一華
ドアを開けた霧林は一歩後ろへ下がり、病衣を着た女性に入るよう促した。
その女性は渋々と言った感じで足を踏み出す。
情緒不安定になった時の為だろう、後ろには看護師が二人ぴったりと付き添っていた。
昨日、一華の顔は見なかったが、その後ろ姿の印象と合致する。
この女性が陸浦一華で間違いないはずだ。
そんな事を考えていると、一華は俺達に向けた瞳を不安げに揺らしながら、口を開いた。
「ごめんなさい。私、あなた達の事は覚えてないんです。記憶を無くしてて」
「いえ、初対面ですから何の問題もないですよ」
と答える。
「……ああ、そうなんですか。霧林先生がどうしても話したいって人が来てると仰ったので、てっきり知り合いかなと……」
まあ、俺や三津家の風貌を見れば『知り合いだから来た』という理由くらいしか考えつかないだろう。
「知り合いではないですけど、関わりがあったって感じです」
「そうでしたか。会った事がある人なら、嫌な気持ちにさせてしまうんじゃないかって思って……取り敢えず安心しました」
「別に忘れてたからって陸浦さんが悪いわけじゃありませんよ。それに、ここに来る人は事情説明を受けてます。そこまで気を回す必要は無いと思います」
「そうですか……ありがとうございます」
「申し遅れました。僕は戸山望と申します」
それに続き、七原と三津家が順繰りに名乗った。
「お疲れのところ申し訳ないんですが、少しだけお話を聞きたいんです。大丈夫ですか?」
「はい……でも、上手く喋れるか分からないです。こんな事になってから、お医者さん以外と話すのは初めてですから」
「構いません。思い出せることだけ話して下されば良いですから――じゃあ、さっそく」
「はい」
「単刀直入に言うと、あなたのお祖父さん、陸浦栄一さんの情報が欲しいんです」
「祖父の事ですか……それは、ちょっと……すみません」
「何故ですか?」
「私の両親と祖父は昔から険悪でした。同じ街に住んでるのに数えるほどしか会ったことがありません。私の記憶にある祖父の姿は市長としてのものばかりなんです」
「そうだったんですか……」
「はい。会ったというのも本当に小さな子供の時です……すごく優しい感じの人で、父や母は何故この人と仲が悪いんだろうと子供心に疑問に思ってたのを覚えてます」
「何で険悪だったかは知ってますか?」
「まったく知りません。父も母も祖父のことになると言葉を濁して……」
「そうですか――じゃあ、栄一さんが逮捕された事は覚えてますか?」
一華が目を見開く。
「え? 本当に?」
やはりその辺りの記憶は無くなってしまっているようだ。
「残念ながら本当の事ですよ」
「どんな罪ですか?」
「収賄です」
「そうですか……そんな悪いことを……で、今は? もしかして、まだ……」
「今はひっそりと隠居されてるそうです」
「そうだったんですか……今はどこに?」
「わかりません。陸浦さんなら知ってるんじゃないかと思ったのが、ここに来た理由の一つです」
「……そうですか。ごめんなさい。さきほど話した通り祖父に関してはまったくで」
七原に目を向けると、首を横に振った。
嘘を吐いている様子はない……か。
もちろん、七原の見立てが絶対だとは思わないが、それでもそこらの専門家にも遜色ないくらいの精度はあるだろう。
空振りのようだ。
「わかりました。まあ、聞きたい事はそれだけじゃないんで――」
「ちょっと待って下さい。今、何か思い出せないかと色々と思い返してるので」
一華は眉間に皺を寄せながら、そう言った。
「その必要は無いですよ。陸浦さんの記憶は既に消えてしまったものです。もう戻って来ない。その説明は聞きましたよね?」
「はい。能力を消す際には一緒に関連する記憶まで消えてしまう。そして、その記憶はもう二度と戻って来ないものだって」
「そうです。だから、無理に思い出そうとしない方が良い。心が磨り減るだけですから。僕の質問も覚えてる事だけ答えて頂ければ十分です」
「わかりました」
「もっと楽に考えて下さい。この質問に答えたって、陸浦さんに利することもなければ害することもないですから」
「そうですか……すみません」
「だから陸浦さんは悪くないんですよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「礼を言われるような事でもないんですけどね。まあ、話を進めましょう――陸浦さん。あなたは玖墨さんの事について覚えてますか?」
「玖墨君……確か中学と高校の同級生ですよね?」
「そうです。玖墨さんとは交流がありましたか?」
「知ってはいるけど話した事は無いっていう感じです」
こちらも記憶喪失か。
「話してみようと思ったこともありませんか?」
「ありません……私は人見知りだし、玖墨君は他人を寄せ付けない感じでした。何となく気になる存在ではあったんですけど、一度もお話をした事は無かったと思います」
つまり、玖墨とは関わり出した当初から能力が深く関係していたという事だろう。
玖墨に関しても保留するしかない。
「実家を出た理由は思い出せますか?」
「ごめんなさい。それもまったく思い出せません。高校を卒業して、大学はすぐに行くのをやめてしまって、それから……そう言えば、何故大学をやめようと思ったかも思い出せません」
まあ、それも当然か。
人生の岐路において、自分が能力者だという認識は決断に大きく関わってくる。その記憶をも巻き込んで消えてしまったということだ。
符滝と同様に、記憶が無い相手と話すのは骨が折れる。
「最近の記憶で残ってるものは?」
「丘の上の家に住んでた記憶はあります。でも、どんな経緯でそんな所にいたかは思い出せません。ただ……」
「ただ?」
「家にいた時より、ずっと心穏やかに生活していたと思います。そこで誰かに会ったかとか、何をしていたかとかは全く思い出せないんですけど、街とか空とか全ての物が色鮮やかに見えていた気がするんです」
興奮気味に話していた一華が、ふと我に返り、視線を落とす。
「どうしたんですか?」
「霧林先生に聞けなかった質問があるんです……私はそこでどんな生活をしていたんでしょう?」
どう答えるべきだろうか。
一つ確かなことは、一華との今後の関係を考えると、ここでの誤魔化しは良くないという事だ。
「陸浦さんは玖墨さんと一緒に住んでたんですよ、玖墨さんの家で」
「なるほど……せっかく家を出たのに、この街に留まっていたのは何故だろうと思ってたのですが、そういう事だったんですね。それで今、玖墨君は?」
「玖墨さんも能力者でした。今、この施設にいますよ」
「……そうだったんですか」
その生活が決して戻らない日々なんだと悟ったのだろう。
一華は魂の抜けるような深い溜め息をついた。
「詳しい話を聞きますか? 知ってるだけの事は話しますよ」
「いえ、大丈夫です」
「でも、気になりませんか? その生活を取り戻す為の足掛かりとなるかもしれませんよ」
「必要ありません。基本的に希望というものは持たないことにしています」
「何故ですか?」
「叶わなかった時の絶望に耐えられないからですよ。それこそ心が磨り減ってしまう。そうやって最後には消えてなくなってしまうんです」
そういう性分が透明化という能力に反映されたのだろう。
「別に希望を持てとは言いません。でも、何があったかくらいは知るべきだと思いませんか?」
「私は今、過去の柵から解放されて自由なんです。思い出したら、そこには私を追い詰めた事実があるだけって事ですよね? 霧林先生も過去の事は忘れた方が良いと仰いました。新しい自分を作り上げていくべきだと」
霧林が頷きながら口を開く。
「能力者に過去の話をするのはトラウマを追体験させるって事で、能力が再発してしまうリスクも考えないといけないんだ。まあ、それでも話す時もあるよ。ケースに依ると言うしかないね」
申し訳なさそうに目配せして来た霧林に小さく頷き、一華の方へと視線を戻した。
「……そうですね。僕も焦りすぎてました。これが話して良い話かどうか、もう少し練ってからまた来ますよ」
「戸山君。あなたは何で、そこまでしてくれるんですか?」
「陸浦さんが早くこの施設から出られるようにする為です」
「それは……」
一華が口籠もる。
「それは?」
「……今はここでいいんです。ここを出たところで、今の私がちゃんとした社会生活を送れるとは思えない。家族にも合わせる顔がありません。そういう面では、ここにいられる事は幸運だと思った方がいいのかもしれない」
一華は消え入るような声で言った。
「そうですか。それも追々考えるってところですね。心配しないで下さい。答えを押しつけるようなことはしませんよ――では、聞こうと思ってたことは大体聞けましたし、今日はここら辺りにしておきます」
「何も覚えてなくて、すみません。あと、私の事は放って置いていいですから」
「それも追々です。色々検討してみて、無理だと思ったら諦めます……まあ、その事も含めてまた話しに来るので、よろしくお願いします。ああ、あと何かあったら、ここの先生方に言って僕を呼んで下さい。いつでも来ますから。おつかいでも何でもしますよ」
「でも……」
「気にしないで下さい。今はそうするのが僕達の役目だと感じるんですよ」
と、どうとでも取れる表現で締めくくる。
こちらの立場は曖昧にしておきたい。
それを感じ取ったのだろう、一華も「すみません。ありがとうございます」と返答した。
俺は再度一華の顔を真っ直ぐに見て、口を開く。
「こちらこそ、ありがとうございました。じゃあ、おやすみなさい、陸浦さん」
「はい。おやすみなさい、戸山さん、みなさん」
そう言って一華は深々とお辞儀をした。




