屋上
七原に指定された場所に到着する。
そこには一棟のマンションがあった。
『中に入って』
『一番上の階まで登って』
『屋上への扉があるから開けて。鍵は掛かってないから』
七原の指示通り、古びた鉄の扉を開く。
ぎぃーっと軋んだ音が耳障りだった。
屋上に出ると、七原の後ろ姿が視界に入る。
「何でこんな所に」
そう口にしたものの、七原の意図は階段を登っている間に理解できていた。
このマンションの屋上からは陸浦邸の玄関が見えるはず。
七原は張り込みをしているのだ。
「そんな双眼鏡、どこから持って来たんだよ?」
そのゴツゴツした形や質感で、高性能なのが一目で分かる。
「守川君と委員長がバードウォッチングもやってるって聞いてたから、借りて来たの。一応、戸山君の分も借りて来てるから」
七原は鞄からワンサイズ小さい双眼鏡を取り出した。
「なるほど――それで俺が陸浦家の前を通り過ぎるのも見てたんだな」
「そう。戸山君でも尻込みする事ってあるんだね」
「そりゃあるだろ、当然」
「まあ、今の段階だと情報が少なすぎるもんね」
「そうだよ。今日は昨日とは違って、誰が能力者で、どんな能力があるかも分からない。俺が太刀打ちできるレベルの能力者じゃないかもしれない。だから、こつこつ調べていくしか無いと再確認したところだよ」
「そっか」
「だけど、大丈夫なのか? 今日も夜遅くまで出歩いて」
とは言っても、まだそれほど遅い時間でも無い。
だが、これから動き出すとなると、また遅くなってしまうのは確実だろう。
「ちょっと出て来るって言ったら、普通に送り出されたよ」
「普通に?」
「そう。普通に。お母さんが『友達が心配なんでしょ。行って来ていいよ』なんて言って――私、かなり思い詰めた顔してたんだと思う」
「それで、何も説明せずに?」
「うん。間違っては無かったし、訂正しなかった」
「信用されてるって事だな。ちょっと心苦しいところはあるけど」
「そうだね。出来ることなら、本当の事を話したかった……」
「話してたら、朝になるな」
「だね。今日は出てこられたけど、明日は多分無理だと思う。お父さんが偶然出張中で助かったよ」
「で、七原は俺が来なかったら朝まで張り込みするつもりだったのか?」
「一応そのつもりだったよ……寝袋も借りてるし」
守川だか委員長だか知らないが、理由も聞かずにそんなものを貸し与えるなよと思う。
危うく七原がここで一夜を明かしてたかもしれないと思うと、怒りすら湧いて来た。
「それはさすがに無理しすぎだろ。こんな場所で」
屋上で周りに遮蔽物が無い分、強い風が余計に身体を冷やすのだ。
「でも、戸山君の役立ちたいから。私に出来る事って言ったら、こんな事くらいでしょ……?」
七原は俯き加減に、そう言った。
部外者だと言われ、アイマスクをさせられた一件が堪えているのだろう。
「砂見病院の事で思う所があったのかもしれないけど、そんなの気にしなくていいからな」
俺は先程訪れた病院の名前を明かす。
「え。砂見病院って……そんなこと言っていいの?」
「ああ。敢えて言ったんだよ」
「でも……」
「本当に隠す気があったら回り道で攪乱するくらいはしてるはずだろ?」
「そうだけど」
「七原は大事な戦力だ。重要な事は知っておいて欲しいんだよ」
「……戸山君」
「今までだって七原がいないとどうにもならなかった事が一杯ある。弱みを握って脅迫してでも、七原には協力して貰うつもりだ。七原の存在には形振り構ってられないだけの価値があるって事だよ」
「そっか……うれしいよ。ありがとう」
これを嬉しがるというのは感覚がズレていると思うが、こっちとしても正直なところを話して、この反応はありがたいと思うべきだろう。
「礼を言うのはこっちだよ――で、何か動きは?」
「今のところ何も無いよ。張り込みなんて、こんなもんでしょ」
「そっか……じゃあ、もう少し様子を見て、その間に別の策でも考えるかな」
そんな事を話しながら、七原に手渡された双眼鏡で陸浦邸を見る。
――すると、視界の中で微かに何かが動いた。
確かめようと目を凝らすと陸浦邸の玄関ドアが開く。
「いいタイミングだったね、戸山君」
玄関を注視していると、彩度の高い青のドレスに身を包んだ女性が出てくる。
年齢は四十代といった感じだろうか。
「あれが陸浦百合かな?」
「たぶん、そうだね。一華さんと目鼻立ちが似てると思う……それにしても派手な服だね」
百合のドレスは胸元がかなり開いたデザインだ。
「パーティーにでも行くんだろうな」
七原が「戸山君は見ちゃ駄目」と言って、俺の双眼鏡に手を掛けた。
それを横にずれて振り払う。
「何でだよ、見なきゃ駄目だろ」
「だってあんな大胆なドレス」
そこへ一台の車が陸浦邸の前に横付けされる。
百合は高いヒールを物ともせず、その車に乗り込んだ。
運転手が車を発進させ、駅前通りの方角へと向かっていく。
それだけの呆気ない出来事だった。
「なあ、七原。一つ質問だけど、あんな服装してるって事は何かのパーティーに行くって事だよな」
「そうだね。普段着であれは無いと思う」
「そういう所って、旦那と一緒に行くものじゃないのか?」
「知らないよ。私がそんなこと知ってる訳がないでしょ」
「そっか……それもそうだな」
「まあ一つ言えるのは、あの様子でパーティーか何かに行くって事は一華さんのことは何も知らないって事ね。結構な浮かれ具合だったし、日常を装ってる風には見えなかった」
「陸浦家には情報が入ってないって事かな?」
「もしくは、百合さんだけ知らされてないって事かもしれない」
「一華が連絡を取っていたのは父親の隆一だけだと言ってたし、百合の方は能力に全く関係してないのかもしれないな」
「だね」
そのまま次の展開を待ち続ける。
しかし、待てど暮らせど何も起こらなかった……。
「まあ、こんなもんだよな。張り込んだところで何が起こるって訳でも無い」
「だね」
「このまま何かが起こるまで待ってるか?」
「もうちょっと待ってみようよ」
七原は一心に陸浦邸を見つめている。
七原がここまでしてくれるのは、ありがたいにはありがたい。
しかし、このまま膠着状態が続くのもなあ、と思う。
七原が身体を冷やしてしまわないかが一番の心配事だ。
「ねえ、戸山君」
「何だよ」
「今、関係ない話だけどさ、いい?」
「うん」
「戸山君ってああいうスタイルが良い人が好み?」
「は?」
「戸山君ってああいうスタイルが良い人が好みなんだよね? じっと胸元をみてたけど」
七原の口調が鋭さを帯びる。
「いやいやいや、そんな所に注目してないから。ってか、例えそこを見てたとしても、七原に分かるはずがないだろ」
「でも、百合さんが出て来た時、戸山君、双眼鏡の倍率上げたよね」
「上げてねえよ」
「戸山君は一キロ先からでも胸のサイズがわかるんでしょ」
「そんな特殊能力ねえから」
「おかしいな。私に能力があった頃、戸山君の心の声を聞いたよ、『俺には一キロ先からでも分かるのである』って」
「捏造すんなよ」
「戸山君の趣味は分かってるから。戸山君のそれには強い執念みたいなものを感じてる」
何で七原の能力がある時に、あんなキャラを解放してしまったのかと後悔するが、あの時は七原を引かせて距離を置いて貰おうとしていたのだと思い出す。
「そんなつもりないけどな」
「いや、それだけは確かだよ。ねえ、戸山君。あなたがあの能力を身に付けるまでに至ったその妄執はどこから来たものなの?」
七原が真っ直ぐに俺を見て来た。
その目には弱い俺である。
「……父の影響かな、たぶん」
「父の影響?」
「ああ、そうだよ」
「趣味嗜好を他人の所為にするの?」
「実際にそうなんだから仕方ないだろ」
「だったら、詳しく聞かせて」
「あんまり外で話すような話じゃないんだけど」
なぜ親子二代にわたる恥をさらさないといけないのか。
「聞かせて」
その目は益々強くなる。
はぐらかせば、俺への不信感が募っていくだろう。
希代の嘘つきと言われた俺だが、ここは正直でいなければならないのかもしれない。
「それとの出会いはそうだな……たしか八年くらい前だったよ。奇しくも陸浦栄一の逮捕と同時期だ……」
「絶対関係ある話じゃないでしょ」
「父のパソコンには『資料』ってフォルダがあってな。それをダブルクリックすると『A、B、C、……』というようにアルファベット一文字の名前のついたフォルダが並んでいる。そして、その一つ一つに『65、70、75、……』といったような数字のフォルダが入ってるんだ。そして、それを開くと……何でもない普段着を着ている女性の写真が大量に入ってる」
「階層構造で管理してるの!?」
「恐ろしい事にな。父に言わせれば、彼の『眼力』は99.99パーセントの精度を誇っているらしい」
「…………」
能力で有りとあらゆる心の闇を見てきた七原でも引いている。
父は俺の心配をする前に、自分が事件を起こしてしまわないかと心配した方がいいと思う。
「俺はそのフォルダを見ながら多感な時期を過ごしたんだ。同じ女性を一週間見れば『それ』を確実に言い当てられるようになったのは、その所為だよ。能力が遺伝するように、この力も遺伝した――これは最早俺の責任ではないだろ」
「……はあ、わかったよ。私の負け。もう、そういうものなのかなと思えてきたから。そろそろ話を戻すね」
俺は何に勝って何に負けたのか、今回の事は何れ総括する必要があるだろう……。




