なか
老婆は忍び笑いを中断してぐっと紅里の方を睨んだ。口からは低く不快な歯ぎしりの音が聞こえる。しわがれた声が再び発せられたのは紅里への恨み節だ。
「貴様のような下等なものが軽々しく主の名を・・・」
「下等だって?このあたしに向かってよくも」
紅里は右手で老婆の顔面をつかむと力任せにぶん投げた。床に打ち付けられた老婆は、恐ろしさに慄き腰を抜かした。紅里が手に札を持っていたからだ。黒地に、血色の赤で不可思議な模様が書いてあるお札を。
「そ、その札は。」
「これかい?あたしが作ったお手製の札さ。巷じゃ、鬼札とか死人の札とか・・・あと、驍札・・・なんてのもあったっけ。」
紅里は冷淡に続けた。
「これを受けた奴はたたじゃぁすまない。ってね。」
老婆はひぃぃぃと悲鳴をあげて命乞いをしようとした。しかし紅里の方が速い。右手の札を額に押し当て、「破」と低い声で叫ぶ。
「ああぁぁぁぁぁ」
老婆はむなしい叫びと共にドロドロと消え去った。
「あーあ。酷いなぁ。でも、流石紅里。ちょっとスカっとしたよ。」
消え去るのを待っていたかのような絶妙なタイミングで、だるそうな声が話しかけた。
「十時。」
紅里もさほど驚かない様子で応じた。
白髪で、かき回したようにぼさぼさの髪に、垂れた一重の瞳。蝶の描かれた着物が妙な艶やかさを放つが、それも淡紅藤の色をした羽織で大半が隠されてしまっている。
色白に役者のような薄赤の口元を不敵に歪ませて彼は続ける。
「やあ、紅里。と、その子は誰だ?見ない顔。」
「十時、ひさしぶりね。その着物、良く似合う。帰蝶の蝶柄なのね。」
お互いがお互いを挑発しあうその状況に澪里は冷や汗を掻きかけたが、紅里の方はあくまでも冗談という風だったし、十時の方もへらへらとした様子で本気には見えない。
「中、入るか?もうだいたい集まってるぜ。」
「ええ。」
「あ、ちゃんと記帳しとけよ。あの婆さんそうゆうのうるせえからな。」
「わかってるよ。」
紅里が手で何かを呼び寄せるしぐさをすると、一冊の深緑色をした芳名帳と筆が独りでに飛んできた。紅里はそれを取り、慣れた手つきで、行書の字を書く。
その間も二人の口が休まることはない。
「婆さんって・・・・帰蝶、今年で24とかじゃなっかった?あんたもう三十路近いでしょ。」
「俺は、見た目若ぇからいいの。それにあの女、口調とかやり方がいちいち古臭えんだよ。」
「あたしたちだって、世間一般から見れば古臭いよ。」
「髷の奴いるもんな」
「おミツさんなんかこないだ、なんだっけ・・・高島田?とか言ってた。」
「あの、いかにも江戸時代みたいなやつだろ?」
「そうそう・・・っと」
紅里が書き終えると十時が行くか。と、軽くつぶやいて先に入っていった。
「澪里ちゃん行くよ。覚悟はいい?」
澪里はうんと言う代わりに小さくうなずいたが、何に対して覚悟がいるのか今一つつかめなかった。
中は外観に反して、立食形式のパーティーの様だった。
中にいる者も様々で、西洋風、中華風、和風、青い目の者、赤い髪の者、老人、若人・・・・人型をしているだけ澪里にはまだましであった。
「あら、十時。姿が見えないと思ったら。それと紅里と言ったかしら?久しぶりね。その後ろの子供は私への貢ぎ物かしら?もう少し使えそうなものが良かったけれど・・・ようやく私の下に付く気になったのは見上げた心意気だわ。賢明ねぇ。」
女は妖艶な声でほ、ほ、ほ。と笑った。
「帰蝶様。この度はお呼びいただき恐悦至極の限りにございます。されど下につくなどこの身には余りますこと。また、この者は私の供ですので、献上することはどうぞご容赦を・・・」
紅里は赤いカーペットの床に膝をつき大変丁重な挨拶をした。澪里も慌ててそれに倣う。
「ふん。いつもいつも下手に出ておれば、無事だと思ったか?何が余る事なのだ。ろくに修行も積んでおらぬくせにつけあがるなよ、この小娘が!」
が、舌戦は幾分か紅里の方が得意の様だ。
「『つけあがるな』とは、寛大な相手に対しわがままを言う者の事・・・あなたが寛大であったことも、私がわがままを言ったこともないと記憶していますが・・・大体、この会食は一体?人型しかいませんが。」
「ふん!あんな下等生物共と食事など!おぞましいっ!」
「なるほど。・・・とは言え、あちらからすれば〝人間〟という生物自体下等なものと思って・・・」
「紅里。言い過ぎだ。」
思わず十時が止めに入った。
帰蝶は今にも怒鳴り散らしそうな形相で睨み下ろしている。紅里もこれはマズイ。と思ったのか、「失礼致しました。」と頭を下げ、踵を返して行ってしまった。十時も「では。」とだけ言って、澪里を連れ紅里を追うことにした。
「紅里。」
しばらくして三人は再会した。
「十時。さっきはありがとう。歯止めが利かなくなるところだった。」
紅里ははぁ、とため息をつきながら頭を掻く。澪里は何も言えないまま二人の様子を見守っていた。
「いいってことよ。」
「そうだ、土屋さんは今日来てるの?」
突然、紅里の声音が明るく変わった。
「土屋くんか?今日はまだ見てねぇな・・・でも来てるんじゃない?」
「会いたい。あと、この子も紹介したいし。」
「探すか?」
二人があからさまに周囲を気にし始めると直ぐに見つかった。紅里が跳ねるように駆け寄って行く。
十時はため息をつきつつ、澪里はやや焦り気味で追いかけた。