午後の授業
教室に着くと、ほぼ同時にチャイムが鳴った。
午後一は悪名高い古橋教諭の授業からである。
何が悪名高いかというと、この授業は非常に眠いのだ。
古橋の平坦な喋り口調。
しかも昼食後の最悪な時間帯。
更には寝不足という悪条件。
これらが揃った当然の結果として……授業が始まると猛烈な眠気に襲われた。
もう、いっそのこと殴り倒してくれというくらいに眠い。
隣の席では、三津家が既に陥落していた。
転校初日の授業で、寝息が聞こえるくらい熟睡するのかよと思うが、それでも古橋は注意する素振りを見せない。
それで更に気が緩んでしまった。
ああ、駄目だ。
落ちる。
俺も落ちる。
…………。
ふと気が付くと、教卓の前から古橋がいなくなっていた。
というか、視界からクラスメートのほとんどがいなくなっている。
いるのは一番前の席にいる、一人の女子生徒だけだ。
背中を向けているので誰かは分からないが、あの席は確か山中という男子生徒の席だったはずだ。
誰なのだろうか。
そもそも、俺はどれだけ眠ったのだろうか。
放課後なのだろうか。
そんなに寝たかな。疲れは全く取れてないのだが……。
「戸山君?」
後ろから声がする。
「三津家か……ってか、どうしたんだよ」
三津家は目を赤くしている。
自分でそれに気付いたのか、慌てて目元を指で拭った。
「閉じ込められてて。出られないんです」
「うん?」
「私、戸山君が来るまで、ずっと一人でした」
「いや、いるだろ。そこに」
「そうだけど、そうじゃないんです」
「は?」
「ドアも開かないし。携帯の電波は入らないし。時計にも針が無くて、もう何時間経ったか」
黒板の上にある時計を見れば、確かに長針も短針もついていなかった。
「落ち着けよ」
「……そうですね。少しパニックだったかもしれません」
「そうそう。いつものお前を取り戻せ」
「はい……でも、本当におかしいんですよ」
「何がだ?」
「この教室の中で起こること全てです。さっきから何度も何度も同じ事が繰り返されてて」
「何を言ってるか分からない。丁寧に説明してくれ」
「じゃあ、とにかく私が一番メンタルを削られた現象を体験して下さい。そうすれば、私の気持ちも少しは分かるはずです」
「わかったよ。どうすればいい?」
「そちらの方に触れてみて下さい」
三津家は前の席の女子生徒を指差す。
「俺に女子生徒を触れって? そうやって俺を痴漢扱いする気だな」
「しないです」
「ってか俺達がこんだけ喋ってるのに、あいつは全く反応しないよな」
「ごちゃごちゃ言うのはいいですから、触って下さい」
「どこを?」
「好きな所で良いです」
「いや駄目だろ」
「いいんです! さっさと肩でもポンポンと叩いて下さいよ」
「いや、肩に触れるにしてもさ、知り合いなら良いだろうけど、俺がやったらバイオ痴漢扱いされるんじゃないか?」
「バイオって何ですか。大丈夫ですから。ってか、いい加減に触れて下さいよ」
「わかったよ」
女子生徒の方に歩み寄り、肩を叩――いたと思ったが、手には何の感触も残らず、女子生徒の肩の中に埋まっていった。
「驚かないんですか?」
「いや、三津家の話を聞いたら、そういう事じゃないかと思ってたから」
空を切って、行き場の無い手をすぐに引き戻した。
そういうものだと思っていても、人に腕がめり込んでいるのは、どうにも気持ち悪い。
「三津家、落ち着け。これは夢だよ。俺達は古橋の授業で眠りこけてるだけだ」
「ただの夢って事ですか」
「それもちょっと違う。おそらく悪夢を見させる能力とか、そういう類いの力が行使されてるんだよ」
「……そうですね。私もそれは思いました」
「いや、それは嘘だろ。結構パニックになってたよな? 夢って事が分かれば、そんなに動揺したりしないはずだ」
「……ですが、起きられないんですよ。どうやっても」
「……確かに。夢だと思ってから、色々と考えてみてるけど、夢から覚めるってどうすれば良いんだろうな。身体を動かそうとしても、この身体が動くだけだし」
「そうなんです。だから困ってるんです」
「でも、結局はただの夢でしかないと思うよ。この能力者は眠りで脳の働きが低下してる俺達に悪夢を見させる程度の力だ。それ以上の強い能力者が俺の行動範囲に潜んでいたとは思えない」
「……そうですか」
「夢なら、いつか覚める。覚めてから能力者を見つけ出して排除すれば良い」
「ですが、私はこの不気味な場所から一刻でも早く出たいんです。どうにか方法はないですか?」
「そんなに不気味か? 普通に昼間の教室だけどな」
「じゃあ戸山君、窓の外を見て下さい」
言われたとおり窓から外を見てみる。
この教室からは校庭、そして外の道路と街が見えるのだが――その景色は静止していた。
人も車も無い。
木々が風に揺れる事も無く、雲も動かない。
「確かに不気味ではあるな」
「ですよね」
「この教室からは出られないのか?」
「それが出来たらやってますよ。ドアも窓も動かないんです。完全に閉じ込められてるんです」
「……そして教室には触れられない女子生徒か」
「霊体の少女です」
「三津家は幽霊とか信じるのか?」
「実体が無いから霊体と呼ぼうというだけの話です……ただ、今回の件は、それに近いものがあるんじゃないかと思ってます」
「どういうことだ?」
「世の中に蔓延る霊体験の一部には、こんな能力が関係しているんじゃないかな、と――例えば、洗脳の力なんかを使って、相手に悪夢を見させるようにするとします。洗脳によって改変された思考回路は能力者がいなくなってもそのままです。つまり、能力者の死後でも、呪いともいうべき影響を残す事は出来るんですよ」
「この夢が誰かの怨念によって作られたものだというのか?」
「そうですね。私はその霊体の少女が呪いと言うべき力を使ったんじゃないかと思ってます。だからこそ、このような状況になっている」
「でも、それは何かピントがずれてる気がするんだよな」
「何故ですか?」
「だって、俺はともかく三津家は転校初日だぞ。何で三津家が、この悪夢に巻き込まれてるんだよ」
「そうですね。それは疑問です……でも、あの時間帯に、あの教室で眠るというのが発動条件かもしれないですよね」
「でも、三津家はそこの女子生徒とは面識ないんだろ?」
「そうですが……」
「だったら違うよ」
「じゃあ、あの霊体はどうやって説明すれば……」
そうやって、三津家が不安げにしている様子を見て、意外と怖がりなんだなと思った。
まあ、静まり返った教室のこの空気感を考えると、飲まれてしまう気持ちも分からなくもない。
三津家のそういう一面を見ると、少し可愛いなと思ってしまう自分はかなり悪趣味だなと思う。
「とにかく、この件に関しては色々と考えていかないといけません。私はこんな力を使う能力者を知りません。だから、対処法を編み出すしかない」
「まあ、そうだな」
「何で、そんなに落ち着いていられるんですか?」
「もともとウチの師匠は自分で考えろというタイプだからな。先人の考えた方法論なんて教えて貰った事が無いから」
「そうなんですか」
「ああ。だから俺にとっては司崎の方が恐かったよ。あれはリアルに命の危険を感じたから。今回の件に関しては、まだ、能力者がどういう意図で俺達を巻き込んだかさえも分かってない。巻き込んでいる自覚さえ無いかもしれない」
「ですが……」
「少なくとも敵意があれば、もっと酷い扱いをされているだろ。俺達は、ここに放置されてるだけだ。まあ、とりあえず与えられた情報で、どんな能力か考えてみよう」
教室の後ろに行き、適当な椅子を五脚ほど横に並べる。
「何をしてるんですか?」
「俺はこういうスタイルで推理するんだよ」
そう言って、椅子に寝そべった
「寝ようとしてません?」
「いやいや、考えてるよ」
「犯人は誰なんでしょう」
「考えてる」
「どういう意図が考えられますか?」
「考えてるよ」
「どうしますか」
「一旦寝る」
「やっぱり寝るんじゃないですか!」
「睡眠不足で頭が動かない。眠すぎるんだよ」
「寝ないで下さい。夢の中で寝るなんて、とやとやまじゃないですか」
「何だよ、それ」
「もっと真剣になって下さいよ」
「でも、結局は単なる夢だからな。俺は三津家が涎を垂らして寝てるのを見てるから」
三津家は息を吸い、赤面する。
「そんな事をしても、現実世界では涎が垂れ流しだぞ」
「それを言ったら戸山君もです!」
「まあ、いいから五分だけ。五分だけ寝かせてくれ。三津家は俺より五分早く寝てるだろ」
「そうなんですか? 私がここに来て、もう何時間も経ってる気がします」
「外の世界とは時間の流れが違うんだな」
「じゃあ、目が覚めるのは……」
「単純に見積もって十時間以上先って事だな」
こんな所で三津家と十時間以上もいるとなると辛い。
三津家には追求されたくない事が山ほどある。
三津家の言う通り、何か方法を考えて、ここから出ないといけないという事だ。
「まあ、時間はあるんだ。五分くらい寝かしてくれよ」
「待って下さい。そんなに安易には考えられないですよ。ここで寝たら、意識がより深い場所に行って二度と戻って来られないかもしれないです」
「そっか。まあ、そういう可能性も無きにしも非ずだな」
俺は渋々起き上がった。
ここでなら、幾らでも眠れると思ったのだが。
「戸山君って他人の意見も聞くんですね」
「聞くよ。俺をどんな人間だと思ってんだよ」
そんな事を話してると、ふっと人の気配がする。
頭を上げると、七原がこくりと頭を垂らした所が見えた。
「七原、見損なったぞ。授業中に居眠りなんて」
「戸山君だってこっくりこっくりしてたじゃない……っていうか、今どういう状況?」
「俺達はおかしな能力で悪夢を見させられてる。それだけの事だよ」
「そうなんだ」
「七原さん、ちょっとでいいですか? 前の席のあの人の肩を叩いてみて下さい」
三津家はどうしても自分と同じように驚いて欲しいみたいだ。
七原は三津家の言われるままに、女子生徒の席に歩み寄る。
「あっ、すごい。身体を突き抜けるよ。戸山君、見て」
「どういう感情なんですか!」
三津家が怒りながら突っ込む。
「三津家。一人きりだったお前とは条件が違うから、それほど驚かないのも当然だよ」
「そうですね。フォローありがとうございます。怖がりというレッテルを貼られるのは心外なので」
「ところで、この子、誰なの?」
「ああ、そうだな。そう言えば後ろ姿しか見てないな。ウチのクラスではないと思うけど……」
そう言って、前に回って顔を見る。
すると、答えはすぐに出た。
「もしかして知り合いですか?」
「ああ、一年の時、同じクラスだった沼澤美礼って奴だよ」
「その沼澤さんは今どのクラスなの?」
「いや。沼澤はもういないよ」
教室が三津家の悲鳴で満たされた。
やはり怖がりである事は間違いないようである。




