとどまることはなかった。まるで、吸い込まれるように刀の方へと消えていく。
「澪里、やってみるか?」
十時が、何故か湿っていない刀を澪里に差し出した。
「どうやるの?」
「刀に触れるか触れないかくらいの距離で手をかざすんだ。そのまま、壁をじっと見ろ。刀から入ってくる映像を、そのまま壁に移すイメージを持って。」
澪里は、言われたとおりに手をかざした。
沢山の情報が、澪里の頭の中に流れた。
一人の刀鍛冶によって打たれた刀。初めは、国を憂う幾人もの男たちの中に放られた。時代の奔流に流され、人を斬った男もいたし、逆に斬られていった男もいた。
この刀の持ち主は、臆病だった。
臆病者は、攻めない。故に死なない。しかし、時流に乗るにはそれでは許されないのだ。男も、人を斬った。しかも、女を。
真剣を初めて抜いたときの、恐怖にも似た感情が澪里に流れてきた。
廊下の奥から、訳も分からず逃げてきた商売女を恐怖のあまり斬った。無抵抗の、小柄な若い女だった。味方は、逆徒に身を売るような女は、死んで正解と言った。
男は理解した。しようとしていた。
しかし、最後の女の断末魔が頭から離れない。
何が、逆徒だ。
逆徒とは、主君に背いて謀反を起こす者たちの事だ。彼らがいつ主君に背いた?主君の為、主家の為、彼らは生きていた。例えそうではなくとも、主君を裏切るような真似はしていない。
逆徒とは、彼らにとっての敵を指す、実に都合のいい言葉であった。
男は、死んだ。
間違いを示したからだ。臆病者の癖に逆徒の意味を説き、このままではいけないと言った。無駄に学のあるのが災いした。余計なことを言って、首領格の男にあっさりと斬り捨てられた。
ふっと頭が現実へと戻ってきたと思ったら、刀を取り落としていた。ガシャンと音を立てた刀を十時が拾う。
「お、重くなったな。」
「思い出したんでしょ、何で自分が怒ってるのか。」
「どういうこと?」
頭に流れてきた鮮明な映像を振り払うように、少し大きな声で澪里が訊ねた。
「抜けない理由は、多分、男じゃなくて刀自身よ。」
「刀が悪いの?」
「悪いっつーか、怒ってる。」
「何で?」
澪里がそう聞くと、二人は困ったように顔を見合わせた。十時が、言う。
「知るかよ。それを今から調べんだ。」
紅里、と十時が呼ばわった。
「樒!」
「はい。」
少し弾んでいる紅里の声で現れたのは、澪里にも見覚えのある女だった。
真っ白な瞳に、黒い絹のような長い髪。女神のようないでたちとは不釣り合いに、眉が勝気に吊り上がっている。十二単を着ている割には、すいすいと十時に近寄って行った。
「十時様、またお会いできて光栄です。あの時のことを、覚えておいででしょうか?」
「・・・おい紅里。なんでこいつなんだ。」
「憑依は樒の得意分野よ。」
紅里がふふんと笑うと、十時の顔は一層曇る。だが、渋面の十時を意にも介さず、樒は話し続ける。
「私は覚えております。あの時のお言葉、私を抱く、優しい手、それから・・・」
「あああああああ!わあーった、わあーった。いいから早くやってくれ!」
始めて見た時とはだいぶ違う雰囲気に、澪里は驚いた。何より、あの十時が慌てているのが可笑しい。
「樒と十時は、ちょっと前に仕事で、遊女の亡霊を成仏させに行ったことがあってね。その時に色々あったみたいだけど、樒の言ってることは八割うそだから。」
紅里にそう耳打ちされて、澪里もふふっと笑う。
「樒、そろそろいい?」
「はい。十時様、お刀を失礼いたします。」
主らしく紅里が言うと、樒も大人しく従った。刀を十時から受け取ると、まるで献上でもするかのようなうやうやしさで、紅里へと差し出した。
紅里が持った刀に、樒が何か、印を切るような仕草をすると、一礼して刀へと文字どうり飛び込んだ。紅里に体当たりするかに見えたその体は、寸での所で大きさを変え、小さな靄のようになって刀に吸われていった。
「樒さんは、どうなったの?」
「憑依したのさ、刀に。」
憑依?と澪里が不思議そうに訊ねた。
「まあ、簡単に言えば刀の中に入って、中にある念と話をするの。」
紅里がそう言うと、刀を床に置いた。
少しばかり経つと、樒が刀からするりと出てきた。刀と紅里にそれぞれ一礼し、三人の前に刀を挟んで着席した。
「中にある念は二つでございました。一つは斬られた女、もう一つはそれによって形成された、刀自身の心の様でございます。奥様、」
樒が春乃に向き直った。
「泣き声は男の物ではございませぬか?」
「はい。」