剛村
その時、丸太を持った兵士達がドアを突き破ろうとする音がした。
いや、訂正。
ノックの音がした。
「失礼します」
剛村がお茶を持って入って来る。
そう言えば、さらりと消えていたな。
剛村は綺麗な所作でお茶を前に置いていった。
俺と七原の礼に澄ました顔で応えた剛村は、符滝に冷たい視線を向ける。
「先生、あんまり人を増やさないで下さいよ。人が増えるほど味が薄くなりますからね」
一つのティーバッグを使い回しているのだろう。たしかにカップに注がれている紅茶は非常に薄い。
使ってるカップの上品さを考えると、ケチってると言うよりも腹いせなんだなと思う。
――まあ、そんな事は俺に関係ない。
折角のタイミングなのだ、剛村にも話を聞いておこう。
「剛村さん、一つ聞いて良いですか?」
有馬が対面で『空気を読めよ』というような表情をする。
有馬も符滝には気を遣ってるようで、嵐が過ぎ去るのを待つつもりだったのだろう。
「うん。いいけど。何?」
剛村は意外にもあっさりとした感じで答える。
そういえば病院を訪れた時は、にこやかとは言わないまでも普通の対応だった。
符滝のことを話さなければ良いのだ――ってそれはどう考えても無理か。
「符滝さんが市立病院の院長候補だったって事はご存じですか?」
俺は符滝と剛村の関係性をまだ全く知らない。長い付き合いか、それとも開業してからなのか。
しかし、そこから聞いていくのもまどろっこしいので、その質問から始めた。
「ああ……急に人を集めて何をしてるのかと思ったら、過去の栄光をひけらかしてたんですね」
剛村が眉をひそめながら話す。
もちろん、その視線の先には符滝がいる。
「って事は、ご存じなんですよね。詳しく聞かせて貰えませんか?」
「いいけど……」
剛村は一つ溜め息をついてから話を続ける。
「大昔の話だけどね――あの頃の符滝先生はそれはそれは敏腕だった。奇跡と言われるような難しい手術を幾つも成功させたし、人望もあった。若くして副院長の重責を負い、その手腕を遺憾なく発揮していた。もう院長に片足を突っ込んでると思ってたわ」
すごい表現だな。
「でも、結果的に院長にはなってないんですよね。その理由は何なんですか?」
「当時、陸浦栄一っていうインチキ市長がいてね。陸浦はネギシっていう余所者を連れて来て、彼を院長に据えると言い出したの、副院長の符滝先生を差し置いて」
「市長がそんな事を?」
「市立病院だから経営権は彼らにある……でも、私達には納得できる話じゃなかった。今も言ったように符滝先生は敏腕だったし、市長がネギシを推す理由の一つが、市立病院が市の予算に頼る赤字経営だったからなんだけど、その赤字ってのも副院長である符滝先生の尽力で既に大幅に減らされたものだったのよ。あと一歩の所だったの。当然、私達は市長の意向に反対する事にした。市長がいくらトップといえども、現場の職員全員の反対を押し切っての暴挙は許されないはずだった」
「それでもその暴挙が通ったのは?」
「何もしなかったからね」
「何もしなかった?」
「幾ら周りが動いても先生が何もしなかったら意味が無い。先生は、ただただ手をこまねいていた。日に日に市長派が増えていくのを、指をくわえて見ていた。腕組みをして目を瞑ってね。ちょうど今みたいに知らぬ顔を決め込んでいた。でも、そうやって余裕ぶってるけど眉毛の動きで動揺してるのが伝わってくるのよね」
「なぜ符滝さんは抵抗しなかったんでしょう?」
「さあ。私には分からない。聞きたいのはむしろ私の方だわ。あのときは、市長に弱みでも握られてるんじゃないかとさえ思ってた」
「弱みですか……」
市長に弱みを握られていたからこそ、有馬に依頼して同じ事をやり返そうとしていたという事か……だとすれば、割と辻褄の合う話である。
「符滝先生。私、言いましたよね。院長になりたいのなら今しか無いって。今立ち上がるしか無いって。この際、はっきりしませんか? なぜ先生は院長になろうとしなかったんです?」
「何でだろうな……」
苦々しい顔で符滝が呟く。
「はぐらかさないで下さいよ、先生。先生の中にも燃えたぎるものはありましたよね? 市長が現れる前までは院長にもなるつもりでしたよね? 絶対、何かがあったはずです」
「……あの時は、それが一番良いと思ったんだよ。ネギシさんは良い医者だし、何よりそれが陸浦さんの選択だったからな。俺は陸浦さんを信頼していたんだよ」
どちらにせよ、記憶が無ければ、他に答えようもないだろう。
符滝の言葉は、ただこの場を納める為のものだ。
それに気付いた剛村の表情が落胆に染まる。
二人は睨み合ったまま、黙り込んだ。
なるほど。
この食い違いが二人の間に大きな溝を作っていたのだ。剛村が符滝に強く当たっていたのもその為だと思う。
しかし、それなら何故一緒に働いているのかと思うが、まあ、そんな他人事なんて気にしても仕方ない。
今の問題の焦点は、陸浦と符滝に何があったかというところだ。
「この通り符滝さんは答えてくれないので、剛村さんに聞きますけど、符滝さんは当時、市長の事で気になる事を言ってませんでしか?」
「何も……ただ陸浦からは逃げ回っていたのを覚えてるわ」
「逃げ回ってた?」
「陸浦が視察に来る時などは何かと理由を付けて姿を消そうとしていた」
「それは毎回ですか」
「そうね。いつもそうだった。やっぱり考えるほど弱みを握られていたんだと思う――符滝先生。先生はどんな卑劣な性犯罪に手を染めてたんですか?」
「何を言ってるんだよ」
と符滝。
さすがに黙ってはいられなかったのだろう。
「でも先生。先生はプライベートな時間など皆無に等しいほど働き詰めでしたし、お金にも困ってなかったはずです。となれば、どんな犯罪に手を染めるかなんて消去法で決まって来るじゃないですか」
「何で犯罪に手を染めたのが大前提なんだよ」
「符滝先生は裏表のない実直な人です。他に弱みという弱みなんて思い当たらないんですよ」
評価が高いんだか低いんだか。
「まあ、弱みの話は置いておきましょう。その事実が確定した訳じゃないですし」
と俺は口を挟む。
「そこは先生が事実と認めてくれば」
「だから、そんな事実は無いと言ってるだろ」
「ほら、これも平行線ですよ。その話はもう良いですから、その後のことを聞かせて下さい。市長が逮捕された後は?」
「先生は欲望陰謀の渦巻く上層部と対立しながら、自分のポリシーに従ってリスクのある手術を繰り返し――」
「市立病院の話ですよね?」
「でも実際、ネギシ院長とは対立していたと思います。先生はどんどんと孤立していき、口数も減っていった。そして六年前、ついには病院を辞めると言い出した」
「それで開業したわけですね」
「そう――この際だから先生にも言わせて貰いますけど、先生が開業するから一緒に来てくれないかって言われた時は嬉しかったです。本当に嬉しかったんですよ。心機一転、規模は小さくなりますが、先生の志はまっとうできる――そう思いました。だけど、そこからもまさに奈落の底って感じでした。先生はやる気が無いし。放っておけばすぐに書斎に籠もる。そして、出入りする患者は荒っぽい連中ばかりになり、他の患者は寄りつかなくなってしまった。まあ、現状のそれは仕方がない事です。今はこれからどうやってこの病院を盛り上げていくかを考えるべきです。でも心配しないで下さい。先生には私がいるんですから。この病院を必ずや立派な病院にしてみせます」
そう言った剛村は、くるりと踵を返すと、慌てたように部屋を出て行く。
その一瞬、剛村が顔を真っ赤にしていたのが見えた。
符滝は目を閉じたまま微動だにしない。
有馬はその符滝をじっと見ている。
七原はその有馬を見て何かを考えているようだ。
何何? これって俺だけが気付いているパターン?
これを知った俺に何をしろって言うの?
ああ、無視だ。無視。
こうしてきな臭い話になってきた以上、一秒でも早くこの符滝と陸浦の一件を解決しないといけないのである。




