生徒指導室
渡り廊下で本校舎に行き、一階まで降りる。
職員室前の廊下に早瀬が立っているのが見えた。
そわそわと落ち着かない様子である。
俺が本当に現れるかどうかが不安なのだろう。
俺が近付き視界に入ると、早瀬はホッとした様子だった。
「戸山君、ごめんね。約束の時間より早くなって。わたしは『戸山君はちゃんと五時半に来ます』って言ったんだけど、岩淵先生が放送で呼び出せって言うから……」
「別にいいですよ。ってか、先生が謝らなくていいですよ。先生の所為じゃないですから」
岩淵は俺を動揺させようとしているのだろう。
予定外の事をして揺さぶれば、高校生なんて簡単にコントロール出来ると思っているのだ。
「で、岩淵先生は?」
「生徒指導室で待ってる」
生徒指導室か。
密室で詰問して自白を引き出すつもりのようだ。
やり方がいちいち嫌らしい。
まあ実際、こちらとしては密室の方が好都合なので、どうでも良い事ではあるのだが。
そんな事を思いながら、早瀬と共に職員室の隣にある生徒指導室へ向かう。
部屋に入ると、岩淵が厳めしい顔で座っていた。
その横では生徒指導担当の中谷が腕組みをしている。
今日は雨で肌寒いというのに、中谷は半袖のポロシャツを肩までたくし上げていた。その所為で血管の浮いた太い腕が強調されている。
筋肉ダルマもいるのか……。
こいつも理屈ではなく、感情で動く面倒な教師の一人である。
「座りなさい」
岩淵が言った。
「はい」
俺は岩淵を真っ直ぐ見て返事をする。
岩淵の正面の椅子に腰掛けると、早瀬は岩淵の隣に座り、三人の教師の目が俺に集中した。
「もう一度、朝の事を説明してくれ」
説明も何も……。
「その時、教室にいなかったので分かりません」
そう答えるしかない。
俺は出来るだけ冷静に、そして出来るだけ鼻につかないように注意しながら言葉を発した。
それでも岩淵の顔は一気に苛立ちを増していく。
まあ、仕方ない。この事件の関係者としてあげられているのは俺だけだ。
岩淵は俺を疑うしかないのである。
「そうだな。それでも火が付いた。それが何故なのかって聞いているんだ」
岩淵は声を荒げた。
犯人の見当も付かないという状況は、あまりない事なのだろう。
岩淵の苛立つ気持ちも十分に理解できた。
何か不手際が起きれば、学年主任として責任を問われかねない。
彼がそれを避けたいと思うののは当然だ。
だが、少なくとも生徒の前ではそんな思いがダダ漏れなのを隠すべきだと思う。
俺は岩淵の前にある鞄を見ながら言う。
「俺の鞄には昼食以外は何も入って無かったですよね」
俺はただ岩淵の発言を待った。
しかし、岩淵は黙ったままで動かない。
返す言葉が見付からないのだろう。
結局の所、『俺がどうやって火を付けたって言うんですか』と言えば済むような話なのである。俺が手っ取り早くその一言を使わないのは、それを言う事で感情的な言い合いになるかもしれないという危惧があるからである。
「……そうだな。わかったよ。じゃあ、これをやった人物に心当たりはないのか?」
岩淵は困り果てた末、俺を疑うことを一旦諦めたようだ。
「クラスに余り馴染めてないので分からないってのが正直な所です」
「クラスの仲間全員を疑えと言うのか?」
「違いますよ。疑わしい人物なんて選び出せないって事です。それにやっぱり、どう考えても有り得ない事だと思うんですよ。何かの見間違いか勘違いだと思います」
「でも、勘違いで済ませられる訳ないだろ。早瀬先生とクラスの生徒全員が見てたんだから」
「そうですか? 俺の被害は鞄が水浸しになった事くらいですから。別に勘違いで済ませて問題ないんですけどね」
さりげなく自分が被害を受けていることに言及し、それを問題にしようとしてない事もアピールした。
「でも、これで終わりという訳にはいかないだろ……」
岩淵が考え込んでいるので、俺は少し間を開けてから、口を開いた。
「現実的には、次の何かに注意しておくという形で終わらせるしかない状況だと思いますよ。別にクラスメート達の事を信用しない訳じゃないんですけど、話を聞くほど、これは集団ヒステリーの一種じゃないかと思えて来るんですよね。むしろ騒ぎ立てる事の方に問題があるんじゃないでしょうか」
「うーん。確かに騒ぎ立てる事が一番の問題になるという意見は一理あるかもしれないな……そうだな。わかったよ。今回は次を警戒しておくって事で終わらせるしかない」
岩淵は一番受け入れやすい落とし所に落ち着いてくれたようだ。
この尋問には五分……いや、三分も掛かってないかもしれない。
これだけで終わる事の為に俺を呼び出したのかと少し憤りも感じるが、それも仕方のない事だ。
何せ、これは摩訶不可思議な出来事なのだから。
「じゃあ、何かあったら早瀬先生に相談するように」
そう言って岩淵は足早に生徒指導室を出て行った。
その後ろに筋肉ダルマも付き従う。
結局、ダルマは一言も発さなかったな。
あまりにも呆気のない幕切れだった。
「……すごいね、戸山君」
「何がですか?」
「一つ一つの言動に物凄く説得力があったよ。戸山君を疑う余地なんてないくらい。だから何事も無く話を終わらせられたんだと思う」
「そうですかね」
「そうだよ……」
早瀬の口調が心なしか軽くなっていた。
この場が無事に治まった事に心の底から安堵しているのが分かる。
「じゃあ、僕はもう帰ってもいいですかね?」
「ちょっと待って……」
早瀬が俺の目を見る。
「……ねえ、戸山君。一つだけ聞いていい?」
「いいですけど」
「戸山君は何故そんなに堂々としていられるの? こんな風に大人三人から追求されてたのに」
「え? 堂々としてましたか? 俺も、この件には戸惑ってるって心情を話しただけなんですけど」
「戸山君を見ていると、もしかして戸山君は何か重要な事を知っているんじゃないかって思えてくるんだけど」
「何かを知っていたら、こんな風に振る舞える訳がないと思いますよ」
「そうかな……」
早瀬は不満げな顔で話を続ける。
「わたし、こういう火元の無い発火現象について、インターネットで調べてみたんだけど……色々情報が出て来て、何て言うか」
「オカルト系の話ですか?」
「……ごめん。忘れて」
とか言いつつもチラチラと俺の顔を窺っている。
気になって仕方がないのだろう。
それならと、俺もそれに応える事にした。
「いや、俺も結構オカルト好きですよ。是非聞きたいです」
「へえ、そうなんだ。こういう力はパイロキネシスとか言うらしくて……」
早瀬の声がどんどん小さくなっていく。
自分で自分の言ってることが馬鹿らしくなっているのだろう。
それに合わせて俺も声のトーンを落としながら言う。
「大きな声では言えないんですけど、俺もその方向で調べているんですよ」
「そうなの?」
「そうです。馬鹿らしい話ですけどね……ああ。でも、これはただの趣味ですから、犯人を暴くとか、そういう意図は無いです。単なる興味本位って感じですよ。不思議なことを不思議なままにしておくのも気持ち悪いじゃないですか。やっぱりどう考えても、あの状況での発火するのはおかしい……まあ、そんなに深く考えるべき事じゃないと思いますが」
「戸山君は、あの時何が起きたんだと思ってる?」
「こういう自然発火ってのは世界各地で確認されてるんです。その中には、どうやっても説明のつかないものもある。今日の事みたいにね。そういう場所には大抵、過度のストレスを抱えた人がいます。たとえば虐待とか、幼少期のトラウマとか、そういう精神を病んでしまうようなストレスを起因として、特別な力を持つ人がいるって話です」
「どうやったら、それを防ぐことが出来るの?」
「そうですね。能力者自身が考え方を変えるように働きかけるのが一番です。焦ってストレスの原因をどうこうしようと思っちゃあいけない。いっそ環境を変えてみるってのも一つの手です。ストレスを引き起こしている要因から離れて、心の安定を図る――嫌な事は忘れるに限るって事ですよ」
「そうなんだね」
「分かったことがあったら、また報告します」
「うん。ありがとう」
「あと、オカルト趣味は隠しているんで、秘密でお願いしますね。意外かもしれないですけど、俺だって嫌われたくて嫌われてる訳じゃないんですよ」
俺がそう言うと、早瀬は小さく笑った。
「戸山君が、こういう人で良かった。ありがとう」
「いえ、こういう話が出来たので、俺も満足です」
そう言って、俺は生徒指導室を出たのだった。




