朝の教室
教室に着く。
今日も空気が重苦しい。
七原の席の周囲には、ぽっかりと空間ができていた。
藤堂達が居ないからというのもあるが、それだけのせいではない。
それでも、今までは誰かが七原の周りに居たはずなのだ。
しかし、今日の七原は、ぽつりと一人、着席しているのである。
俺は七原の席の横を通り、自分の席に座る。
その時だった。
教室の前側のドアが勢いよく開き、藤堂と子分達が教室に入って来る。
藤堂達は、まっすぐ七原の席の前に歩いて行き、七原を取り囲んだ。
「実桜」
七原は苦々しい表情を浮かべている。
「ねえ。実桜」
無視をした七原に、藤堂は再び話しかけた。
今日は昨日よりも更に声の音量が大きい。
それは騒音と呼べるようなものだった。
否が応でも教室中の視線が集まる。
クラスメート達は、またあんな感じの揉め事が始まるだなと思って眺めているのだろう。
それを嫌悪している奴もいるだろう。
しかし、彼らは見て見ぬフリをする。
当然だ。
カースト上位同士の喧嘩に関わりたいと思うはずもない。
特に藤堂紗耶の揉め事に巻き込まれるなんて最悪だ。
「実桜、昨日の放課後は何してたの?」
七原は何も答えない。
「何で答えてくれないの? 気になるんだけど」
七原は藤堂のやろうとしている事を全て悟ったのだろう、七原は無言のまま立ち上がる。
そして、机の横に掛かっている鞄に手を伸ばした。
しかし、藤堂が七原の腕を掴み、それを遮る。
「戸山。ちょっと来て」
藤堂は突然、俺の名前を呼んだ。
「はあ? 何だよ?」
俺は自分の席に座ったまま返答する。
「あたしは、こっちに来いって言ってるの。戸山にも関係ある話だから」
仕方なく藤堂の前に行く。
藤堂を真ん中に、左に笹井、右に柿本が突っ立ている。
七原と俺は、それに対峙する形となった。
七原は諦めた様子で、鞄を握ろうとした手を引っ込める。
……なるほど。
藤堂が俺を呼んだ理由が理解できた。
七原が帰れば、藤堂は、代わりに俺を問い詰めるだろう。
これは真面目な七原が責任を放棄して逃げ出すのを防ぐ為なのだ。
いわば、俺は人質なのである。
それを理解すれば、藤堂が何をネタに七原を責め立てるつもりかも分かった。
藤堂は七原が昨日俺の家に来た事を知っているのだろう。
「さっき、あたしの携帯に差出人不明の写真が送られてきてね」
藤堂が芝居のセリフのように大袈裟な身振りで話し始めた。
藤堂はクラスメート達の興味の引き方を心得ている。
沢山の視線の集まる中、藤堂は携帯を取り出し操作する。
目的のものが出たのか藤堂がニヤリと笑いながら、携帯の画面を俺達に見せつけてきた。
昨日、玄関先で揉めていた俺と七原の写真だ。
七原は後ろ姿だったが、髪型と雰囲気で、すぐに分かる。
「これ実桜だよね?」
俺はそれでも否定しようかと思ったが、すぐに否定しても無駄だと理解した。
七原の動揺が、誰から見ても一目瞭然なものだったからだ。
藤堂はこれ見よがしに指をスライドさせ、次々と写真を見せる。
「一枚目の写真は困った顔で出迎える戸山と実桜の後ろ姿。次は実桜がドアの間に体をねじ込みドアを閉められないようにしてるところ。そして最後は戸山の家に入って行く実桜の写真」
藤堂は、後ろの方のクラスメートにもわかるように、事細かく説明する。
「誤解しないで、別に実桜が誰と付き合おうと関係ないよ。そんな事に文句言っているわけじゃないから。あたしが知りたいのは、あたしの携帯に、この写真が送られてきた理由なの」
藤堂は嫌な笑みを浮かべながら言う。
「きっと、この写真を撮った人は、あたしに問いただして欲しいんだと思う。七原実桜が、守川と皆を騙しているって。実桜は、どうなの? こんな風に実桜に腹を立てている人に心当たりはないの?」
俺と七原には、このメールの差出人が誰かなんて分かっている。
七原が俺の家に入るのを見たと言った人物がいるのだから。
「さっきも言った通り、この写真を送ってきたのが誰だかは分からない。初期設定みたいなメールアドレスだったから。でも、このメールから、もう一つ分かる事ある」
名探偵を気取った藤堂は、観客を魅了していく。
藤堂はメールを指差しながら言った。
「このメールの宛先は、あたしのアドレスだけじゃない。もう一つ別のメールアドレスが指定されていた。そのアドレスにはカズヤモリカワって文字列が含まれているの」
それを聞き、クラス中の視線が一斉に守川の席に向かう。
だが、そこに守川はいなかった。
鞄もない。
まだ学校に来ていないようだ。
「守川君は傷ついたでしょうね。好きな人と親友、その二人に一度に裏切られたんだから」
守川……。
何で、こんな大事な時に居ないんだよと思う。
守川が居れば、いつも通り空気を読まない、調子外れな事を言ってくれただろう。
守川って、何も響かない奴だなと笑えただろう。
安心できただろう。
しかし、守川は居ないのである。
「あたし、去年も守川と同じクラスだったけど、欠席は一度もなかったし、調子が悪そうなのを見た事もない。なのに、守川は来てない」
クラスが重苦しい空気に包まれる。
「これって最悪の事を考えちゃうよね」
最悪の事って何だよ。
そんな事、あるはずがない。
しかし、俺でさえもクラスに満たされた重い空気に飲まれてしまいそうだった。
「教えて、実桜。あなたは皆を騙してたの?」
藤堂はそう言うと、七原を真っ直ぐ見る。
どこまでも冷たい目だ。
周囲を見渡すと、さらに沢山の冷たい目があった。
その全てが七原に向けられている。
クラスメート達は七原を見下し始めたようだ。
これは最悪の事態だ。
七原が今までどれだけ頑張ってきたとしても。
七原がどれだけクラスメートに媚びて尽くしてきたとしても。
自分を犠牲にして完璧を演じ続けていたとしても。
こんなにも簡単に評価は変わってしまうのだ。
クラスメート達が、今までのように七原と接する事は、もう無いだろう。
『気に入らない』と烙印を押されたのだから。
七原も俺のような嫌われ者になる――藤堂が俺を七原の横に立たせたのは、そういう印象操作をしてやろうという意図があったのかもしれない。
七原のイメージを落とすだけでは、反撃が怖い。
七原をクラスの中心的な存在から、一気に嫌われ者に引きずり落としてしまおうという策なのだ。
「黙ってたら分からないから」
藤堂は、さらに七原を追い詰めようとする。
視線から逃れる為か、涙を隠す為か、七原は俺達に背を向けた。
そして一歩、また一歩と足を出し、七原は教室を出て行った。
ついぞ一度も弁解しないまま、七原は教室から逃げ出したのだった。
そして、それを追って俺も歩き出す。
「追いかけるんだ?」
藤堂が後ろから声を掛けてきた。
少し沈んだ声ではあるが、罪悪感は感じていないだろう。
自分は間違った事をしていない、そう信じて疑わない――藤堂はそういう奴だ。
付ける薬は無い。
「体調悪そうだったから、保健室に連れて行くよ。担任にも、そう言っておいてくれ」
藤堂は頷く。
「で、戸山。あんたは実桜と付き合ってるって事で、いいんだよね?」
その質問は、七原実桜の権威の失墜を決定づける為のものだろう。
だから、俺はこう答える。
「付き合ってないし、付き合ってやるつもりもない。俺は七原が嫌いだからな」
『ひどい』とか
『最悪!』とか
『お前が、上から目線?』とか
そんな言葉が聞こえてくる。
その全てを無視して、俺は教室を出た。




