放課後
再び集中すると、机を挟んで向き合う沼澤と俺が出現した。
「なんか沼澤さんとの距離が縮まってない?」
「気の所為だよ」
「いや、縮まってるって」
「そりゃあ、実行委員の仕事をそれなりに熟した後だ。多少は縮まるだろ。そんな事いいから」
俺は沼澤と俺へと視線を戻す。
当時の俺は、努めて穏やかにと苦闘しながら、言葉を発した。
「何で手を挙げたんだ? あの案には沼澤も納得してただろ」
「うん……確かに、実行委員の案とクラスからの案で多数決を取る事には納得してたよ。でも……」
「ああなる事は分かりきってただろ」
「……だけど、あのやり方は狡い。戸山君は異論を封殺してた」
「いやいや、そんな大袈裟なものじゃないだろ。面倒な事はやりたくないってのがクラスの総意だった。だから、俺達の案でも通してやろうという空気になったんだよ」
「でも……」
「やりたいことがあるなら、最初から言ってくれればよかったんだよ。それが沼澤には出来たはずだ。別に俺が無理強いした訳じゃないだろ?」
「そうだけどさ……」
沼澤の頬を涙が伝った。
それを見た俺が、おろおろしている。
「……何で泣くんだよ」
「ごめん……でも、やっぱり思い出に残る文化祭にしたい。クラスで頑張って一つの事に取り組みたい」
「昨日までは適当で良いって言ってただろ。何で唐突にそんな事を言い出したんだよ?」
「唐突に思ったから」
そこまで真っ直ぐに言われたら、何も言えない。
「……まあ、それなら仕方ないけどさ。ってか、沼澤って、そんなに文化祭に熱かったか?」
「昨日、ベッドに入って考えてたら、このままでいいのかって思って。折角のチャンスなのに……」
「チャンス?」
「そう。これは思い出作りのチャンスなんだよ」
「思い出なんて三年の間に作れるだろ。まあ、二年、三年がこんな最低のクラスで無ければだけどな」
「私は違う……」
「何が違うんだよ」
「私……転校するの」
「転校? まだ入学したばかりだろ」
「親の仕事の都合で……物凄く急な事だった。私は嫌だけど。少しでも先にして欲しいと思ったけど。親は早い内に次の学校に行って慣れた方が良いって」
「いつ転校するんだ?」
「文化祭の次の週」
「それも唐突な話だな」
「だから思ったの。思い出に残る文化祭にしたいって」
「そっか。じゃあ、クラスの出し物はそこそこにして、他の事で思い出を作れ。それが一番早い」
「駄目。このクラスで思い出を作りたい」
「何でだよ?」
「このクラスの人と思い出を作りたいから」
「それは誰の事を言ってるんだ?」
「……瑠華」
「瑠華?」
「笹井瑠華だよ」
「ああ、笹井か。藤堂の子分の」
「子分じゃないから!」
教室内に沼澤の声が響き渡る。
こんな大きな声も出せるんだな、と思った。
「藤堂があんまり偉そうにしてるから、そう言っただけだよ……そっか。知り合いだったのか。だから、さっきも口を出してきたんだな」
「瑠華とは同じ中学だったの」
「でも、沼澤と笹井が話してるのを見た事ないけど」
「瑠華と約束したから」
「何を?」
「高校に入ったら話さないって」
「は? どういう約束だよ」
沼澤は少し考えた後、おもむろに口を開く。
「絶対に誰にも言わない?」
「言わない。ってか、俺に秘密をバラすような相手がいると思うか? それに関しては安心して良いよ」
「確かに、そうかも……」
「だろ。だから気にせず話してくれ」
「……うん。じゃあ、話すよ……そもそもの話からすれば、私と瑠華は中学の時、クラスで八軍だったの」
「八軍?」
「二軍や三軍よりずっと下。底辺の底辺だよ。私達二人はずっと地の底にいた。瑠華は、そんな自分を変えたいって思ったんだと思う……」
「つまり、笹井は沼澤を切って、一軍に這い上がろうとしたって事か。笹井って何か無理をしてるなって感じてたけど、そういう事だったんだな」
「嘘だ。瑠華は一軍に馴染んでるはずだよ。戸山君だって瑠華が八軍て言っても、ピンと来ないって顔をしてたでしょ?」
「いや、八軍って言葉に接したのが初めてだったから……まあ、仲違いの理由は分かったよ。だから、笹井は沼澤に話しかけないと約束させたんだな」
「それは誤解だよ。瑠華はそんな事しないし、もし仮に瑠華が私を切ったとしても、それでいいと思ってる。私達が六軍にも七軍にもなれなかったのは、私達がいつも一緒にいた所為だから」
「どういう事だよ?」
「私達は二人の世界に引き籠もり過ぎてたんだよ。私には瑠華しか話し相手がいなかったし、瑠華も私以外の話し相手を作らなかった。それで良いと思ってた」
「自分達から孤立してたのか」
「そうだよ。それで、他の女子からは陰口を叩かれ、男子には、『お前らの陰気な菌が移るから近付くな』って言われたりした」
「それは酷いな」
「でも、それが八軍の扱いだった。それで私達は考えたの――あんな人達とは一緒の高校に通いたくない、って。だから、私達は高校受験を頑張った。それまでは並以下の成績だったけど、努力して努力して、この高校に入る事が出来た。合格発表の時は、瑠華と抱き合って喜んだな。あの時は人生で一番嬉しかったよ」
沼澤は遠い目をする。
そんな沼澤を見ると気が引けるのだが、これを聞かない訳にはいかなかった。
「それで、笹井に切られたのはいつなんだ?」
「……その日の帰り道、瑠華が言った。高校に入ったら、お互いに新しい友達を作ろう、って。二人でいると甘えてしまう。私達は自分を変えないといけないんだ、って」
「で、藤堂の子分になったのか?」
「でも、瑠華は上手くやってる。一軍だよ」
「あの立場に八軍との違いがあると思えないけどな……まあ、それはいいよ。俺が聞きたいのは、何で沼澤が笹井に拘り続けるかって事だ。目的がどうあれ、沼澤は笹井に距離を置かれた訳だろ。それなのに、何で一緒の思い出を作りたいなんて思うんだよ? 普通なら顔も見たくないと思うもんじゃないか?」
「そんな事は思わない。瑠華の事は今でも友達だと思ってるよ。本来は私は私で友達を作らなければいけなかった……色々あって無理だったけどね……でも、まだ頑張ろうという気持ちはあったよ。瑠華は優しいから、クラスの人間関係が安定して、余裕が出来たら、きっと私を助けてくれたと思う」
そんな事はないと思うけどな、と心の中で呟いた。
そんな気持ちが、仮に、万が一にも有ったとしても、たえず藤堂の顔色を窺い、脅え散らしている笹井が、他人を気遣う余裕が出てくるとは思えない。
「だけど、転校する事になってしまった……それでも文化祭なら、タイムリミットが迫ってるこの状況なら、何とか出来るんじゃ無いかと思った。変われるんじゃないかと思った。クラス一丸で頑張ろうって空気になれば、自然と入っていけるかもしれないし、もしかしたら、もう一度瑠華と仲良く出来るかもしれない――今はそのチャンスなんだよ。だから、手抜きの出し物じゃ困る」
「つくづく、それを先に言ってくれよって話だな」
「昨日まで、そんなこと思わなかった。思いもしなかった。でも、一度そう思ったら、止まらなくなっちゃって……そんな事は無理だって必死に打ち消そうとしても、やっぱり出来なくて……もう出し物が決まってしまう。そう思った時、気付いたら手を挙げてたの」
「なるほどな」
「本当にごめん。戸山君には迷惑を掛けっぱなしだよね」
「いいよ。別に謝らなくて――で、何をやりたいんだよ?」
「え? やってくれるの?」
「具体的なものが有るなら、そっちの可能性も探ってみようって思っただけだよ」
「私、カフェがやりたい……料理なら小さい頃からやってたし」
「カフェか……いかにも大変そうなやつだな。連中を説得するのは面倒になると思う」
「……やっぱり無理だよね」
「いや、完全に無理とは言い切れないよ」
俺は一言一言を確かめるようにゆっくりと話した。
説得力を持たせるのは、これが一番だ。
「え?」
「でも、ここから票を半数まで持って行くには、まず間違いなく藤堂の力が必要だ」
それを聞いた沼澤は落胆の表情を浮かべる。
「……そんなの絶対無理だよ」
「そうだな。藤堂を説得するなんて不可能だ。少なくとも、これでもかってくらいに嫌われてる俺には。だから当然、これは沼澤の仕事って事になる」
「わ、私? そんなの出来ない」
「諦めるのか?」
「無理だから。私は他人の目を見ることさえ出来ないし」
「目を見れば良いだろ」
「……でも」
「それこそ、沼澤の治さないといけないところだろ。そうじゃないと、転校先でも友達作れないぞ」
「…………」
沼澤は黙り込んでしまう。
タイミングはここだと思い、俺は口を開いた。
「あるんだろ? 他人と目を合わせない事の明確な理由が」
「…………」
「沼澤は単に気が弱いからとかじゃなくて、頑なに目を合わせない。俺とも、それなりに話して打ち解けてきただろ。それでも、沼澤は一度も目を合わせなかった」
「打ち解けた?」
「ああ、打ち解けてるだろ」
もちろん、沼澤にそんな気は更々無いのかもしれない。
それでも、こういうのは言った者勝ちだ。
「何を言っても笑わないから、教えてくれよ」
そう言って俺は沼澤の返答を待つ……。
俺と沼澤を見つめる三津家と七原がまたひそひそと語り始めた。
「戸山君って心の隙間に入り込むのが上手いですね」
「距離が縮んだんじゃなく、距離を縮めたって事だね」
現場検証をされてるようで居心地が悪い。
「この後、重要な場面だから、黙って聞けよ」
――沼澤は、ほんの少しだけ顔を上げ、口を開いた。
「わかった。全て話すよ……信じて貰えないかもしれないけど、私には不思議な力があるの。だから人と目を合わせる事が出来ないんだよ」




