功労者
ずっと寝ているわけにもいかないので、身体を起こし、バットケースを拾い上げる。
取り敢えず外に出よう。
目に見える景色こそ違うが、ドアや階段の位置関係は、陸浦に見せられていた幻覚と一緒だった。
階段を上り、もうしばらく使ってないだろうなというカウンターテーブルの横を通り抜け、外へと出る。
――さて、ここからどうするかだよな。
今日の出来事を改めて振り返ってみると、思い至る事がある。
放火事件の事を知ってから、陸浦栄一に会いに行くまで――それらが誰かの都合で動いていたとするなら、霧林誠によるものだとしか思えないという事だ。
柿本理事官に、根岸院長に、牛岡哲治。
行く先々で、霧林の『陸浦栄一が疑わしい』という意見を裏付ける情報が出て来た。
では何故、霧林は陸浦栄一を怪しんでいたのに、今まで自分で動く事がなかったのか。
それは、もちろん疑問点ではあるが、霧林が陸浦栄一を恐れていたという事で一応の説明は付く。
では何故、俺を一人で陸浦栄一の所に行かせたのか。
それが大きな疑問となる。
取調室での牛岡との会話を終えて、お互いの意見の摺り合わせをする前から、霧林の中には『俺が一人で陸浦栄一と会う』という結論があった。
霧林達が一緒に来ないのは良いとしても、ファミリア-ギュのそばで張り込みをしながら、柿本達の救援を待つという手段もあったはずだ。
霧林の立場や経験を考えれば、安全策を提示する方が、しっくりくるのである。
他にも、霧林が三津家を養子にすると言い出した事が少し腑に落ちない。
あの場面は緊急的に、それを言う必要があるという状況でも無かった。
治療中の患者に対して、そういう申し出をするのは医師としての職業倫理に反するのではないだろうか。
霧林の行動には裏の事情があると思えてならない。
俺が陸浦栄一に排除されるように仕向けていたとしか思えない。
そこで再考すべきなのは、根岸院長や牛岡哲治、さらに柿本理事官や楓を思い通りに動かす事が、霧林に可能だったかという事だ。
しかし、それは一言で説明が付く。
仮に、霧林が洗脳系の能力を持っているとするならば、容易な話なのである。
洗脳系となると、タチが悪すぎるよな――心からそう思う。
形に拘らなければ、陸浦栄一だけではなく他の排除能力者を俺に差し向ける事が出来るのだ。
こちらが怪しんでいるという事を悟られないうちにカタを付けないといけない。
ここまで考えていて、ふと思う。
先程、気を失ってから目を覚ました時、俺の手元の近いところにバットケースが置いてあった。
これは陸浦栄一から『すぐにでも霧林を排除した方が良い』というメッセージなのかもしれない。
ファミリア-ギュ近くまで戻って来ると、さっきと同じ場所に霧林のミニバンが停まっているのが確認できた。
俺のやるべき事は簡単だ。
不意打ちで霧林の前に現れ、どういう反応をするかを見て、霧林が黒幕かどうかを判断すれば良い。
状況によっては、『強制排除』も視野に入れておけばいいだろう。
仮に霧林が能力者という結論が間違いだったとしても問題は無い――ケツバットによる排除は、実害として見てみれば肉体的な痛みのみだ。
俺と霧林の関係性を崩壊するかもしれないが。
ケースから金属バットを取りだし、握りしめる。
いつもとは違う硬い感触に、いっそう気が引き締まった。
靴音を殺し、死角を計算しながら、慎重に車に近づく。
強制排除を、こんな形で使うとは思わなかった。
心臓がバクバクと音を立てる。
姿勢を低くして、運転席のドアに近付き――思い切ってドアノブを引っ張り、車内を覗き込む。
――は?
どんな事が起きてもと、心構えをしているつもりだった。
だが、思考が全く以て追いつかない。
何故なら、運転席に座っていたのが赤髪の女――樋口楓だったからである。
「え? 楓が何で、ここに?」
楓は含み笑いを浮かべた。
「私達が米代市に帰って来る途中って話は聞いてただろ?」
確かに、楓が本部から柿本理事官を連れ帰って来ているという話だったな。
「……でも、それなら霧林さんはどこに?」
「マコトなら、後ろだよ」
楓が親指で後部座席を指差す。
楓の言う通り、そこには霧林が居た。
肩から下がブランケットで包まれていて、その周りを紐で縛られている。
さらには口をガムテープで塞がれた状態だ。
「どうしたんだよ、これ」
「マチコと力を合わせて、何とか取り押さえたんだ。身動きを取れなくして、口を塞いでおけば問題は無い。マコトの能力は『口車』だからな」
やはり霧林誠は能力者だったという事か。
「そっか……霧林さんには、ずっと口車に乗せられていたのか……」
「まあ、ノゾミが責任を感じる事は無いよ。あたし達も同じだ。あたしとマチコは八年も騙されてたんだ」
上司の柿本理事官を『マチコ』と呼ぶなんて、やはり楓は筋金入りだなと思いつつ、「で、三津家は?」と聞く。
「マコトが能力者だと知って、ショックが大きいだろうからな。マチコと一緒に、あたしの車で砂見病院に戻ってるよ。ノゾミも早く乗れ。排除は病院で執行する」
「わかった」
言われるままに助手席に乗りこむ。
同時に、車が唸りを上げて発進した。
相変わらず、運転が荒い。
柿本理事官で溜まった分のストレスを発散しているのだろう。
「いつから、霧林さんが怪しいと気付いてたんだよ?」
「あたし達も、さっきまでは考えもしなかった事だ。今回の件には功労者がいてな」
「功労者?」
「ああ。彼女は、あたしやノゾミより、ずっと先んじて真実に辿り着いたんだよ」
楓がポケットから携帯を出して、ノールックで俺に渡した。
その画面を見ると――ビデオ通話機能を使っているのだろう、七原が映し出されている。
背景の雰囲気や服装をみるに、それが彼女の自室である事が何となく分かった。
ななはらだ。
ななはらがいる。
ななはらだ。
ななはらがいる。
ななはらだ。
久しぶりの七原の登場に思わず脳が溶ける。
いや、久しぶりでも無いか。たったの一日だ。
「戸山君、こんばんは。久しぶりって気がするね」
「ああ。七原、体調はもう大丈夫なのか?」
「うん。昼まで寝てたから万全だよ。でも、まあ疲れも溜まってたし、今日は行けなくてごめんね」
たった一日、七原がいなかっただけで、ヘコたれそうだった事は決して口に出せない。
「そっか、本当に良かった。じっくり休んでくれ――で、辿り着いた真実ってのは?」
「霧林さんについて、色々と情報が入って来てね。霧林さんが、どんな能力者かも予想が付いて――それで、戸山君に連絡しようとしたんだけど、この話は実際に霧林さんと一緒に居る戸山君よりも、先に楓さんに話した方がいいんじゃないかと思ってさ」
「楓の連絡先を知ってたのか?」
「それについては、順を追って話すよ」
「ああ」
「じゃあ、最初から話すね――」
そう言うと、七原は眉根を寄せた。
「実のところを言うとね。霧林さんには初めて会った時から、胡散臭さを感じてたの。アイマスクの件があったから疎外感を持ってたってだけかもしれないけど、霧林さんには何となく、軽んじられているというか。まったく相手にされてない感じがしてた、人当たりは良いのにね」
「そうだったのか……」
「うん。そして今日、霧林さんと話している時の事を何度か思い返していたら、ふと気が付く事があった」
「何だ?」
「霧林さんは、何となく戸山君に似ている」
「え? 俺?」
「最適な言葉を選んで、策を巡らせて、人を操ろうとしている感じだよ」
横に居る楓が「確かにな」と呟いて笑う。
まあ事実として、俺は七原を何度も騙しているから何も言えない。
「ああ、違う違う。戸山君を責めるつもりは無いよ。それは悪い意味じゃなくて、霧林さんが策略家タイプだって気が付いたってだけだから」
「分かったよ」
「でね。戸山君が『符滝医院には行くな』ってメッセージを送って来てくれてたでしょ? それを見てて思ったの――同じお医者さんなら、符滝先生も霧林さんの事を知っているかもしれないって」
「ああ、なるほど。そういう事か。そこから霧林さんの情報を得たって訳だな」
霧林が市立病院に勤めていた時の話になるって事だろう。
大体で八年以上前の話って事だ。
「そう。符滝医院に電話してみたら、符滝先生も剛村さんも霧林さんの事を知っているって話だった。特に剛村さんは当時、看護師長をやってたから色々な噂を耳にしていたらしいよ。剛村さんは他人の事をベラベラ喋る事なんて出来ないって言ったんだけど、重要な事だって誠心誠意で話したら、納得してくれた」
「剛村さんは何て言ったんだ?」
「剛村さん曰く、霧林さんは爽やかで、誰に対しても分け隔て無く優しくて、若い看護師さんからも人気が高かったそうだよ。で、剛村さんに近い一人の看護師さんが霧林さんと付き合ってたらしいの。その看護師さんが、ある日、剛村さんに人生相談したいと言ってきてね――」
「ううー! ううっー! ううううっう!」
後部座席で霧林が声を上げている。
口を塞ぐガムテープで、何を言っているかよく分からないが、おそらく『やめてくれ』とか、そのあたりだろう。
聞かれては困る話という事だ。
「七原、続けてくれ」
「うん。その看護師さんの友達が見掛けたらしいの――霧林さんが五歳くらいの女の子を連れて歩いてるのをね。だから、彼女は霧林さんを追及した――子供がいたのか。家庭があったのか、と。そうしたら霧林さんは『籍は入れてないから』とかゴニョゴニョ言いながらも事実を認めたって話だった……」
「霧林さんに子供?」
いやいや、中々に衝撃的な事実である。
もし牛岡に会う前に符滝医院を訪れていたら、その事実に辿り着いていたかもしれないと一瞬思ったが、そうはならなかっただろう。
霧林は、自分に都合が悪い展開になれば、口車で俺達を別方向に誘導していたはずだ。
横でハンドルを握る楓も、眉間に皺を寄せる。
「正直、あたし達も、その話を聞いて驚いたよ。あたし達の知るマコトは人畜無害を絵に描いたような奴だった。居ても居なくても変わらない単なる数合わせだと思ってた」
「それは非道いだろ」
「ミオ、他にも聞いた話はあるんだよな、マコトについて」
七原が困り顔で頷いた。
「……はい。確かに剛村さんに聞いた話はそれだけじゃないですけど」
「それもノゾミに教えてやってくれ」
「ううー! ううー!」
と、霧林が更にジタバタしている。
「これも、霧林さんの彼女だった看護師さんが話した事らしいんだけどね。霧林さんには特殊な性癖があったらしくて、その看護師さんと夜な夜な出掛けては、人の居ない場所に車を停めて、車の中で……、その……、イチャイチャと……」
七原が言いづらそうに顔を歪めた。
ああ、そういう事か。
つまり――。
「つまりはシンプルな話さ――」
楓がドヤ顔で俺を見る。
「その看護師とマコトはミニバン不倫をしていたんだよ」
「そんな言葉ねえよ! もうやめて差し上げろ!」
激しく呻き声を上げていた霧林が、ぐたっとしていた。
「でも、マコトは、その行為に都合が良いように後部座席の居住性が高いミニバンを選んでた訳だし、ブランケットや車用カーテン、アイマスクなどを備え付けてたのも――」
「アイマスクも、そのシリーズなのかよ」
「そういう事だ。マコトが転職してくるまで、砂見病院に一般人を連れて行く時、アイマスクをつけるというルールなんて無かった。完全にマコトの性癖だろう」
七原が曇った表情のまま頷きながら、口を開く。
「そこで私は確信したの――霧林さんが放火事件の黒幕だって事を」
「それは早計だろ!」




