真相
七原は部室の前で佇んでいた。
この時間に職員室で鍵を借りるわけにもいかないので、部室に入れないのは当然だ。
それでも、七原が部室の前までやってきたのは、ここしか心が安まる場所がなかったからなのだろう。
俺は七原の三メートル手前で足を止めた。
俺がやろうとしている事を七原に悟られる訳にはいかない。
こちらの意図が知られるのは、まだ早い。
七原がそれを理解したとき、彼女は心を閉ざしてしまうのだろうから。
「七原」
七原が顔を、こちらに向ける。
涙の筋が頬に付いていた。
「俺達の負けだな」
「そうだね」
「今、そこで優奈と麻里奈に会ったよ――優奈は言ってた、『七原に嫌がらせをしているのは七原に能力があるからだ』って。七原が能力を放棄するなら、二度と攻撃はしないそうだ」
「放棄って、本当に、そんな事が出来るの?」
「ああ。方法は聞いてある。道具も渡されたよ」
俺は七原に向かって、バットの入った鞄を掲げた。
「七原。一番重要なのは、七原自身が能力を捨てる覚悟を決める事らしい。能力者が執着を無くせば、能力は簡単に消えてしまうそうだよ」
「覚悟?」
「そうだよ。覚悟だ」
「そんなこと……」
七原が戸惑っている。
「能力なんて無くてもいいだろ? 七原は能力を使いこなせてない。むしろ、能力によって無駄に傷ついているだけだと思う」
「でも、私は……この力がなくなるのが怖いの」
「七原は優奈が犯人であるという確証を見つけ出せなかっただろ。能力は、言うほど役には立ってないよ」
「それは、この能力が犯人捜しの力じゃないから。これは周囲の人達と上手くやっていくための力だから」
「それだって上手くいってたとは言えないだろ。人の感情って、意外と複雑なんだ。心の声を聞いて要望に応えて、媚びて尽くしても、七原を心の底から好いてくれるとは限らない。だから、あんなにも簡単に態度が変わってしまうんだよ。あんなに冷たい目で見られてただろ? あいつらは心の中で七原を見下していただろ? 七原が能力に執着し続けるのならば、もっと酷い嫌がらせをされるかもしれない。そんな事になったら困るだろ?」
七原は俺の問いに答えず、視線を横に向けた。
「何で、こんな事になったんだろう……」
かすれた声が、そう呟く。
「優奈は言ったんだろ? これは呪われた力、だって」
「うん」
「俺も同じ事を思う。他人の心の声が聞こえる能力ってのは、人を不幸にするものだ。あってもマイナスにしかならない不完全な力だ。消せるのなら消すべきだと思う」
「そうなのかな」
「優奈は、七原の心の弱さが能力に反映していると言った。それがどういう意味か、俺も考えたんだ。たとえば、七原は周囲に人がいれば、必ず心の声が聞こえてくる。それは周りの人に絶え間なく気を遣ってしまうという七原の性質を反映してるって事なんじゃないか?」
七原は無言で俯いた。
「七原に足りないものは自信だよ。七原は、能力なんか無くても、周囲の事をよく見てるし、他人の気持ちを理解できる人間だ。もっと自信を持てよ」
俺は熱弁を続ける。
「七原は勘違いしているよ。能力なんて七原には必要ない。能力を捨てるならば、七原実桜は、今よりも、ずっと上手くやっていけると思う」
「私に出来るのかな?」
「ああ、出来るよ。俺が保証する。能力がなくなれば、本当の友達だって作れる。彼氏だって作れる。良い事ばっかりだ――もちろん、確かに、七原の能力が特別なものって事実はある。だけど、執着したって仕方ないものだろ? 人の心の声が聞こえるだなんて面倒なだけだ」
「でも……」
「躊躇する気持ちも分かる。だけど俺はさあ、自然体の七原の方が――能力を使ってない時の七原の方が好ましいと思うんだよ。普通に笑ったり、普通に怒ったりする七原は、教室での七原よりも、ずっと魅力的だ。誰が何と言おうと、それは俺が保証する。七原は俺を『冷静に見れてる人』だと言っただろ? 『俺の観察眼を信用してる』って言っただろ? その俺が言う事なら信用できるだろ? 何なら能力で俺の本音を聞いてもらっても構わないよ。真面目で気配りができる所は、七原の美点だ」
最後は麻里奈の言葉も借りた。
俺も本当にそう思うし、双子と七原が仲良くなるという未来に期待するからである。
七原は顔を上げて、俺の顔をじっと見つめていた。
「……本当?」
「ああ、本当だよ」
俺は力を込めて答える。
――あと少しだ。
「いいのかな? 能力を捨てて」
「俺はそれでいいと思う。そういう七原であって欲しいと思う。だから、能力を消させてくれ」
俺の提起に、七原は再び顔を伏せた。
決断には時間が掛かるかもしれない。
それでも、俺は待ち続ける事にした。
――なんて事を考えていると、唐突に七原が身を低くする。
困惑する俺に、七原は猛烈な勢いで突進して来た。
「はあ!? おい! 待てよ!」
避ける事も出来たが、それでは七原がバランスを崩して転倒するかもしれない――俺は大人しく受け入れる。
気付けば、後ろに倒れていた。
七原は、さらに俺の肩を押さえつけ、仰向けの俺の上に覆い被さる。
目の前に七原の顔があった。
背中には廊下の堅い感触。
廊下って、やっぱり冷たいな。
俺はそんな事を思った。
俺の肩の横に七原が手をついている。
さすがに、それを払いのけて起き上がるわけにはいかないだろう。
こういう場合、どこに触れれば、後でセクハラと告発されないのだろうか。
「七原。何で、こんな事をするんだよ?」
彼女の行動には、戸惑いしかない。
「私、分かったの。黒幕が誰なのか」
「だから黒幕は双子だよ。さっきまで、双子と、その話をしてたからな」
「違う!」
「じゃあ、誰だって言うんだよ?」
七原は俺を真っ直ぐ見て、口を開いた。
「……戸山君だよ」
「はあ!?」
「だから、戸山君が私への嫌がらせを主導してたんでしょ? 優奈さんも麻里奈さんも戸山君の指示通りに動いてただけ」
「ちょっと待て。何で俺が黒幕なんだよ? 七原、冷静になってくれ」
俺は、そう言った。
落ち着いて話せば、七原も分かってくれるはずだ。
俺が犯人なわけが無いじゃないか。
「私は冷静だよ。一通り泣いたから」
確かに、七原の目元に光っていた涙の粒は無くなっている。
「じゃあ言ってみろよ。何で俺を犯人だと思うんだ?」
「たとえば、昨日の昼に私達が密会してたって噂の件ね。特別棟で私と戸山君が会う事を知っていたのは、私以外には戸山君だけでしょ」
「それは双子に目撃されて噂を流されたって話だったろ。俺がどうやって噂を流すんだよ」
「まだ惚けるのね。優奈さんに連絡して、指示おけば済む話でしょ。私が守川君の告白に困ってた事を知っていたのも戸山君だけだよ。だから、紗耶が私の力を回避するように便宜を図ることが出来る人がいたとするならば、それもやっぱり戸山君だけなの」
ああ、確かに。
七原のように心の声を聞く能力でも持っていなければ、あの日の時点で、七原が守川の告白に困っている事なんて知れるはずもない。
「だとするなら、幾つもの偶然が重なっただけって話だ」
七原は、首を横に振った。
「今、ここに来た時だって、戸山君は私の能力が届かない位置で足を止めた。戸山君は優しいから、私が泣いてたら、昨日みたいに近くにまで来て慰めてくれる。たとえ、自分の考えている事が筒抜けになる不快さを我慢してでもね。だけど今日、戸山君は、そうしなかった。そうできなかった。その理由を考えたの……」
「その理由は何だって言うんだよ?」
「多分、戸山君は私が能力を消す覚悟を決めるまで説得を続けるつもりだった。それに手こずっている内に、ボロが出てしまうかもしれない。自分が黒幕だとバラしてしまうようなことを考えてしまうかもしれない。そう思ったから、私に近づけなかった」
「違う。俺は、ここに来る時、双子に色々話を聞いてきた。そして、七原の能力を消すように勧めるつもりで来た。七原が、それを寝返ったと判断して心を閉ざすかもしれないと思った。だから俺は、すべての説明が終わるまで、七原に能力を使われないようにしようとしたんだ」
「言い訳が上手いんだか下手なんだか」
と、七原は言う。
俺は困惑していた。
そんな訳ないだろ。
なんで俺が、そんな事をやるんだよ。
七原を貶めて、俺に何のメリットがあるんだよ。
クラスの中心人物だった七原に、やっかみがなかったとは言えない。
だが、俺は、ずっと話を聞いてやったじゃないか。
相談に乗ってやったじゃないか。
こんな有り得ない話に付き合う奴なんて普通はいないぞ。
その俺を疑うなんて性根が腐ってるんじゃないのか?
七原は、相変わらず真っ直ぐに俺の目を見つめている。
七原の顔が間近にある。
――えーと。あと、何を言うべきかな。
ああ、そうだ。
「こんなに顔が近づいても、胸は当たらないんだな」
まあ正しくは、そこまで顔は近くない。ただの軽口である。
「そう言ったら、私が離れると思った?」
そう問い掛けると、七原は黙り込んでしまう。
……。
……。
会話を止めるのは駄目だ。
沈黙している時は色々と考えてしまう。
もう気を逸らすのも限界だ。
動揺が俺の心を浸食して行く。
「やっぱり、そうなのね」
俺は溜息をつく。
もう認めざるを得ないようだ。
「そうだよ。俺が黒幕だよ」
もう溜息しか出ないのである。
――どれだけ俺が苦労したと思ってるんだよ。
こっちは三日間、死ぬ思いで駆けずり回っていたのだ――七原を騙しきる為に。




