朝
次の日。
……眠い。眠い。寝不足だ。
十回目のアラームでどうにか目を覚ましたものの、身体が泥のように重たい。
それでも無理矢理に身支度を済ませ、半分寝ながら学校に向かった。
教室に着くと、自分の席にドサっと腰を下ろす。
朝のショートホームルームは一眠りしよう。
そう思って頭を机に付けると、周囲の雑談から低いトーンの声が聞こえてきた。
「ねえ、実桜。聞いていい? あいつは何を企んでるの?」
七原の友人Aこと逢野亞梨沙の声である。
「あいつって誰の事?」
七原が聞き返す。
「戸山だよ」
逢野は一際低い声を出した。
「戸山君がどうしたの?」
「昨日さ。昔の友達から、『彼女と別れた』って電話が来てね。初めてそんな報告を受けたから、『何でそんな事を私に言うの?』って聞いたのよ。そしたら、その人は『戸山に色々とアドバイスを貰ってな』なんて事を言い出して……」
「別にアドバイスは悪い事じゃないじゃん」
佐藤千里が、ほわっとした声で言った。
「そうだけど、何であいつが絡んでるか分からないのがムカつくの」
「でも、なんか良い感じの電話じゃない? 恋愛の匂いがする」
「そ、そんな事じゃないと思う。絶対無い」
「いやいや。じゃないと、そんなこと態々電話しないって」
「確かに『とりあえず、今日は報告だけだから』とか意味深な事は言ってたんだけど」
「ほら、絶対そうだよ」
「でもさ。私、その人の好みのタイプじゃないから」
「何? その人って、亞梨沙が気になってるあの人って事?」
「違う! ってか、あの人が誰の事を指してるか分からないけどね!」
「いや、そのリアクションは絶対合ってるね――そう言えば、昨日戸山君に亞梨沙の幼馴染みの事について色々聞かれたな」
「!!!!」
――逢野は何も言わなかったが、彼女がどんな表情をしているかは手に取るように分かった。
「良かったじゃん。戸山君ってキューピッドなのかもね。委員長カップルも良い感じみたいだし、戸山君自身も……ね? 実桜」
「何の事やら」
「あれ? 昨日より否定が弱いんだけど、何かあった?」
「何も無いから」
「その様子からして、何かあったのは確実だね。私には実桜の心の声が聞こえるんだよ。ってか実桜、顔に出しすぎ――」
あの七原が心を読まれてる。
「――本当、こうなるとあれだね。戸山君って何? 愛の伝道師?」
気持ち悪い称号がついてしまった。
「だから、戸山君はそういうんじゃないから」
「これって上手く使えば結構なお金になるんじゃない? あー、駄目か。戸山君って見た目が、ひょろひょろだもんね。もうちょっとウエイトを増やせば説得力も出ると思うけど」
「やめて。ってか、戸山君に聞こえるよ」
「大丈夫でしょ。寝不足を絵に描いたような顔して来たし」
声が少し近くなり、こちらの方に顔を向けてるのが分かった。
――ダメだ。
これは動く訳にはいかなくなった。
少しでも反応を示せば、話を聞いていたのがバレてしまう。
けれども、耳を塞ぐ訳にもいかない。
『聞こえる力』ってこんなに辛いんだな、七原。
そんな事を思いながら、狸寝入りを続けた。
「そんな良いもんじゃないんだって。分かってよ、あいつは本当にサイコ野郎なんだから」
「まあまあ、いいじゃん。別に危害を加えられてる訳じゃないんだし」
感情が治まらない逢野を佐藤が宥める。
「まだ話は半分だから。あいつの奇行はそれだけじゃないの」
「何? まだ何かあるの?」
「ここからが更にホラーだから」
「ホラー?」
「今朝起きたらね。お姉ちゃんが高校の時の友達との蟠りが消えたなんて話をして来たのよ。その話を詳しく聞いてみたら、その友達から昨日の夜中に電話があったらしくて、お互いに誤解していたというか、単なる勘違いで溝が出来てたって事に気付いたらしい」
おそらく、急に放置状態になった雪嶋は、行き場の無いテンションを処理する為に逢野姉に電話したのだろう。
「それが戸山君に何の関係があるの?」
「それにもあいつが関係してるんだよ。お姉ちゃんはあいつのお陰で解決した、なんて言ってたから」
「そんな事があったんだ……まあ、そういう事も稀にあるよね」
と、七原。
「無いよ。全く無いよ。どういう状況で男子高校生が女子大生の喧嘩を仲裁するの? それも、以前から知り合いだったとか、そういう事も無く突然だよ」
「そうだね。それは確かに変かも」
佐藤も同調するが、話が恋愛沙汰じゃなくなった所為か、適当な感じである。
「しかも、それだけじゃないの。お姉ちゃんは言ったの。あいつには小深山君の事でも色々とお世話になったって――ああ、これは小深山君のお兄さんの事なんだけどさ――その小深山君のお兄さんとの関係が修復できたのも、全部あいつのお陰だって言うの」
「そんな事もある……よね?」
「無いよ。ってか、昨日の一日で一体何があったって言うの? 恐いんだけど。あいつが恐いんだけど。何で私の周りでコソコソ動いてるの?」
分からないものである。良かれと思って各所を這いずり回った結果が、一人の少女を脅えさせているとは。
「大丈夫だよ。私もずっと一緒にいたけど、そういう事じゃないから。戸山君はちょっとその……揉め事を解決したの。それがたまたま色々な結果を生んだってだけ」
「ちょっと待って、実桜。昨日あいつとずっと一緒にいたの?」
その発言は一気に周囲の注目を集めたのか、クラスメート達がザワつき始める。
ひそひそ話す声というのは、意外によく聞こえるものである。
「実桜。放課後、あいつと何をしてたの?」
「それは……えーと……」
さすがの七原も何を言えば良いか迷っているようだ。
――そんな時、後ろの方から挨拶を交わす小深山の声が近付いて来た。
そして、その声は何故か俺の直ぐ隣で静止する。
「おはよう、戸山」
と肩を揺らされる。
俺がどう反応したものかと思ってると、小深山は「もうすぐ、チャイムなるぞ」と続けた。
さも熟睡してましたよと言う感じを出しながら、顔を上げる。
すると、小深山は少女漫画から出て来たようなさわやかな笑顔を向けて来た。
「昨日はありがとな。また改めて礼をするよ」
「ああ。別にいいよ」
本当に一体何があったんだよ、昨日に――周囲から、そんな心の声が聞こえて来た気がする。
――そんな中、騒然とする教室とは何の関係もなく、チャイムが鳴り始めた。
それを好機と、何も無かったようにまた机に顔を付ける。
どうでもいい。
仲間を集めるとか、石版を集めるとか、そういう目的も趣味も無いので、彼ら彼女らの動きは気にしない事にしよう。
理解なんて必要ない。
自分にだって理解できない事をしてるんだから。
嫌われようが、驚かれようが、どうでもいい。
今は何よりも身体が重い。
クラスメート達が席に着いていき、「おはよう!」とテンションの高い声で教師が入ってくる。
早瀬に代わって担任を務める元副担の男性教師だ。
――何か様子がおかしい。
一瞬だけ教室が静まり返った後、またザワつき出した。
何事だろう。
だが、顔を上げるのも面倒だ。眠い。眠い。
「突然だけどな、転校生を紹介する」
転校生?
こんな中途半端な時期に転校生?
物凄く嫌な予感がして顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。
おいおい。そんな事までするのか。
無理が有るだろ、こいつを高校二年生だというのは。
転校生は黙ってチョークを手に取り、黒板に文字を並べる。
三津家陽向。
ミツヤヒナタというのは、こう書くらしい。
「三津家陽向です。よろしくお願いします」
三津家が微笑みを浮かべて、ぺこりとお辞儀をすると、担任代理は口を開いた。
「三津家さんは戸山君の知り合いだそうだ。転校したばかりで不安だから、戸山君と席を近くにして欲しいって頼まれたんだが……誰か席を代わってくれないか?」
「あ。俺、後ろに行きますよ」
隣の席の消火職人こと高梨が名乗りを上げる。
おい、高梨。お前がいなくなったら、俺の鞄に火が付いた時、誰が消してくれるんだよ。
そう思うが、高梨の荷物は既に纏められている。
準備万端。根回し済みなのだろう。
そこまでしているのなら仕方ない。何を言っても無駄だ。
三津家は高梨の席に着き、鞄を机の横に掛けると、こちらを振り向いた。
「戸山君、これからよろしくお願いします」
排除能力者をこんな所にぶち込んで来る。それも昨日の今日で――こうなると、学校関係者の関与は疑いようもないのである。




