米内と弥生
浴場に入って来た女性は、整った顔立ちをしている。
浴場内をぺたぺたと歩く女性は体を洗い終えると、M029が入っている浴槽に入る。
ふぅ。と息を吐くと、M029を凝視して、細い指で頬に触れる。
女性は肩をびくんと震わせ、湯から飛び出したが、足を滑らせて白濁に吸い込まれていく。
手首から上が出て来て、わたわたと暴れている。
立ち上がって、湯から出ている手を引っ張ると、瞼をぎゅっと閉じた女性が出てくる。
「大丈夫でしょうか……っん」
足下にあった女性の足に蹴られて、ぬるぬるとした底で滑る。
大きな水しぶきを上げて、白濁の中に沈む。
底を手で押して顔を外に出す。
出ていた手は消えていて、水面に浮いてもこない。
急いで床を手で探ると、底ではない柔らかい物が当たる。
それを抱え上げると、先程の女性が出てくる。
頬を二回つつくと、ゆっくりと瞼を開く。
「あの、生きてるんですか?」
大きな瞳を揺らした女性は、開口一番、そんな事を聞いてくる。
大きく瞬きを二回して、M029は女性を腕の中から落とす。
どぷんと、大きな音を立てて吸い込まれた女性は、自力で湯の中から出る。
「これで生きていると分かってもらえましたか」
「一言言ってくれれば分かるんだけど。君はドSだね」
ELIZAにドSを検索させて、意味を理解する。
「俺は人が苦しむのを見て、喜んだりはしていません。それよりも、質問に問題があると思うのですが」
「だって、この浴場に見知らぬ可愛い娘が居たんだもん。幽霊かなーって思って見ない様にしてたけど、触りたくなって」
白濁の湯から出て、隣の少し小さな湯船に右足を浸ける。
反射的に足を引っこ抜いて、笑いを必死に堪えている女性に、置いてあった石鹸を投げつける。
頭にヒットした石鹸は白濁の湯の中に入り、行方が分からなくなる。
「冷たいじゃないですか。先に教えて下さい」
石鹸が当たった脳天を押さえている女性は、まだ笑いながらこちらを見ている。
「まあまあ、露天風呂に傷に効く湯があるから、そっちに行こうよ。ずっとタオルで隠してるけど、身体中傷だらけなんじゃない?」
中紅梅色の髪を揺らして立ち上がり、手を引かれる。
浴場内を走り出した女性は、外に続くドアに辿り着き、スライドさせて開ける。
夏の少し温かい空気に包まれて、室内と同じくらいの空間が広がる。
「ELIZAこの人は」
「先程から探しているのですが、どのデータにも該当しません」
前を走っている女性を見ると、目の前に石に囲まれた湯船があった。
「ジャーンプ!」
手を掴んだまま跳躍し、透明に透き通った湯の中に、一緒に吸い込まれる。
二人分の大きな飛沫を上げて、水面が大きく揺れて、波紋が端まで広がる。
「米内さん、はしゃがないで下さい」
先客の卯衣は、鬱陶しそうに女性を睨む。
「米内。貴女が長官ですか」
「そうそう、私がここの責任者、米内響。私の名前を知らないなんて、君は新人の子なのかな」
「MI6からの客人です」
「あれ、卯衣ちゃん。MI6の客人って九時に来るんじゃなかったっけ」
「それは呉の長官です。合同演習の打ち合わせ、そして食事」
それを聞いた米内は、急いで湯船から飛びでて、脱衣場に駆け込む。
まだ引っ張られ続けているM029も、一緒に脱衣場に入る。
「はあ! 後免ね掴んだままで、細い指だねつるつるで。羨ましい」
白い服を着た響は、嵐の様に脱衣場から去って行く。
体に付いている水滴を拭いて、スーツを身に纏う。
晒を日本に持ってくるのを忘れた為、髪も長いままで脱衣場から出ようとすると、白色の下着が落ちていた。
少し考えた後答えに辿り着いた。
米内響のだ。
響を追い掛ける為、走って脱衣場から出る。
スーツの前を閉めていなかったが、そんな事は一々気にしていられない。
今はいち早く右手にある下着を届けるべきだと、自分の中で判断した。
廊下を曲がると、前方に響の背中が見えた。
「米内さん、忘れ物です」
振り返った中紅梅の頭が、少し驚いた顔をして、目を大きくする。
響の前で立ち止まり、右手で握っていた下着を手渡す。
「有難う、何か変な感じはしてたんですよ」
下着を受け取った響は。両腕を広げてM029にハグをする。
「分かったので、胸の上で首を左右に振らないで下さい」
「もしかしてノーブラ? 見た目よりあるんだね、水で濡れてて少し透けてるところが良し」
「何時も潰してるので下着は持ってません。一応Dはありますから」
M029は米内を引き剥がして担ぐと、窓を開けて庭に放り投げる。
窓の鍵と出入口を施錠して、庭に閉じ込める。
「酷いな、もう九時前だよ。私遅れちゃう」
「卯衣さんが来るまで大人しくしていて下さい」
スーツの前を閉めて、廊下を歩いて待機していた部屋に戻ると、その部屋に響が居た。
ドアを閉めて、部屋の前の札を確認する。
札には客室と書かれており、間違ってはいなかった。
もう一度ドアを開けると、こちらを向いて座っている響が居た。
「出口はあそこだけじゃないんだよ。よく穴があるから、私専用の扉を作……待って待って」
ドアを閉めようとすると、椅子から立ち上がった響に、ドアを押さえられる。
「姫輝さんは何処に行ったんですか。何故会議のある貴女が此処に」
「まだ七分あったから暇潰しにと、姫輝ちゃんは何処か出掛けちゃった」
ドアノブから手を離すと、閉められまいと引っ張っていた響が、後ろに転がる。
動かなくなった響を支えて、膝の上で寝かせる。
「何でこんなので負傷しているのですか、何故膝枕など」
「あら、こんな時間から何いちゃいちゃしてるの?」
開け放してあったドアから、男の人の声が聞こえた。
部屋の外に、同じく白い服を着ている人が立っていた。
髪はショートで、身長は自分と同じくらいだが、爪にはマニキュア、肌はつるつると、女子力が違い過ぎる。
だが見た目は男なので、目を擦ってからもう一度見る。
目を擦る前と何も変わらず、同じ様な光景が映る。
「もしかして、俺と同じでしょうか」
「あら、綺麗な子ね。もう少しお洒落したらどう?」
「お洒落は精一杯しています。貴女も本当は女性なのですよね」
「そうね、私はレイディーよ。どんな時もお洒落はしてるし。アレ持って来なさい、この子を咲かすのよ」
パチンと指を鳴らすと、隣に立っていた少女が舌打ちをしてから何処かに行って、暫くして帰ってくる。
それを受け取った女性は、満面の笑みで近寄って来て、背後にあった机の上に服と箱を置く。
「何やるの薫さん。何か楽しそうな空気だね」
突然膝の上から起き上がった響は、M029の背後に素早く回って、脇の下から腕を入れて、動きを封じる。
危険を察知して抵抗するが、上手く動けない為、効率的な抵抗が出来ない。
「睡蓮も押さえて」
「はあ? 分かりました。チッ」
睡蓮と呼ばれた少女に足を押さえられて、完全に封殺される。
薫にスーツのボタンを外される。
「ちょっと下着着けてないの? まあ、取り敢えず測っちゃうわ」
メジャーをお腹に巻き付けられて、正確に測られる。
スリーサイズを測り終えた薫は、箱の中から色々出して、持ってこさせた服の中から、何にするかを選び出す。
響に両目を手で塞がれて、誰かに手を掴まれる。
そこから先は服を脱がされて、胸の周りに何かを巻かれたり、また服を着させられたり、色々あってから、覆われていた目が解放される。
全身が自由になり、咄嗟に立ち上がる。
「おお、流石薫さん。より美人に変身させましたね」
いつも違う感覚に、自分の体を見下ろすと、今まで着た事も無い白いワンピースを身に纏っていた。
「ひらひらは恥ずかしい……こんなの着たことないし。下がスースーする」
姿見が前に立てられ、自分の姿が鏡に写る。
自分の頬を触ると、鏡の中の女性も頬を触る。
「どう? 見違える様に綺麗でしょ。貴女はメイクなんて殆ど無しで、こんなにも輝けるのよ」
両手に肩を置き、顔の横で満面の笑みを鏡に写して、話し掛けてくる。
「初めてで……なんて言ったら……」
「セクハラ辞めろカマ野郎、触ってんじゃねーよ」
睡蓮が回し蹴りで薫を蹴り飛ばし、足を執拗に布で拭く。
「本当に仲が良いん……んぷ」
響が何かを言おうとしたが、睡蓮に睨まれて口を手で押さえる。
薫は沈黙して、ピクリとも動かない。
「大丈……」
「大丈夫だから。カマ野郎はゴキブリよりしぶといから」
それ以上心配すると殺されそうなので、ワンピースの先を弄って誤魔化す。
しゃがんだ響と、いつの間にか居た卯衣は、裾を持ち上げて中を見る。
「わぁーどっちも黒なんて、大人だねー」
「下はいつも通りですが、上は何だか変な感じです。少し大きくなった様な」
何時も普通にしている時よりも、少しだけ起伏がある様に見える。
何時も何処かしら跳ねていた髪は整えられ、爪にはマニキュアが塗られている。
「はぁ……そんなに美人なのに、俺はないんじゃないの? これを機に私にしたら?」
復活の早い薫は、カメラ片手に連写しまくる。
「あの、顔には何かしたのでしょうか」
「何もしてないわよ、元が完璧だったからね。余計な事して崩しちゃったら台無しでしょ? このまま出掛けちゃいましょ」
「おぉー。夜の街に出撃ー!」
一番ノリノリな響の背を、小さな卯衣が追い掛けて行く。
薫に背中を押されて、部屋の外に出る。
「俺は……私は結構ですから、会議を始めてください。私はひとりで行きます」
「この人の言う通りだからカマ野郎。早く会議を始めろよクズ」
「駄目よ、女の子をひとりで夜道を歩かせるなんて」
「知るか、ひとりで行くって言ってるんだから良いでしょ。勝手に襲われてりゃ良いじゃない、そういう性癖なのかも知れないでしょ、邪魔しないの」
「そんな性癖ありませんから。俺は性欲なんて無いので」
「とか言って、男でも待ってるんじゃないの? やるわね貴女も」
先頭の響の襟首を掴んで、反転して薫を部屋の中に押し返す。
佐世保組と呉組を部屋に入れて、ドアを閉める。
廊下を歩いて外を目指していると、帰って来た姫輝が前から来る。
髪を後ろで結っていて、美形の男性の様に見える。
「姫輝さんどうですかこの格好」
姫輝に小走りで駆け寄って、目の前でくるりと回ってみる。
驚いた顔をしている姫輝は、優しい笑顔でこちらを見る。
「綺麗だな。ところでどちら様だ、何故私の名前を?」
何かの書類から目を離して、優しい笑顔を崩す事なく聞いてくる。
「私ですよ……いや、俺です。MI6所属、コードネームM029……何で分からないんですか、最低ですね」
細かく瞬きを三回した姫輝は、書類に落としかけていた視線を、再びこちらに向ける。
「いや、M029は男だろ。胸もあるし、髪も長いし。嘘だろ、何処かにカメラあるのか?」
姫輝は何処にも無いカメラを探し始め、再びこちらに視線を戻す。
「ドッキリじゃないです。私は元々女です、胸は晒で潰して髪は短く見せていただけです」
「嘘だろ。その胸も髪も本物か?」
「疑わしいのなら触ってもらっても構いませんが、触るだけですよ。誰も揉んでも良いとは言ってませんからね」
「何でだよ、お前がM029って言うならそうなんだろうけど……まだ信じられないって言うか」
溜息を吐いて廊下を戻ろうとすると、左手を掴まれる。
気にせずに進もうとするが、引っ張られて、姫輝の腕が腰に巻き付けられる。
「もう部屋に戻りたいので離して下さい」
「さっき仕事の書類と一緒に、この近くでやってる、祭りのパンフレット貰ったんだけど、一緒に行かないか?」
「そんなものひとりで行ってきて下さい。私はもう着替えてきますから」
「分かった。後免、また今度何かの祭りに行こう」
腰に巻き付けていた腕を離した姫輝は、M029の頭を二度ぽんぽんとして、何処かに行こうと、隣を通り過ぎる。
両手を強く握り締めて、意を決して、通り過ぎていった姫輝の服の裾を少し掴む。
引っ張られたのに気付いた姫輝は、立ち止まってM029を見る。
「どうした」
「お祭り……ひとりでは不安なので、案内役お願いします」
「案内役じゃなくて、リード役なら行くよ」
「分かりました……きちんとリードして下さい」
「任せろ。前にも来たことがあるからな、準備するから一度部屋に戻ろう。新しい部屋になったんだ」
手をしっかり握って付いて行くと、浴場に行く為の廊下に着く。
廊下の途中の部屋に入ると、ベッドと机が一つ、椅子が二つある。
明らかに一人部屋で、ふたりで過ごすのは無理があるかもしれない。
「ここでふたりですか?」
「まあ、宿泊施設じゃないから。ここしか空いてなくて、頭を下げて謝ってきたんだけど、部屋を貸してくれるだけマシだろ」
ここで寝泊まりすると言う事は、一人用のベッドでぎゅうぎゅうになって……
小さくガッツポーズをして、姫輝の準備が終わるのを待つ。
「終わったぞ、行こうか」
振り返ると、スーツのままの姫輝が立っていた。
準備と言う準備をしていない様に見えるが、本人が良いというのなら良いのだろう。
廊下に出て、姫輝の腕と横腹の間に自分の腕を入れて、腕を絡めて頭を肩に当てる。
「確保ー!」
廊下を歩いていると、何処からか声が聞こえて、姫輝が薫たちに押さえられる。
「何してるんですか、私たちはこれからお祭りに」
「馬鹿ね、こんなに美少年なのに。貴女みたいな美人の横を歩くのに、スーツは無いでしょ、いえ、絶対に無し」
同じ手口で、あっという間に着替えさせられた姫輝は、モデルみたいな格好になる。
身長に持っていかれた所為か、あまり胸は無いので、潰さなくても気にならない。
顎下辺りまで伸びていた髪は、綺麗に結び直されて、ポニーテールになっていた。
「何で私は男装なんだ、しかもこんなラフな格好した事無いし」
「格好良い。とても似合ってる、有難う薫さん」
微笑ましく見ている薫に礼を言うと、手の平をこちらに見せて、目を瞑る。
「当たり前の事よ。それに、格好良いのに勿体無いじゃない。じゃあ、楽しんできなさい」
丁寧に全員に見送られて、祭りの会場に向かう。
緊張と嬉しさが混ざって、変な気持ちになってしまうが、どうしたら良いのか分からず、取り敢えず姫輝の腕に抱き着く。
ふたりで夜道を歩いて行くと、少しずつお祭りの喧騒が届いて来る。