七原実桜
教室を出た俺は、特別棟へと向かう。
特別棟とは図書室や美術室といったような特別教室が多い校舎だ。
米代市立米代高等学校の特別棟は、いつも閑散としている。
今日も今日とて、特別棟に入った瞬間、人の気配というものを全く感じなくなった。
文芸部の部室とやらは、その特別棟の四階という誰も到達しないような場所にあるようだ。
部室への道すがら、七原の印象について振り返る。
思えば、七原は本当に不思議な奴だ。
彼女は控え目で気配りが出来て、いつも話の聞き役ばかりである。派手な事は好まない。どちらかというと大人しいタイプだ。
だが、七原は現在クラス内で屈指の影響力を誇り、クラスの中心的存在である。
政治家の孫だとか、理事長の娘だとか、そういう分かりやすい後ろ盾があるのなら、今の状況を理解できる。しかし、七原はただの一般の女子生徒だ。
我が物顔でクラスのトップに君臨するのは、いつだって藤堂のような派手な人間だ。一年の頃、藤堂と同じクラスで痛い目を見た俺は、二年のクラスでも、藤堂が発言力、影響力を誇示することになるだろうと予想していた。
しかし、フタを開けてみれば、全く違う結果になった。
さっきの教室での出来事のように、ラスボス級に我の強い藤堂でも七原を尊重せざるを得ないという状態なのである。
何故こんな事が起きたのか。
七原の何がそれほど特別なのか。
それを考えていて最初に思いつくのは、七原が他人をよく見ているという事である。
七原は他人の気持ちを察するのが天才的に上手いのである。
どんな話題にも上手く対応するし、困っている人には、いち早く声をかける。どんな小さな争い事も見つけ、いとも簡単に険悪な空気を取り除いてしまう。
そういった気配りを積み重ねて、七原は今の地位を得ている。
その鮮やかな立ち振る舞いを見ていると、人の心を読む能力でもあるのではないかと思えてしまうほどである。
教室という場所は毎日同じ顔ぶれの閉鎖的な空間である。
それ故に嘘や誤魔化しは、すぐに通用しなくなる。
その中で七原はクラスメート達の心をがっちりと掌握した。
七原実桜には特別な何かがある。
俺は常々そう思っていた。
そんな事を考えていると、部室に辿り着いた。
静かな廊下は五月も半ばなのに肌寒く感じる。
廊下の窓の下には校舎裏の森が見えた。
誰も居ない。
誰も通らない。
そんな場所だ。
何故こんな場所に呼び出されたのか。
考える。
そしてそれに対する一つの推測が現実味を帯びてきた。
いや、それは今まで考えるのを避けていただけで、最初から第一候補に挙がっても、おかしくないような事だったと思う。
七原が俺を呼び出した目的――それは俺をボコる事なのだ。
それ以外で、こんな人目につかない場所に呼び出す合理的な理由は見出せない。
俺が七原に抱いている控え目という印象から掛け離れた行動ではあるが、その印象は、あくまでも俺が勝手に抱いているものでしかない。
もしかしたら、こういう裏の活動を行っているからこそ、クラスでトップの地位まで登りつめているのかもしれない。
……まあ、先に七原の目的が分かったところで、どうでもいい事だな。
前述の通り、俺に逃げるという選択肢は存在しない。
逃げたら、もっとひどい制裁が待っているに違いないのだ。
俺は七原の暴力を大人しく堪え忍ぶ覚悟を決めた。
「と、戸山君!? 廊下で何してるの!?」
その声で、俺は地面に擦り付けていた顔を上げた。
そこには七原実桜が立っている。
「これは土下座といってな。心からの謝罪の気持ちをあらわしているんだ」
「いやいや。私は何で土下座をしているのかを聞いてるの」
声音や表情から判断すれば、七原は、俺の土下座に純粋な疑問を抱いているようだ。
俺の出した結論は間違っていたのだろうか?
「どんな結論なのよ」
七原は呆れている様子である。
俺は足の痺れに耐えながら、冷たい廊下から立ち上がった。
「そんな、足が痺れるほど……大丈夫?」
「ああ」
俺は頷く。
そして、七原と目線が合った。
――考えてみれば、俺は初めて七原を正面から見たかもしれない。
髪は肩に掛かるくらいと長いわけでも短いわけでもない。
化粧は薄く、派手な装飾もしていない。制服も着崩すわけでもなく、校則通りにきっちりと着ているわけでもない。
おそらく、七原は誰からも文句を言われないような無難な格好を目指しているのだろう。
しかし、七原にはどんなに隠しても隠しきれない美しさがあった。
派手派手しく輝きを放つ藤堂とは対極だが、それでも対等に渡り合うだけの魅力があるのである。
そんな事を考えていると、七原が気まずそうに目をそらした。
……ああ、うっかりジロジロと見てしまったようだ。
クラスの人気者の気分を害してしまったかも知れない。
でも、まあ、それは仕方ない事だと思う。
七原は造形物として単純に綺麗なのだ。感心してしまうくらいに。
そんな事を考えていると七原が口を開く。
「呼び出したのに遅くなって、ごめんね。色々あったの……まあ、さっき教室で、私達の会話を聞いてたから分かってるだろうけどね。あの後、職員室に行って顧問の田畠先生に鍵を借りて来ないといけなかったし……それでも急いできたんだよ」
誘いを断った藤堂へのフォローを終えて、一階の職員室まで行って来た時間としては短いものだろう。他の女子生徒なら、藤堂の機嫌を取り戻すまでに、もっと長い時間が掛かるはずだ。
それに、俺には文句なんて言えない。
俺ごときは何日待たされても仕方ないような存在なのだ。
「ごめんって。遅くなったのは謝るから、卑屈にならないでよ――って、こんな所で話しててもなんだから、中に入りましょ」
と、七原は言う。
初めて話すはずなのに、やけに親しげだ。
今まで何度も話しているかのような気安い態度である。
普通なら初めて話す相手には、もっと距離感を計りながら話すものだろう。
まあ、それが七原の人気の所以という事だろうか。
「とにかく、部室の中で話しましょ?」
七原は部室の扉を鍵で開くと、俺に中へ入るよう促す。
俺は緊張を感じつつ部室に入った。
今まで部活動というものに関わってこなかったので、初めて部室なんてものに入る。
それは俺の抱いていた部室のイメージとは違うものだった。
がらんとした部屋の中心に長机二脚と椅子四脚が向かい合わせに設置されている。そして、それ以外は何の変哲も無い普通の教室だ。文芸部の部室だというのに書棚さえもない。
そうやって俺が部屋の中を見回していると、後ろでガチャリと鍵を締める音がした。
――やばい。閉じ込められた!
七原のフランクな態度に油断してしまっていた。
結局、七原は俺に制裁を加えるつもりで呼び出したのだ。
その手段が暴力という直接的なものでは無く、監禁だったということである!
俺は入ってきた扉の方に慌てて振り返った。
……すると、そこには七原の背中がある。
どういうことだろう?
七原は内側から鍵を掛けたようだった。
七原はこちらに向き直ると鍵をポケットに仕舞う。
「驚かせてごめんね。安心して。戸山君を監禁するつもりなんてないから」
七原はそう言った。
……おかしいな、と思う。
何で七原は、俺が『監禁された』と思った事を知っているのだろうか?
『閉じ込められた!』とか声に出してしまっていただろうか?
いや、どう考えても言ってないはずだ。
そして、それよりも何よりも、何で内側から鍵なんて掛けたのだろう?
いくつもの疑問が頭に浮かぶ。
「これからする話は、他の人に聞かれたら困る話だから鍵をかけたの」
俺は溜息をつく。
七原は、また俺が考えていることを言い当てた。
もう何が何だかわからない。
七原の言動はおかしい事だらけだ。
七原が俺を呼び出した目的について色々な可能性を考察したが、どうやら、そのどれとも違っているようだ。
もう考え疲れたというのが正直なところだ。
面倒くさい。
早く帰って眠りたい。
家でダラダラして時間を浪費したい。
だから、俺は正直な所を言う事にした。
「悪いけど、俺にだって外せない用事ってもんがあるんだよ。とにかく、手短にして欲しい」
「戸山君。あなた、全然正直な所を言ってないでしょ?」
七原は呆れ顔で言った。
たしかに用事があると言うのは嘘だが、帰りたいという気持ちは正直だ。
それにしても、何故七原はここまではっきりと俺が嘘をついたと言えるのだろうか?
七原は、俺の考えている事が、一から十まで全部分かっているようなのだ。
「そう。当たり。私には戸山君の考えている事が全部分かってるの」
七原は当然のことを話すように真顔で言った。
まさか、他人の思考を読むことが出来るとでも言うつもりだろうか。
「そうね。厳密に言えば、私は他人の心の声を『聞く』能力があるの」
七原は即座に俺の頭の中の疑問に答えた。
いやいや。そんなの有り得ないだろ。
「悪いけど、そんな冗談に切り返す機転は、俺には無いよ」
「冗談なんかじゃないから。本当に私は能力者なの。戸山君は私がここでこの能力を見せる前から、他人の心が読めるんじゃないかって感想を持っていたでしょ?」
確かに七原には特別な何かがあると思っていた。
しかし、それとこれとは話が別だ。
そんな力が存在するとは思えない。
何か仕掛けがあるはずだ。
俺は一旦、深く息をついた。
今は、無理矢理にでも自分を落ち着かせないといけない。
ついつい動揺してしまっていた。
「ついつい動揺してしまっていた、って考えたね」
七原が何食わぬ顔で指摘する。
多分、七原は突拍子も無い事を言って会話の主導権を握ることで、俺の思考を誘導しているのだ。
「多分、七原は突拍子も無い事を言って会話の主導権を握ることで、俺の思考を誘導しているのだ」
だが、口調やアクセント、更には間の取り方まで過不足なく俺の考えていた事と一致している。こんな事が現実的に可能だろうか。
「だが、口調やアクセント、更には間の取り方まで過不足なく俺の考えていた事と一致している。こんな事が現実的に可能だろうか」
まさか本当に能力なんてものがあるというのだろうか。
「まさか本当に能力なんてものがあるというのだろうか」
私はエロい女です。
「何を言わそうとしてるのよ!」
言えないのか? ってことは、能力の話は嘘か?
「そんなこと言われても、言えないものは言えないから!」
じゃあ信じられないな。ちゃんと言うなら信じてもいいんだけどなあ。
「もうやめて。能力を認めてくれたのは分かったから」
七原は悔しげに言う。
「戸山君、さすがだね。能力の事を打ち明けたばかりなのに、こんなに早く切り返してくるなんて。能力を信じてくれるまでに、もっともっと時間がかかると思ってたんだけど」
「まあ、これだけ完璧に思考を読まれたらなあ」
本物の超能力か、トリックか、そんな事を考えるのは無意味だというのが俺の結論である。
どっちでもいい。
考えるのも面倒だ。
本物にしても偽物にしても、七原の思考を読み取るというスキルは確実に特別なものなんだから。
そんな事を考えていると、七原の表情が不満げなものに変わっていく。
「細かいと思うかも知れないけど、私は心を読んでるんじゃない。心の声が聞こえてくるのよ」
細かい。
「だから細かいとか思わないで」
面倒くさい。
「たしかに自分が面倒くさい人間だと自覚してる。でも、戸山君には正しく理解して欲しいの」
「何でだよ?」
俺が聞くと、七原は改まった調子で口を開く。
「戸山君は、私が秘密を打ち明ける初めての相手なの」
「はあ? 何で、それが俺なんだよ。霊感商法か? 俺に金は無いからな。高価な水晶玉や健康食品は買えないぞ」
「違うから。高校生相手に、そんな事しないから」
まあ、確かにそうだな。高校生から引っ張れる金は知れている。
つまり、俺に詐欺の片棒を担げという事なんだろう。
「違うから! 私は、能力をお金儲けの手段にするつもりはないから!」
「じゃあ、何でだよ?」
俺が聞くと、七原は一呼吸置き、緊張感の混じる面持ちで口を開いた。
「戸山君、あなたに私を助けて欲しいの。これは戸山君じゃないと出来ない事だから……」